〇県〇市×××町。
その地名を出せば大体の人が首を傾げるか、あるいはどれだけの田舎なのだと思うだろうが、そこまで不便は感じないし、夜には閉まってしまうもののコンビニだってある。
それに車さえあれば24時間営業のコンビニやスーパーが有る街へ辿り着けるような、超が付かない程度のド田舎と言った所か。
まぁ、私を含めた免許を持たない学生や子供なんかの移動はもっぱら自転車で、巷で流行っている物を当たり前に知っているくらいには発展していたし、建物や人よりも樹木や田畑の方が多いこと以外は、普通の田舎だと思う。ジャスコも同じ市内にあるし。
だからこそ――そんな片田舎の畦道に佇んだ“彼”は、異彩を放って見えたんだ。
流すように整えられた短い黒髪に、精悍な眉間と鼻筋。シワ一つ無い白のカッターシャツが暖色の陽射しを微かに反射させていて、田舎じゃ見慣れぬ出で立ちをしたその人は、トラクターやコンバインしか通らない
(……? 何を見てるんだろ?)
散歩中だった私は足を止めて、彼の目線の先へ首を向けると、生暖かい風の中を案山子が揺れているのが見えた。
彼は私が足を止めた事にも気付かず、どうやらボロ切れの様な衣類を風に揺らす案山子を凝望していたらしい。
物珍しさの余り立ち止まって凝視するのも失礼なので、この時の私は「近くで法事でもあったのかな」くらいに思い、再び歩を進めて――直ぐに足を止める。
それは遠くを凝望し続ける彼の背中とすれ違う間際の事だった。
(…………なにこれ)
彼の足元に置かれた『クーラーボックス』が私の視線を釘付けにする。
どう見ても釣り人の恰好じゃないし、この近くには海が無い。何より、無数に張られていたステッカーかと思っていたソレはお札……異様さと共に事件の臭いがした。
基本的にと言うのも失礼だが、田舎の人間はまぁ暇なのである。それが高校を卒業した後、進学も就職もせずに家へ籠って、趣味である散歩と料理くらいしかやる事の無い平坦な毎日を送る身となれば尚更であった。
と、言っても声を掛ける勇気なんて勿論無いし、そのつもりも更々ない。彼が私へ気付いた暁には、素知らぬ顔で通り過ぎていくつもりだった。
そこから少し歩を進めた先で、私は振り返る。相変わらず彼は眉一つ動かさず、田園で揺れる案山子を見詰めたままだった。
時折その大柄な体を前屈みにさせ、あるいは手で双眼鏡を模しながら顎を突き出すようにして――。
(……何がそんなに気になるのかな)
私は着用していたサングラスを額の位置へずらし、明瞭になった視界で再び眼を凝らした。
すると私が見ていた案山子よりも更に奥側で、その“何か”は見えた。
「何あれ……?」
それは思わず口にしてしまう程――“変な案山子”だった。
水を張った田園の中央で、人ぐらいの大きさをした白い物体が『くねくね』と踊る様に揺れ動いている。
彼が見ていたと思われる普通の案山子よりも、それはずっと向こう側に有ったらしい。
「――――あれが視えてんなら、あまり見ない方が良いぞ」
と――彼が声を発したのは突然の事だった。
見た目通りの低い声。ドキリと揺れた私の身体が反射的に視線を泳がせ……眼が合う。彼が私を見ていた。
一見、女性らしくも見える明瞭な二重の中央には割合の大きな黒目が浮かび、凍るような眼差しが硬質なまつ毛に縁取られている。なんだか悲しげな印象を受ける瞳が私を見て――。
「…………あ、え……と……」
咄嗟に目を逸らした私はサングラスを掛け直す。しかし刹那の瞬間であっても、私の脳裏には彼の特徴的な眼が鮮明に焼き付いていた。
私は遅れて自身の心拍数が再び跳ね上がったのを知る。梅雨時期の絶妙な湿気のせいではない汗が手のひらに滲み始めた。
すると田園の向こうへ視線を戻した彼は、声だけで尋ねる。
「……さっきからチラチラと俺に何か用か?」
怪訝な声。歳は19の私より10程度上の20代後半か。それとも若めに見える30代中盤。とにかく年齢不詳と言う言葉がピッタリで、捲った袖から露呈した前腕は隆々と筋張っており、武骨な態度と大柄な体躯のせいか威圧的な雰囲気を感じる。
いいや、現に威嚇されているのだ。
気を付けていたのに、普段なら絶対に人前でサングラスを外さないのに――おおよそ7年ぶりに人と眼を合わせた私は、緊張のあまり頭の中が真っ白になっていた。
