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第10話 佃煮の遺産、弟子の志


佃島の漁師町、秋の潮風が塩と魚の香りを運ぶ夜。佐久間宗太郎は、佃煮屋「浜田屋」の暖簾をくぐった。享保年間の江戸で、佃煮は漁師の知恵から生まれ、庶民の食卓を支える保存食として愛されていた。宗太郎は、芝の月見楼で宗右衛門の創作料理を評し、江戸中の話題となった今、佃煮の素朴な旨味を求めて舌を研ぎ澄ませていた。だが、松葉屋の藤兵衛と川柳の平蔵による偽装の策略、弥蔵の襲撃、そして源蔵の救援が、彼の心に重くのしかかっていた。腕のかすり傷は癒えつつあったが、宗太郎は、敵の刃がさらに近づいていることを感じていた。




浜田屋は、佃島の川沿いに佇む小さな店だ。木の看板には「佃煮」の文字が刻まれ、店内には昆布と小魚の甘辛い香りが漂う。店主の浜田藤次は、60歳を過ぎた痩せぎすの老人で、目には漁師の頑強さと職人の誇りが宿る。宗太郎はカウンターの隅に腰を下ろし、藤次の動きを観察した。鍋で煮込む佃煮の音、醤油と味醂の香りが、店の空気を満たす。


「藤次殿、昆布と小魚の佃煮を一皿。それと、貝の佃煮を一品頼む。」


藤次は静かに頷き、鍋から佃煮を盛り始めた。宗太郎は、佃煮の香りに鼻を動かした。店の客は、漁師や船頭、佃島の女衆たちだ。皆が佃煮を肴に酒を酌み交わし、笑い合う。宗太郎は、そんな光景に江戸庶民の絆を感じていた。だが、月見楼での干し椎茸の偽装、柳川の偽装うなぎの策略、弥蔵の襲撃が、彼の直感を刺激していた。彼の筆は、食文化を変える一方で、危険な敵を増やしていた。


やがて、佃煮が運ばれてきた。昆布と小魚の佃煮は、黒く輝く昆布に小魚が絡み、醤油と味醂の光沢が食欲をそそる。貝の佃煮は、浅蜊の小さな身が甘辛く煮込まれ、ほのかな塩気が漂う。宗太郎はまず昆布と小魚の佃煮を箸でつまみ、口に運んだ。


瞬間、舌が静かに喜んだ。昆布の旨味が、舌の上でじんわりと広がり、小魚のほのかな塩気がそれを引き立てる。醤油の鋭い塩気と味醂の甘みが調和し、煮汁の深みが味を締める。宗太郎の眉が上がり、つぶやく。


「この佃煮は、江戸の海の遺産だ。昆布と小魚が、漁師の知恵を語る。」


藤次は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に浅蜊の佃煮を味わった。貝の濃厚な旨味が、甘辛い煮汁に抱かれ、口の中で溶ける。ほのかな磯の香りが、鼻腔をくすぐる。宗太郎は、藤次の技に心から感服していた。


「藤次殿、浅蜊の佃煮は海の息吹そのもの。甘みと塩気が、佃島の歴史を煮込む。」


藤次はかすかに微笑み、そっと言った。


「佐久間殿、うちの佃煮をそう評してくれるなら、試作の一品を味わってみねえか?」


宗太郎は目を輝かせ、頷いた。藤次は奥から小さな皿を取り出し、昆布と小魚の佃煮に山椒を効かせた「山椒佃煮」を差し出した。さらに、干し海老と胡麻を煮込んだ「海老胡麻佃煮」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。


山椒佃煮は、昆布と小魚に山椒の緑が散り、ピリッとした香りが漂う。海老胡麻佃煮は、干し海老の赤と胡麻の金が輝き、濃厚な香りが食欲をそそる。宗太郎はまず山椒佃煮を口に運んだ。


舌が驚いた。昆布と小魚の旨味に、山椒の刺激が鋭く響く。醤油と味醂の甘辛さが、山椒の清涼感と調和し、舌の上で踊る。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、佃煮の伝統に新たな風を吹き込む、漁師の創造だった。


「藤次殿、この山椒佃煮は、江戸の海に山の風を重ねる。こんな佃煮、初めて食った。」


客たちがどよめき、藤次は照れくさそうに頭を下げた。宗太郎は次に海老胡麻佃煮を味わった。干し海老の濃厚な甘みと、胡麻の香ばしさが、醤油の塩気と絡む。煮汁の深みが、舌の奥で静かに響く。宗太郎は「海の金佃煮」と呼び、こう評した。


「海老の甘みは、佃島の波。胡麻の香りは、漁師の汗。この一品、江戸の海を煮込む。」


食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、佃煮の素朴さと創作の奥深さを映し出す。




佃浜田屋の佃煮、江戸の海の遺産を煮込みし一品。昆布と小魚は漁師の知恵を、浅蜊は磯の息吹を宿す。山椒佃煮は海と山の風を重ね、海老胡麻佃煮は波と汗を煮込む。この味、江戸の絆なり。




その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には佃島の茶屋や船着き場に広まった。浜田屋はたちまち客で溢れ、藤次は目を丸くした。宗太郎の筆は、佃煮を江戸の保存食の頂点に押し上げ、山椒佃煮と海老胡麻佃煮は「藤次の創作」として話題となった。藤次は宗太郎に頭を下げ、感謝の言葉を並べた。


