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第26話 下関での会合、沙羅の涙と新たな旅立ち


山口の下関、春の夜が海を冷たく包む朝。

佐藤宗次こと佐久間宗太郎は、弟子・太郎の死から一夜明けた宿で目を覚ました。

九州を巡り、中国地方へ足を踏み入れた宗太郎は、博多を拠点に各地で評を広め、偽名を使い江戸での暗殺未遂を逃れていた。

だが、大分で沙羅の偽評「海人」が太郎の評を盗み、山口で太郎が刺客・鉄蔵に命を奪われた。黒崎藤十郎と松葉屋の藤兵衛の陰謀が、刺客・弥蔵のスパイ・宗助と沙羅を通じて宗太郎を追い詰める中、太郎の死が宗太郎の心に深い傷を刻んだ。



宿の窓から下関の海を見つめる宗太郎。そこへ、宿の主・弥平が一通の手紙を持ってきた。差出人は「海人」。中を開けると、沙羅の筆跡でこう綴られていた。



佐藤宗次殿

私の仲間が、そなたの弟子・太郎の命を頂戴してしまい、誠に申し訳ない。一度話をしたい。そなたの怒りはもっともだ。だが、私にも言い分がある。返信を待っている。

海人



宗太郎は手紙を握り、目を閉じた。遺品の血に染まった筆と紙を眺めた。沙羅が偽評で太郎を貶め、その結果、刺客が動いたことは明らかだった。だが、沙羅の悔恨を感じる文面に一瞬迷った。すぐに筆を取り、返信を書いた。



海人殿

弟子・太郎の命を奪った罪は重い。そなたの言い分を聞こう。だが、真実が明らかになるまで、俺の怒りは消えぬ。下関の屋台「瓦香」で待つ。夕刻に来い。

佐藤宗次



宗太郎は弥平に手紙を託し、沙羅に届けるよう頼んだ。弥平は黙って頷き、市場へ向かった。




昼下がり、下関の市場は静かだった。宗太郎は太郎の遺品である筆と紙を手に、瓦香へ向かった。店主の源蔵は、太郎の死を知り、宗太郎に深く頭を下げた。



「佐藤さん、太郎のことは…俺も悔しい。あいつ、瓦そばをうまいって評してくれたのに…。」



宗太郎は源蔵の言葉に頷き、カウンターに腰を下ろした。



「源蔵殿、今日は客を入れず、話をさせてくれ。海人と会う。」



源蔵は目を丸くしたが、すぐに店の暖簾を下ろし、準備を始めた。宗太郎は、沙羅との対話を心に描きながら、海を見つめた。



夕刻になり、瓦香の戸が静かに開いた。沙羅が現れ、漁師姿の装いを脱ぎ、素の姿を見せた。20代後半の女で、鋭い目つきに悔恨の色が浮かぶ。沙羅は宗太郎の前に座り、深く頭を下げた。



「佐藤宗次…いや、佐久間宗太郎殿。私は沙羅だ。海人として偽評を書き、太郎を貶めた。だが、太郎の死は私の意図したものではない。」



宗太郎は冷たく沙羅を見据えた。



「沙羅、そなたの偽評が太郎の死を招いた。藤十郎の指示とはいえ、そなたの筆が太郎を追い詰めた。言い分を聞こう。だが、俺の怒りは消えん。」



沙羅は目を伏せ、声を震わせて語り始めた。やがて、涙が頬を伝った。



「私は、海人という名で、そなたらと勝負したかった。太郎殿の純粋な評に、私も筆を磨きたかったんだ。だが…夜街を歩いてた太郎殿を私の仲間が見つけて、命を落としてしまった。」



沙羅は嗚咽を抑えきれず、テーブルに手を置いて頭を下げた。宗太郎は沙羅の涙を見たが、内心の怒りを抑えた。



「沙羅、勝負とはいえ、そなたの偽評が太郎を標的にした。夜街での襲撃は、藤十郎の刺客・鉄蔵の仕業だ。そなたの仲間が動いた事実は変わらん。」



沙羅は涙を拭い、顔を上げて訴えた。



「その通りだ。私は藤十郎に拾われた孤児で、博多で育った。藤十郎の利権を守るため、スパイとして動いてきた。太郎の評を盗み、偽評で勝負しようとした。だが、太郎の死は鉄蔵の独断だ。藤十郎は刺客を送るつもりだったが、鉄蔵が先走った。私は…その報せを聞いて、初めて自分の罪の重さを知った。」



宗太郎は沙羅の言葉に一瞬沈黙した。沙羅の悔恨は本物に思えたが、太郎の死の痛みが宗太郎の心を支配していた。



「沙羅、そなたの悔恨は伝わる。だが、太郎の命は戻らぬ。藤十郎を止める手助けが、そなたの罪を償う第一歩だ。どうするつもりだ?」



沙羅は涙を堪え、決意を込めて言った。



「藤十郎には、私から報告する。宗太郎を自由にさせてくれと頼む。藩主を伝い、藤十郎に伝言を届ける。藤十郎の命令で動いてきたが、もうそなたを狙うことはできない。太郎殿の死を無駄にしたくない。」



宗太郎は沙羅の言葉に目を細めた。沙羅の提案は、藤十郎との対決への新たな道を開くかもしれない。



「沙羅、そなたが藤十郎に立ち向かうなら、俺も信じてみる。鉄蔵と藤十郎の動きを教えろ。そして、そなたの行動で証明せよ。」



沙羅は頷き、情報を明かした。



「鉄蔵は藤十郎の直属の刺客だ。宗助と共に、私を監視しながら動いている。藤十郎は下関の海の利権を狙い、刺客を増やしてそなたを狙うつもりだ。次の刺客は、下関の港でそなたを襲う計画だ。」




その夜、沙羅は下関の藩主の屋敷へ向かい、密かに藤十郎に伝言を届けた。藩主を通じて沙羅の訴えが藤十郎の耳に届き、藤十郎は渋々ながら暗殺計画を一旦中止する決断を下した。藤十郎は部下を呼び、苛立ちを隠さなかった。



「沙羅が宗太郎を自由にしろだと? 下関の利権が危うくなるが…今は動きを止める。だが、目を離すな。宗太郎が動けば、即座に鉄蔵を放て。」



宗助は頷き、沙羅の行動を監視し続けた。




翌朝、沙羅は瓦香に戻り、宗太郎に報告した。



「宗太郎、藩主を通じて藤十郎に伝言を届けた。暗殺計画は一旦なくなった。そなたは自由だ。」



宗太郎は沙羅の言葉に安堵しつつ、深く感謝した。



「沙羅、そなたの行動に感謝する。太郎の死は償えぬが、そなたの贖罪の第一歩を認める。藤十郎の目はまだ離れぬだろうが、俺は次の地へ進む。」



沙羅は目を潤ませ、頭を下げた。



「宗太郎、太郎殿の死を無駄にしない。私も藤十郎を止めるために動く。」



宗太郎は沙羅に頷き、太郎の遺品である筆と紙を手に持った。



「俺は広島へ向かう。沙羅、そなたも自分の道を進め。」



宗太郎は沙羅に別れを告げ、下関を後にした。春の下関の海を背に、広島への道を歩み始める。太郎の死を胸に刻みつつ、新たな味を探求する旅が続く。

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