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第2話 桜の下の約束

佐藤悠斗は、享保年間の江戸での生活に少しずつ慣れ始めていた。さくらの家に居候して一週間が経ち、町奉行所の書庫での仕事も軌道に乗っていた。


現代の知識を活かした計算や整理術は、さくらの父・庄左衛門から高い評価を受けていた。だが、悠斗の心には、いつ現代に戻されるかわからないという不安が常に付きまとっていた。


朝、さくらの声で目が覚めた。

「悠斗殿、朝餉の支度ができたぞ。早く起きなされ。」


障子越しに見えるさくらの姿は、薄桃色の着物に袖を通し、髪を結い上げている。彼女の声は明るく、まるでこの家に悠斗がいるのが当たり前のようだった。

悠斗は布団から起き上がり、粗末な着物に袖を通した。現代のスーツは、さくらの提案で押し入れの奥に隠してあった。


朝餉の膳には、味噌汁と焼き魚、漬物が並んでいた。さくらは父の分を先に用意し、庄左衛門が出勤するのを見送った後、悠斗と二人で食事を始めた。

「悠斗殿、そなた、奉行所での仕事、父上が大層褒めておったぞ。『あやつの算術はまるで神業だ』とな。」


「そうか…。よかった。俺、こういうの得意だから。」

悠斗は笑顔で答えたが、内心では複雑な思いを抱えていた。


現代では当たり前の知識が、ここでは特別なものとして扱われる。そのギャップが、悠斗をこの時代に馴染ませつつも、どこか浮いた存在にさせていた。


食後、さくらと一緒に奉行所へ向かった。

書庫の仕事は、帳簿の整理や税金の計算が中心だった。さくらは几帳面に巻物を広げ、筆で数字を書き込んでいく。

悠斗はその横で、現代の簿記知識を活かし、効率的な計算方法を教えた。

「こうやって、合計を先に計算して、あとは差分を埋めていくんだ。時間短縮になるよ。」


「ほぅ…。確かにその方が早いな。悠斗殿、そなた、ほんに不思議な人じゃ。」

さくらは目を輝かせながらも、どこか探るような視線を向けてきた。

悠斗は一瞬緊張したが、彼女はすぐに笑顔に戻り、仕事を続けた。


昼休み、さくらは悠斗を奉行所の裏庭に連れ出した。そこには小さな桜の木があり、春の陽光に照らされて花びらが舞っていた。さくらは木の下に腰を下ろし、悠斗を隣に座らせた。


「この桜、母上が好きだった木なんじゃ。毎年、春になると一緒に眺めたものじゃよ。」

さくらの声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。

悠斗は黙って耳を傾けた。


「母上は、わたくしが十の時に病で亡くなった。それから父上と二人、なんとかやってきたのじゃ。父上は厳しい人じゃが、わたくしを大切に思ってくれている。…悠斗殿、そなたには両親はおるのか?」

さくらの質問に、悠斗は一瞬言葉に詰まった。


現代の家族のことを話すのは危険だと感じていた。

「うん、いるよ。でも…遠くに住んでて、なかなか会えないんだ。」


「そうか…。それは寂しいな。されど、こうやってそなたと桜を見られるのは、嬉しいことじゃ。」

さくらは微笑み、桜の花びらを手に取った。


その仕草に、悠斗は胸が温かくなるのを感じた。


彼女の純粋さと優しさが、現代の自分には欠けていたものだと気づかされた。

その夜、さくらの家で夕餉を囲んでいると、庄左衛門が口を開いた。

「悠斗、そなた、書庫での働きぶり、誠に見事だ。このまま奉行所で正式に働いてもらいたいと思うが、どうだ?」


「え…それは、ありがたいです。」

悠斗は驚きながらも、頭を下げた。


庄左衛門は満足そうに頷き、さくらも嬉しそうに笑った。この時代に根を下ろす可能性が、少しずつ現実味を帯びてきた。

だが、その瞬間、視界が揺れた。まるで水面が波打つように、世界が歪み、頭に鈍い痛みが走った。悠斗は慌てて目を閉じ、深呼吸して平静を装った。さくらと庄左衛門は何も気づいていないようだったが、悠斗の心は冷や汗で濡れていた。