「佐久間殿、あんたの言葉で、うちの佃煮が江戸中に知られた。山椒佃煮まで評してくれるなんて…どう礼を言えばいいか。」


「礼なら、藤次殿の次の佃煮でいい。どんな一品を考えてる?」


宗太郎の笑顔に、藤次は目を輝かせた。


「実はな、鮎の佃煮を試してる。川魚の旨味を、塩と醤油で締めるんだ。佐久間殿、食べてみねえか?」


宗太郎は頷き、食の旅を続ける決意を新たにした。だが、その時、店の奥から若い声が響いた。


「佐久間様! お待ちください!」


振り返ると、17歳ほどの少年が立っていた。浜田屋の奉公人、太郎だ。痩せた体に、漁師の息子らしい浅黒い肌。目は真っ直ぐで、熱い志を宿していた。太郎は頭を下げ、声を震わせて言った。


「佐久間様、俺、ずっとあんたの評を読んできた。あんたの言葉は、深川の焼き鳥や本所の豆腐を、俺たち漁師の誇りに変えた。俺、漁師の息子だが、佃煮じゃ満足できねえ。食の道を極めたい。あんたの弟子にしてください!」


宗太郎は目を細め、太郎を見つめた。少年の目は、かつての自分のように、食への情熱に燃えていた。だが、宗太郎は知っていた。弟子を取ることは、藤兵衛や平蔵の陰謀に、太郎を巻き込む危険を意味する。彼は静かに言った。


「太郎、俺の道は険しい。舌と筆で、江戸の食を変えるのはいいが、敵も多い。お前の覚悟は本物か?」


太郎は拳を握り、力強く頷いた。


「本物だ! 俺の父は漁師で、貧乏だった。佐久間様の評で、浜田屋が繁盛して、家族が救われた。俺も、あんたのようになりたい。食で江戸を変えたい!」


宗太郎は太郎の言葉に心を動かされた。だが、弥蔵の襲撃、藤兵衛の策略が脳裏をよぎる。彼は太郎に、しばらく考えて答えると約束し、浜田屋を後にした。






数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となり、浜田屋は「宗太郎の佃煮屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。山椒佃煮は漁師たちの間で「海の山椒」として愛され、海老胡麻佃煮は女衆の間で「金の肴」として評判となった。だが、宗太郎の影響力は、新たな波紋を呼んでいた。


藤兵衛と平蔵は、宗太郎の評が浜田屋をさらに有名にしたことに苛立ちを極めていた。偽装うなぎの策略は、宗太郎の鋭い舌に見破られる恐れから実行に移せずにいた。藤兵衛は、弥蔵と平蔵の手下を集め、薄暗い蔵で密談した。


「佐久間宗太郎の筆、ちと厄介すぎる。偽の評も偽装もうまくいかねえ。奴の舌を黙らせるには、もっと大胆な手が必要だ。」


弥蔵はにやりと笑い、頷いた。


「次の襲撃は、逃がさねえ。奴の宿を突き止めた。佃島の夜道で仕留めるぜ。」


平蔵も目を細め、付け加えた。


「奴が弟子を取るなんて噂も出てる。弟子まで増えたら、川柳の客はさらに減る。佐久間を消すなら、今だ。」


三人の会話は、闇に溶けていった。藤兵衛は、弥蔵に宗太郎を襲撃する新たな計画を命じ、平蔵には柳川への偽装を再開するよう指示した。彼らは、宗太郎の宿を監視し、佃島の夜道での襲撃を準備した。






その夜、宗太郎は浜田屋を再訪し、藤次の新作「鮎の佃煮」を試食した。鮎の繊細な旨味を、塩と醤油で煮込んだ一品は、川魚の清涼感を閉じ込めていた。宗太郎は「川の秋佃煮」と呼び、こう評した。


「鮎の旨味は、佃島の川の詩。塩と醤油は、漁師の汗。この一品、江戸の秋を煮込む。」


だが、帰り道、宗太郎は佃島の路地で、突然の気配を感じた。振り返ると、弥蔵と平蔵の手下が、刀を手に迫ってくる。宗太郎は身をかわし、川沿いの小道に逃げ込んだ。だが、暗闇の中で、弥蔵の刀が再び宗太郎の肩をかすめた。血が滴り、宗太郎は痛みを堪えた。そこに、太郎が駆けつけた。少年は、漁師の道具である網を手に、弥蔵の手下を絡め取った。


「佐久間様、逃げてください! 俺が食い止める!」


宗太郎は太郎の勇気に驚きつつ、川沿いの人混みに紛れた。太郎は、弥蔵の手下を網で抑え、宗太郎の逃走を助けた。宗太郎は、深川の源蔵の屋台に逃げ込み、傷を手当てした。源蔵は、太郎の行動を聞き、目を輝かせた。


「佐久間殿、あのガキ、たいしたもんだ。あんたの弟子にふさわしいぜ。」


宗太郎は、太郎の志を思い出し、決意した。弟子を取ることは、危険を増やすが、江戸の食文化を継承する道でもある。彼は、太郎を弟子として受け入れることを心に決めた。





宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、浜田屋の佃煮に感じた「江戸の絆」を記録し、藤次の創作と太郎の志を称賛する新たな評を準備した。だが、肩の傷が疼き、弥蔵の刃の冷たさが脳裏に蘇る。宗太郎は、藤兵衛と平蔵の陰謀が、命を狙う直接的な襲撃に変わったことを悟った。


路地の闇の中、弥蔵と平蔵の手下は、宗太郎の次の動きを窺っていた。藤兵衛は、宗太郎の弟子の噂に苛立ち、新たな刺客を雇う計画を立てていた。宗太郎の舌と筆が、江戸の食の地図を塗り替える中、暗殺の罠が一歩ずつ迫っていた。



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