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江戸の味、極めし者
江戸の味、極めし者
ちばぢぃ
歴史・時代江戸・幕末
2025年05月14日
公開日
5.7万字
連載中
江戸中期、類まれな味覚を持つグルメ家・佐久間宗太郎は、屋台から料亭まで食を巡り、評論で江戸を魅了。一躍時の人となるが、権力者や料理人の嫉妬を買い、命を狙われる。宗太郎は真の味を伝え続けるが、ついに暗殺者の刃に倒れる。彼の遺した言葉と味は、江戸の食文化を永遠に刻む。

第1話 屋台の味、宗太郎の舌


享保年間、江戸の深川。隅田川の川面に映る月が、ほのかに揺れていた。夜風がそよぐ中、川沿いの細い道には、提灯の明かりがぽつぽつと連なっている。焼き鳥の煙が漂い、脂の焼ける音がチリチリと響く。その屋台の前に立つ男が、佐久間宗太郎だった。


宗太郎は30歳。町人らしい簡素な藍色の着物に身を包み、腰には筆と紙を入れた小さな袋を提げている。背はさほど高くなく、顔立ちも平凡だが、瞳だけは異様に鋭い。彼の舌は、江戸中の料理人から「鬼の舌」と恐れられ、愛されていた。宗太郎は食を愛し、その味を言葉に変えるライターだった。彼の書く評は、読む者の腹を空かせ、店の運命を変える力を持っていた。


「親父、焼き鳥を二本。タレで頼む。」


宗太郎が声をかけると、屋台の親父・源蔵が炭火を扇ぎながら笑顔を向けた。源蔵は50歳を過ぎた頑強な男で、顔には無数の皺が刻まれている。だが、その目は少年のようだ。焼き鳥一本で客の心を掴む、それが源蔵の誇りだった。


「へい、宗太郎の旦那! 今日はどんな味が欲しいんだい?」


「いつも通り、親父の魂がこもったやつをな。」


源蔵は笑い、串に刺した鶏肉を炭火に置く。脂が滴り、炎が一瞬高く上がる。宗太郎は目を細め、煙の香りを深く吸い込んだ。焼き鳥の匂いは、江戸の夜そのものだった。雑多で、泥臭く、それでいてどこか温かい。


源蔵が串を差し出す。宗太郎は一本を受け取り、まずタレの光沢をじっと見つめた。濃すぎず、薄すぎず、まるで琥珀のように輝いている。彼は串を口に運び、ゆっくりと噛みしめた。鶏肉の歯ごたえ、タレの甘み、炭火のほのかな苦味が、舌の上で一瞬にして調和する。宗太郎の目がわずかに見開かれた。


「こいつは…まるで江戸の夜を凝縮した一品だ。」


彼の言葉に、源蔵は目を輝かせた。


「旦那、そりゃどういう意味だい?」


「この焼き鳥はな、親父の人生そのものだ。鶏は柔らかく、でも芯がある。タレは甘いが、どこか切ない。炭火の香りは、苦労の後にある喜びだ。こんな味、江戸のどこを探してもそうそう出会えねえ。」


源蔵は照れくさそうに頭をかき、しかし内心では喜びが爆発していた。宗太郎の言葉は、ただの褒め言葉ではない。彼の評は、客を呼び、店の名を上げる魔法の力を持っていた。事実、宗太郎が以前評した浅草のうなぎ屋は、彼の文章が広まった後、行列の絶えない店に変わったのだ。


その夜、宗太郎は屋台の隅に腰かけ、筆を走らせた。提灯の明かりの下、彼の文章はまるで生き物のように躍る。


深川の川辺、源蔵の焼き鳥屋。串一本に宿るは、江戸の魂。炭火の香りは夜風に乗り、タレの甘みは心を溶かす。鶏肉の歯ごたえは、生きる力を教えてくれる。わずか一文銭で味わえるこの幸福、江戸に生まれた我々の特権なり。





翌日、宗太郎の文章は町の版元を通じて刷られ、江戸中の茶屋や本屋に配られた。彼の評は、読む者の腹を鳴らし、心を掴んだ。源蔵の屋台には、たちまち客が押し寄せた。町人、職人、果ては旗本の供を連れた武士までが、焼き鳥を求めて列をなす。源蔵は目を丸くし、宗太郎に頭を下げた。


「旦那、こりゃあんたの筆のおかげだ! どうやって礼を言えばいいか…。」


「礼なら、親父の新作でいい。次は何を焼くつもりだ?」


宗太郎の笑顔に、源蔵は胸を張った。


「実はな、鶏の肝を特別なタレで焼く一品を考えてるんだ。旦那、試してみねえか?」


宗太郎は目を輝かせ、頷いた。こうして、彼の食の旅は続く。だが、この小さな屋台での出来事が、宗太郎の運命を大きく動かすことになるとは、彼自身まだ知らなかった。






数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となった。源蔵の屋台は「宗太郎の焼き鳥屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。だが、その名声は、思わぬ波紋を呼んでいた。神田の老舗料理屋「松葉屋」の主人・藤兵衛は、宗太郎の文章を読んで顔をしかめた。


「たかが屋台の焼き鳥が、わしの店の評判を凌ぐだと? あの佐久間宗太郎、ただの町人風情が…。」


藤兵衛の店は、旗本や豪商が通う高級な料理屋だ。宗太郎の評が庶民の屋台を称賛することで、松葉屋の客足がわずかに遠のいていた。藤兵衛は、宗太郎の舌と筆を危険なものと見なし、密かに策を練り始める。


一方、宗太郎はそんな深川の路地を歩き、次の店を探していた。彼の鼻は、どこからか漂う出汁の香りを捉える。宗太郎の舌は、すでに次の味を求めていた。


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