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第11話 (番外編) 幼少期の味、母の遺産


享保年間の江戸、深川の裏町。隅田川の支流が静かに流れ、葦の揺れる音が響く貧しい一角に、佐久間宗太郎、8歳の少年は住んでいた。下級武士の家に生まれた宗太郎は、父を早くに亡くし、病弱な母・雪乃と二人で暮らしていた。小さな土壁の家は、雨漏りが絶えず、畳は擦り切れていたが、雪乃の笑顔と料理の香りが、宗太郎の心を温めていた。宗太郎の舌は、すでに並外れた鋭さを見せ始めていた。市場の魚の匂い、屋台の出汁の香り、母の煮物の味。それらが、彼の小さな世界を彩っていた。


朝、宗太郎は母に手を引かれ、深川の市場へ向かった。雪乃は咳を堪えながら、わずかな銭を握り、宗太郎に微笑む。


「宗太郎、今日も何かいい食材を見つけようね。母さんの煮物、楽しみにしてて。」


宗太郎は目を輝かせ、頷いた。市場は、漁師や百姓、行商人の声で賑わう。イワシの銀鱗が朝日に輝き、大根や芋が籠に山積みだ。宗太郎は、魚の匂いを嗅ぎ分け、鮮度の良いイワシを指差した。


「母さん、このイワシ! 目が澄んでて、匂いが強いよ。焼いたら美味いよ!」


雪乃は驚きつつ、笑顔で漁師に銭を渡した。漁師の源助、後の源蔵の父だ。源助は宗太郎の鼻を褒め、余った小魚を一尾おまけした。宗太郎は、その小魚の匂いを嗅ぎ、塩焼きを想像して舌を鳴らした。


家に戻ると、雪乃は小さな囲炉裏でイワシを焼き始めた。塩を軽く振り、炭火の煙が立ち上る。宗太郎は、煙の香りに鼻をくすぐられ、母の手元をじっと見つめた。イワシの皮がパチパチと音を立て、脂が滴る。雪乃は、宗太郎に小さな芋粥を用意した。里芋を水で煮込み、味噌を溶いた素朴な一品だ。宗太郎は芋粥を啜り、目を閉じた。


舌が喜んだ。里芋のほのかな甘みが、味噌の塩気と調和し、舌の上で滑らかに広がる。囲炉裏の温もりが、粥の味を深める。宗太郎は、母の愛情を味わいながら、つぶやく。


「母さん、この芋粥、あったかいよ。里芋の甘みが、まるで母さんの笑顔みたいだ。」


雪乃は目を細め、宗太郎の頭を撫でた。イワシの塩焼きが運ばれ、宗太郎は一口噛んだ。皮のカリッとした食感、身のふっくらした旨味、塩のキレが舌を刺激する。宗太郎は、漁師の源助の顔を思い出し、こう言った。


「このイワシ、深川の川そのものだ。塩が、波の音を閉じ込めてる。」


雪乃は驚き、宗太郎の言葉に笑った。彼女は、宗太郎の舌が特別だと感じていた。市場での鋭い嗅覚、味を言葉で表現する力。それは、貧しい暮らしの中で輝く宝だった。


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その夜、雪乃は宗太郎に、特別な料理を用意した。市場で手に入れた残りの野菜と小魚を使い、雪乃が工夫した「野菜と魚の煮込み」だ。大根、人参、牛蒡を細かく切り、小魚の頭と骨で出汁を取る。醤油と味噌を控えめに使い、ほのかな塩気で仕上げた。宗太郎は、煮込みの香りを深く吸い込み、椀を手に取った。


舌が驚いた。大根の甘み、人参の柔らかさ、牛蒡の土の香りが、小魚の出汁と絡む。醤油と味噌の控えめな塩気が、野菜の味を引き立てる。宗太郎は目を閉じ、味の層を一つ一つ解剖した。この煮込みは、貧しさの中で生まれた母の知恵だった。


「母さん、この煮込み、深川の土と川が一緒だ。野菜の甘みが、まるで母さんの心みたいだ。」


雪乃は涙ぐみ、宗太郎を抱きしめた。彼女は、病で弱る体を押して、宗太郎に食の喜びを伝えようとしていた。宗太郎は、母の咳がひどくなっていることに気づき、心を痛めた。





数日後、雪乃の病は悪化した。宗太郎は、市場で食材を探し、母を喜ばせようと奔走した。銭は少なく、満足な食材は手に入らない。だが、宗太郎は、漁師の源助や百姓の老婆から、傷物の野菜や小さな魚を分けてもらう。源助は、宗太郎の真剣な目に心を動かされ、こう言った。


「坊主、いい鼻だな。お前の母貴、幸せもんだ。持ってけ、このイワシ。」


宗太郎は、源助に頭を下げ、家に戻った。彼は、母の教えを思い出し、野菜と魚を煮込んだ。だが、雪乃は食事を口にできず、宗太郎の手を握った。


「宗太郎、お前の舌は、江戸の宝だ。食で、皆の心を温めておくれ。母さんは、いつもそばにいるよ。」


その夜、雪乃は静かに息を引き取った。宗太郎は、母の最後の言葉を胸に刻み、涙を流した。囲炉裏の火は消え、煮込みの香りだけが残った。






翌日、宗太郎は、母の遺品の中から小さな紙を見つけた。そこには、雪乃が書いた料理の覚書があった。芋粥、塩焼き魚、野菜と魚の煮込み。貧しい食材で、愛情を込めたレシピだ。宗太郎は、母の遺志を継ぎ、食で庶民の誇りを守る決意を固めた。


その頃、市場で、宗太郎は一人の男と出会った。藤兵衛の父、権力者の料理人・藤蔵だ。藤蔵は、宗太郎の鋭い嗅覚に興味を持ち、声をかけた。


「坊主、いい鼻だな。料理人にならねえか? 俺の店で、でかい仕事ができるぜ。」


宗太郎は、藤蔵の傲慢な目に違和感を覚え、断った。藤蔵は笑い、去ったが、その目は宗太郎を覚えていた。この出会いが、後の藤兵衛との確執の遠因となる。


宗太郎は、深川の市場を歩きながら、母の煮込みの味を思い出した。彼の舌は、江戸の食を追い求める旅の第一歩を踏み出した。遠くで、源助の息子・源蔵が、宗太郎を見守っていた。


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