あの歪みは、タイムループの兆候だ。いつ引き戻されるかわからない恐怖が、悠斗を締め付けた。


翌日、さくらは悠斗を町の市場に連れ出した。奉行所の仕事が一段落し、気分転換にと誘われたのだ。市場は人で賑わい、屋台の匂いが漂っていた。さくらは子供たちに囲まれ、駄菓子を分け与えていた。


「さくら、子供たちに人気だな。」


「うむ。母上がそうしていたから、わたくしも真似ておるのじゃ。幸せは、分け合うことで大きくなる、と教わった。」

さくらの言葉に、悠斗は現代の自分の生活を思い出した。


誰かと何かを分かち合うことなど、考えたこともなかった。彼女の笑顔を見ていると、胸の奥が熱くなった。市場からの帰り道、さくらは突然立ち止まり、悠斗を真剣な目で見つめた。


「悠斗殿、そなた、ほんにこの時代の人ではないな?」


「え…どうしてそう思うの?」


「そなたの言葉遣い、知識、仕草…。すべてがこの町の者と違う。まるで、遠く遠くから来た者のようじゃ。…未来から、とか?」

さくらの言葉に、悠斗は息を飲んだ。


彼女は冗談めかして言ったつもりかもしれないが、その目は真剣だった。悠斗は誤魔化すように笑った。

「さくら、面白いこと言うな。俺、ただの旅人だよ。」


「…そうか。なら、よいのじゃ。されど、そなたが何者であれ、わたくしには関係ない。そなたがここにいてくれるだけで、嬉しい。」

さくらの言葉に、悠斗は安堵しつつも、罪悪感を感じた。

彼女に本当のことを話すべきか、悩み始めた。


その夜、さくらの家で月を見ながら、悠斗は再び視界の歪みに襲われた。今度は前回よりも強く、耳鳴りが響き、頭が割れるような痛みが走った。悠斗は庭に膝をつき、必死で耐えた。

さくらが慌てて駆け寄ってきた。

「悠斗殿、どうしたのじゃ!? 大丈夫か?」


「…うん、ちょっと…頭が痛いだけ…。」


「無理せぬようにな。…そなた、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと、時々思うのじゃ。」

さくらの言葉に、悠斗は胸を締め付けられた。


彼女は何も知らないはずなのに、まるで運命を予感しているようだった。翌日、悠斗は奉行所の仕事の合間に、神社のことを調べ始めた。

タイムループの原因が、あの神社と灯籠にあるのは間違いない。書庫の古い記録を漁ると、さくらが手伝ってくれた。


「悠斗殿、何を探しておるのじゃ?」


「…この町の神社のこと。昔の伝承とか、知りたくて。」


「ふむ…。なら、この巻物を見てみよ。古い神社の記録じゃ。」

さくらが差し出した巻物には、町外れの神社の歴史が記されていた。


そこには、「時を繋ぐ灯籠」という記述があった。

過去に、灯籠に触れた者が突然姿を消し、数年後に再び現れたという逸話が残されていた。悠斗は背筋が寒くなった。

自分が経験しているタイムループは、この神社の力によるものだと確信した。

仕事の後、さくらは悠斗を再び桜の木の下に連れて行った。夕陽に照らされた桜は、まるで燃えるように美しかった。


さくらは一枚の花びらを手に取り、悠斗に差し出した。

「悠斗殿、この桜を覚えておいてな。そなたがどこへ行こうとも、この桜がそなたをわたくしに繋いでくれると、信じておる。」


「…さくら、ありがとう。俺も、この桜、絶対忘れない。」

悠斗はさくらの手を握り、約束した。


だが、心の奥で、タイムループの影がちらついていた。

この約束を守れるのか、自信がなかった。その夜、悠斗は再び視界の歪みに襲われた。

今度は、庭に立っているさくらの姿が、まるで幻のように揺らいだ。彼女が何か言っているのに、声が届かない。悠斗は必死で彼女に手を伸ばしたが、次の瞬間、視界が暗転した。



to be continued.....

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