「あ、あいあ……いや、その……」
「なんだ? 用があるならそう言え」
声が上擦る。胃がキリキリする。その間にも彼はクーラーボックスの上へ置いていた双眼鏡を手に取って次の動作へ移っていた。
私も私で早く謝ってこの場を去れば良いものの、竦んだ足がそうさせてくれない。
「それともなんだ、イモ娘にとっちゃ地元以外の人間が宇宙人にでも見えたか?」
「…………」
さらりと悪口を言われた様な気がしながらも私は口をつぐんだ。まぁ事実なので仕方がない。
みすぼらしく伸びきった髪に、着古した紺のパーカー。そして下は中学時代の赤いジャージとボロサンダル。おまけに、さっきまで通販で適当に買ったサングラスを掛けていた状態とくれば……イモと呼ばれるのもしょうがない。
そりゃぁ、かなり失礼だとは思うが甘んじて受け入れるしかないのだ。
それもこれも全部、“眼”を合わせてしまった私のせいなのだから――。
――ブス。キモイ。根暗。そういった刺々しい言葉は私の日常では当たり前の言葉で、あいつの眼を見ると呪われる。気が狂う。不幸が訪れる。なんて、人は私の目を見た途端、口を揃えて揶揄した。無視した。蔑んだ。嫌悪した。
私の眼の色が少し変だから。
ただ、それだけの理由で……それが、それだけが、私が人前でサングラスを外せない理由だった。私が家へ籠るようになった原因だった。
そんな湧き水のように溢れ出る記憶を掻き消すが如く――私は勢いよく首を下げる。
「ご、ご……ごめんなさい……! ししし、失礼しましたっ!」
謝る。今すぐ逃げたい衝動だけが先走ったせいか、抑揚が乱れ切った情けない謝罪。だが声を出したお陰か、追憶は途切れて足も動くようなった。
後は速足でこの場を去るだけなのだが――。
「ちょっと待て」
「――ひゃいっ!」
平坦な声が私を呼び止め、踵に込めた力が不発に終わる。そんな彼の声が一層恐ろしく思えた私はその場に立ち止まるしか出来なくなっていた。
ついでに変な声も零れ出たし、情けない。
(だ……大丈夫。大丈夫。今はサングラスをしているから大丈夫……)
平気。平気、平気。鼓舞するように何度も呟いた後、私はゆっくりと振り返った。もう緊張で喉がカラカラだ。
反し、彼は落ち着いた声で私に尋ねる。
「お前さん、この辺の人間だろ? 少し聞きたい事がある」
「え、はい……なんでしょう……か……?」
「この辺に、“七山ミコト”って奴は住んでるか?」
「…………へ?」
心臓がギュっと掴まれる。
七山ミコト、他でもない私の名前。
人口の少ない山間部の集落地とは言え、苗字の被った家は無い。だとすれば、私。確実に私。彼の言う七山ミコトとは、間違いなく私の事を指していた。違う意味で背筋が冷たくなる。
「…………」
とりあえず深呼吸。
人と話すのは、それもお祖母ちゃん以外の人と話すのは随分と久しぶりで、内臓が今にも飛び出そうなくらい苦しいし、手も微かに震えている。
だがしかし、サングラスを掛けていれば幾分かましではあるので……私は乾いた喉を湿らせた。
「な、七山さん……と……どういったご関係……ですか?」
「頼まれ事でね、七山オウカって人からだ」
「ナナヤマ……オウカ……って、え? お母さんが?」
瞬時にして防犯意識が消し飛んだ私は咄嗟に聞き返していた。
聞き間違いじゃなければ、彼は“七山オウカ”と言った。それは私の……私が物心着く前に家を出たという母の名前だった。
なぜ私を置いて行ったかは知らないし、もはや顔すら覚えていない。そんな名前しか知らぬ母が今さら何の用だと言うのか。
狼狽えた私を見透かしたかのように彼は頷く。
「そうか、お前さんがその娘……七山ミコトだな?」
「な、な何ですか? 何の用ですか? なっ、なんで……」
当惑した私を、彼は生気の無い瞳でジロジロと見ている。何者なのだ。実は生き別れの兄と言われても困るし、本当にどういう関係なんだろう。
弁護士……には見えない。仮にそうだとしても、母から会いたがっていると言われても複雑だし、そもそも母がこの世の何処かで生きていた事すら驚愕の事実だった。
唯一その答えを知っているであろう彼は、嘆息を交えながら言った。
「……少し待ってろ、すぐ終わる」
スコシマッテロ。スグオワル……?
