広島の港町、春の陽射しが瀬戸内海を穏やかに照らす昼下がり。佐藤宗次こと佐久間宗太郎は、広島の市場で出会った「瀬戸」に再び足を運んでいた。九州を巡り、中国地方へ旅を進めた宗太郎は、博多を拠点に各地で評を広め、偽名を使い江戸での暗殺未遂を逃れていた。山口で弟子・太郎が刺客に命を奪われ、沙羅の協力で藤十郎の暗殺計画が一旦中止となったが、黒崎藤十郎と松葉屋の藤兵衛の陰謀は遠くで響き続けていた。前日、宗太郎は「瀬戸」で店主・辰五郎とその娘・鮎子に出会い、広島の牡蠣を味わった。その時、17歳の鮎子の優しい笑顔に一目惚れし、心が揺れ動いていた。
市場を歩く宗太郎の足は、自然と「瀬戸」へ向かっていた。沙羅への心配は薄れ、鮎子の笑顔が頭から離れない。宗太郎は自問した。
(俺は旅の身だ。愛など、俺には無縁のはず…。だが、鮎子の笑顔が、俺の心を温める…。)
「瀬戸」の暖簾をくぐると、鮎子がカウンターで客を迎えていた。宗太郎を見つけると、彼女は目を輝かせて笑った。
「宗次さん! また来てくれた! 昨日、父さんが宗次さんの評を読んで、すごく喜んでたよ!」
宗太郎は鮎子の笑顔に胸が高鳴り、カウンターに腰を下ろした。
「鮎子、そなたの笑顔が俺を呼び寄せたようだ。今日は辰五郎殿の新たな牡蠣料理を味わいに来た。」
鮎子は頷き、奥へ声をかけた。
「父さん、宗次さんがまた来てくれた! 新しい牡蠣料理を出すよ!」
辰五郎が現れ、宗太郎に笑顔を見せた。
「宗次殿、ようこそ。昨日は評をありがとう。今日はうちの試作、牡蠣の蒸し物を味わってくれ。」
鮎子が運んできたのは、牡蠣の蒸し物だった。
牡蠣の蒸し物は、瀬戸内の牡蠣が酒と生姜で蒸され、葱が香る。
宗太郎は蒸し物の香りを嗅ぎ、一口味わった。牡蠣の濃厚な旨味が、生姜の清涼感と酒の風味に溶ける。宗太郎は目を閉じ、評を紡いだ。
「この牡蠣の蒸し物、広島の海の深さだ。生姜と酒が、瀬戸内の恵みを蒸し上げる。」
宗太郎は筆を取り、評を書いた。
瀬戸の牡蠣、広島の海の深みを味わう。蒸し物は生姜と酒が効き、瀬戸内の恵みを蒸し上げる。広島の温もりに、弟子・太郎の笑顔が重なる。
評を見た鮎子は手を叩き、辰五郎も満足そうに頷いた。宗太郎は鮎子を見つめ、胸の高鳴りを抑えきれなかった。彼女の純粋な笑顔が、太郎の死で冷えた心を溶かしていた。
夕方、店が落ち着いた頃、宗太郎は鮎子を店の外に呼び出した。瀬戸内海の夕陽が海を赤く染める中、宗太郎は意を決して言った。
「鮎子、そなたに伝えたいことがある。俺は昨日、そなたに一目惚れした。旅を続ける身だが、そなたの笑顔が俺の心を離さぬ。」
鮎子は目を丸くし、頬を赤らめた。
「宗次さん…そんなこと、初めて言われた…。私も、宗次さんが来てくれて嬉しいよ。でも…。」
宗太郎は真剣な目で続けた。
「俺は全国各地を旅し、味を評する。結納の条件として、俺に着いてきてほしい。だが、旅には危険がつきものだ。命の保証はできぬ。…それでも、そなたと共に行きたい。」
鮎子は宗太郎の言葉に戸惑い、目を伏せた。
「宗次さん…そんな大事なこと、急に言われても…。旅に着いていくなんて、私には想像もできない。でも、宗次さんがそう思ってくれるのは…嬉しい。」
鮎子は困惑したまま、店内に戻り、辰五郎に相談した。
「父さん、宗次さんが…私に旅に着いてきてほしいって。結納の条件だって言うの。でも、命の保証はできないって…。私、どうすればいい?」
辰五郎は娘の言葉に驚きつつ、静かに答えた。
「鮎子、宗次殿は旅の評名人だ。危険な道を歩んできた男だ。そなたがその旅に着いていく覚悟があるなら、俺は反対せん。だが、命の保証がない旅だ。よく考えるんだ。」
鮎子は頷き、胸に手を当てて考え込んだ。宗太郎の真剣な目と、旅への情熱が心に響いていた。だが、命の危険を伴う旅に、17歳の彼女はまだ答えを出せなかった。
宗太郎は「瀬戸」の外で夕陽を見つめ、鮎子の答えを待った。彼女の戸惑いを感じつつも、初めて芽生えた愛情に心が震えていた。
「鮎子…俺はそなたを危険に晒したくない。だが、そなたと共に見る味が、俺の評を新たにする気がする。」
その夜、宗太郎は宿で鮎子の答えを待ちながら、広島にしばらく留まることを決めた。沙羅や藤十郎の動向は遠くに感じつつ、鮎子との未来を初めて夢見た。