とある豪商の屋敷の二階。その屋敷の主であるテライル・ジャッカーが自身の執務室で一人書類に目を通していると、不意に、窓にかけてあったカーテンが風にたなびいた。
「ん?」
閉じていた筈の窓から入って来る風に気付いたテライルが不審に思って視線を動かすと、すぐ横に黒尽くめの貴婦人が立っている事に気付き、彼はぎょっと固まってしまう。
「なっ……」
「私ですわ。お忘れですか?」
そんな彼に、女は口元に笑みを浮かべつつ落ち着いた声をかけた。まるで旧知の中であるかの様に。
「くっ、お前か……勝手に入って来られては不快なのだがな……」
「ふふふ、私を――
「ふん」
「それで?今回のターゲットはどちらなのですか?」
不機嫌そうなテライルを無視して、女は自分が受ける依頼の話を進める。
「コーガス侯爵家の当主とその代理だ」
「おやまあ……いいんですか?その二人を始末してしまっては、折角の爵位が消えてなくなってしまいますよ?先代とその妻を殺してまで維持しようとしたって言うのに」
テライル・ジャッカーは、コーガス侯爵家から叙爵を受けた者の一人だ。
そして……レイミー達の両親の殺害を闇蠍に依頼した人物でもある。
そう、コーガス侯爵家の先代夫婦は暗殺されていたのだ。病死に見せかける形で。
実質没落していた家門の貴族を何のために暗殺したのか? それはレイミー達の両親が、王国に爵位の返上をしようとしていたからである。
――要は、貴族を辞めようとしていたのだ。
この王国では、親の借金を子が引き継ぐ事を強制する法律はない。つまり、その気になれば放棄できるのだ。もちろんその場合、他の遺産も同時に放棄する事になるが。
だが、その中で唯一例外となる存在があった。それが貴族である。彼らだけは、負債も強制的に引き継ぐ事になってしまう。だから、レイミー達の両親は爵位を国に返上しようとしたのだ。
貴族で無くなれば、彼らの更に先代が残した借金を子供達に引き継がせる事もない。更に家計を圧迫していた貴族会議にも出る必要がなくなる。まさに良い事ずくめ。彼らが爵位を返上しようとするのは当たり前の事と言えるだろう。
――契約上、その行為が問題なかったというのも大きい。
十二家はプライドの高い貴族が、爵位の返上をする事など夢にも考えていなかった。だからコーガス侯爵家の、爵位の返上を禁じる条項は設けていなかったのだ。
そして2年前の貴族会議で、先代夫婦はそれを実行するはずだった。多くの貴族の目の前で悲惨な現状を国王に訴えれば、却下される心配もないと判断し。
だが、十二家からの妨害を危惧し、隠していた筈のその情報は外に漏れてしまう。その結果、情報を耳にしたテライル・ジャッカーによって暗殺の依頼がなされ――
レイミーの両親は病気に見せかけて毒殺されてしまう事となる。
「事情が変わった。このままでは私が大損してしまう」
「事情ですか?ま、此方としては一向に構いませんけど。でも……親子二代に渡って暗殺されるなんて、可哀そうな話ではありますね」
「ふん、これからそれを実行しようとしている暗殺者の言う事か」
「ふふふ、そうですわね。それで?前回の様に病死に見せかければ宜しいんですか」
「ああ。だが気を付けろ。今のコーガス侯爵家は以前とは違う。パトロンが居て、今じゃ屋敷に警備まで付いている始末だ」
「ふふふ、我々闇蠍を侮って貰っては困りますわ。少々警備が付いた程度、なんの支障もありません。私がこの場にいるのが何よりの証拠。違いますか」
「……」
厳重な警備を敷いている自分の屋敷に、誰にも知られず侵入してきた女。そんな女に目の前でそう言われれば、テライルも納得せざる得ないだろう。
「とはいえ……難易度が上がる以上、お値段は上乗せする事になりますが。宜しいですか?」
「構わん。確実に始末しろ。証拠は絶対残すなよ。絶対に」
相手は貴族。それも高位の。万一証拠から依頼主に辿り着く事があれば、テライル・ジャッカーは身の破滅である。なので、彼は証拠の隠滅を闇蠍に強く求めた。
「ご心配ありませんわ。私達は常に完璧を心がけておりますので。現金の受け渡しが確認され次第、仕事へと移らせていただきますね。では――」
女はそう告げると、窓際まで優美に移動する。そして彼女は音もなく窓の外、暗闇の中へと身を投げ出し消えてしまう。
「何らかの魔法か。しかし……窓ぐらいちゃんと締めて行け」
テライルはそう不機嫌そうにつぶやくと自ら窓を閉じにいき、それから自身の仕事に戻るのだった。