魔法の呪文のように聞こえてきた平坦な声。私は余計に戸惑う。なんで? 何が? だが再び双眼鏡を覗き込んだ彼から言葉が返ってくる様子はない。人相や雰囲気に似つかわしく不愛想な人だと思った。
「…………」
「………………」
沈黙が続く。
何なのだろう、この気まずい妙な間は……。
不透明な無音が漂う最中、次に込み上げてくるのは得体の知れない相手に対する警戒心だった。
幸いにもここから私の家は近い。この件に関しては、先ずはお祖母ちゃんに聞いてからでも遅くはないだろう。
ならば――今はやっぱり逃げ――。
「ヒ、ヒヒ……ヒヒヒヒ……」
引き攣ったような笑い声がやっぱり私の踵を制止させる。
見ると、これまで眉一つ動かなった彼の表情が酷く歪んでいた。
その形相は歯茎が見える程に口を食いしばり、刮目するように瞼をかっ開いている。それに笑い声と言うよりも短い悲鳴とも受け取れるような声で、彼は小刻みに喉を鳴らしていたのだ――。
「あ、あのぉ……どうかしました?」
まるで双眼鏡を覗きこんだまま発作を起こしている様な言動を前に、私は声を掛けるしかなかった。かけざるを得なかった。
すると彼は緩慢な動きで私へ顔を向け……。
「わカらナいホうガいイ」
意味不明な言葉に私が硬直している間にも、彼の顔色はみるみる真っ青になり、額には目視できる程の汗を滲ませている。
そしてついには持っている双眼鏡をボトリ……落とすと、彼は脱力した様子でその場で項垂れていた。
「あ……あの? 大丈夫ですか?」
「…………あー」
彼は返事なのかも危うい声を零しながら、夕暮れに染まり行く虚空をただ見つめるだけだった。
元より生気のある印象は受けなかったが、その様子は明らかに異様だ。まるで心神を喪失してしまったかのような……。
「って……な、なんば踊りよっとですか……?」
困惑と共に抑えていた方言さえ零れ出る。
いきなりだった。彼はヒラヒラと舞を躍る様に、それでいて風と連動するかの如き流れる体捌きで《くねくね》と揺れ動いていたのだ。
ひょっとして熱中症だろうか。いやしかし、熱中症で意識が混濁するのは私でも知っていたけれど、まさか突然謎の踊りを始めるなんて誰が思うだろうか。
「え……何処さん行くと……?」
彼はクネクネと踊ったまま器用に畦道の傾斜を降りると水田の中へ進んでいく。危うく転倒するかと思いきや、彼は泥濘(ぬかるみ)など物ともせずにクネクネと舞い進んでいく。
その進行方向は、“白い物体”の元へ向かっている……?
「え……えぇ……どがんなっとるとね……」
とりあえず……どうしようか。救急車を呼ぶ? 逡巡している内にも、例の白い案山子の元へ辿り着いた彼は、隣で同じように揺れ動いていた。
その動きは寸分たがわず一緒に見え……いや、同じだ。偶然か、あるいは必然か。浅い水田上で行われるシンクロナイズドは見事に同調していたのだ。それは遠目で見るからこそ顕著に分る事だった。
「と、とりあえず……」
そんな益体も無い独り言を皮切りに、偶然にも私の視線は地面へ落ちている双眼鏡の方を向いていた。双眼鏡――ここからじゃハッキリと見えないから、覗いてみる。
「何が起こってるの……?」
相変わらず彼はくねくねと揺れ動いている。そして同じ動きをするその隣、一見、白い布切れの様に見えていたソレは人の形をしている事が分った。
枯れ枝の様に細い腕を万歳する形で揺らし、頭部であろう中央は真っ黒に窪んで見える。
と――その時、私は見てしまった。見てしまったが故に、双眼鏡を覗き込んだまま驚愕の声を吐露していた。
「えっ……何……」
現代アートみたいな物体を相手に――彼がヘッドロックを仕掛ける様子を――。
「えーっと……。え?」
一旦サングラスを外し、今一度だけ双眼鏡越しに目を凝らしてみる。すると今度は――バックドロップ。泥水が夕暮れ色の中に巻き上がる。そのまま流れる様にマウントポジションを取ったかと思えば、彼は水田を叩きつける様に何度も拳を振り下ろしていた。
辺りには飛沫。傍から見れば水遊びをしている風にも見えるが……この際、人様の家の田んぼが荒らされている事は置いておくとして、全く持って何をしているのか理解に苦しみつつも、ある結論を出した私はそっと双眼鏡を降ろした。
「……帰ろう」
たぶん、いや絶対関わったらダメな人だ。
一先ず双眼鏡をクーラーボックス上へ置いた瞬間――。
「――――あの白い物体を見てはならん!」
怒声が飛んできた。
「見たのか! その双眼鏡で“アレ”を!」
まるでノイズを含んだような声が間髪入れずに響き渡る。声からして男性……だろうか。突然のことに当惑しながらも、私は咄嗟に声とは別の方へ顔を向けていた。
「あ、いやっ……その、すみません……」
急いでサングラスを掛け直して顔を上げる。果たして“アレ”と言う言葉が皆目なにを指すのか分からないけど、私は反射的に謝りながら声の主を探していた。
「おや? 全然平気そうですネ!」
すると、声。語尾の抑揚をわざとらしく上げた声が、私の背後から聞こえてくる。先程の怒声とは打って変わり、お道化た口調だった。
「あ、えっと……」
振り返る。存外、私へ怒声を投げて来た人物は近くに居たらしい。と言うより、私の真後ろに立っていた。
そんな彼はギザギザの歯を見せつけるようにして笑う。
「初めましテ、アナタが七山ミコトさんですネェ?」
不気味な笑み。口角を吊り上げ切った不可解な笑み――まるで不思議の世界に出てくるチシャ猫の様に笑っていた。
歳は20代か。髪は仄かに赤く、全体的に寝ぐせの様なウェーブが掛っており、ワインレッドのベストと蝶ネクタイと言った出で立ち。こんな片田舎には場違いな恰好だと思う。
知らない。
知る訳がない、こんな人。
私は困惑気味に尋ねるしかなかった。
「えっと……どちら様……ですか?」
「おっとォ! ご紹介が遅れましタ! 私の名はヴェル=ゼブゥール」
過多なリアクションを見せる彼は、ネイティブな語調で自身の名を告げながら私へと手を指し伸ばした。
私は汗ばんだ掌をパーカーでさっと拭い、彼の手を取る。
「どうかヴェルとお呼びくださイ。先程は怒鳴って申し訳ありませン、ヒャハッ」
「は、はぁ……」
改めて――ヴェルのガラス細工の様に華奢で繊細な手指を握ると、ひやりとした冷たさが私の手を包んだ。引き籠りのせいで不自然なくらい白い私とは大違いな、瀟洒な白肌。もやしの様に部屋で繁茂した私とは月とすっぽんくらいの差を感じる。異性とはいえ少し羨ましくも思う。
だが、やはり見覚えもなければ知り合いであるはずもない。
「あの……。なんで私の名前……」
「ナハハッ、顔に書いてありますヨ」
思わず自分の顔をベタベタと触ってしまう。そんな訳が無いのである。まるで鳩が豆鉄砲どころか散弾銃を食らった様な表情を浮かべた私に対し、ヴェルは造り物みたいな笑みを絶やさぬまま口を切った。
何やら食い入り気味で。
「ところで……白いアレ、どんな風に見えましたカ? 何か感じますカ?」
「ドンナ風……ナニを感ジル……?」
返答に困った私は唖然と口を開けるしかなかった。思い返してみても綺麗に当てはまる例えが見つからない。語彙力が無いのも当然あるのだが……。
「――――ナハッ」
すると失笑。彼は矢継ぎ早にナハナハと笑い始めた。随分と耳に残る独特な笑い方だと思う。
なんだか小馬鹿にされている様でつい眉間にしわを寄せていると、ヴェルは端整ながら破顔した表情のまま言った。
「まぁ、あの見た目じゃ理解できないのも無理もありませんネ」
「あの見た目って……?」
「あれは『くねくね』という『怪異』なのですヨ」
いまいち聞き覚えのない二つの単語に私は首を傾げるしかない。
「簡単に言うと、“お化け”って奴ですネ!」
「ああ……お化けかぁ……」
ヴェルは田園を見る。倣うように私も目を向けると、彼の姿はおろか、例の『くねくね』とやらも忽然と姿を消していた。
目を凝らしてもやはり見慣れた田園風景が広がっているだけで、あれほど激動していた田の水面も今や嘘みたいに凪いでいる。
まるで妖にでも化かされたかの様な――――って。
「えっ? お化け?」
驚きの感情が時間を置いて出てきた。
ナチュラルに聞き流していたのである。
その一瞬、先程の光景は朦朧とした湿気がもたらした白昼夢かと思ったが、遠目でも分かる程に抉れた田園の軌道が現実の余韻を色濃く残していた。現実だ。
視線を私へ向き直したヴェルは当たり前のように告げる。
「そう、お化け。それでもって私達はそれらを祓う、“霊媒師”って所ですかネ」
「……あの……なんかの撮影とか、ドッキリですか……?」
私はサングラスの内側から不可解な眼差しをヴェルへと送った。
すると彼の瞳はどこか酷薄に笑い――。
「貴女のお母様から頼みでしてネ、貴女をお守りするようにと――」