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第2話 自由な人生の始まり

 公爵令嬢ミアータ・クラレットが、婚約者アレン・ヴァーサーから一方的に婚約破棄を告げられたあの夜から、数日が経った。あまりに突然の出来事、そして「完璧でいることが息苦しい」という理由。それは彼女にとって、これまで抱いていた信念を根本から揺るがす衝撃だった。

 もっとも、ミアータは公の場では冷静に振る舞い、まるで自分から婚約を望んで破棄したかのように穏やかな態度を保っている。しかし、その胸の奥底には、これまでに感じたことのないほどの不安と喪失感が渦巻いていた。そんな彼女の姿を間近で見ている使用人たちや両親は、何か尋ねたくても、ミアータがそれとなく会話を打ち切るため、言葉をかけることができずにいる。

 ――けれど、ミアータには決意があった。いくら心が傷ついていても、いつまでも悶々と塞ぎ込んでいるわけにはいかない。むしろ、初めて手に入れた「自由」――婚約という縛りから解かれた今だからこそ、自分自身を見つめ直し、本当にやりたいことを探してみたいという思いが芽生えていたのだ。



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新たな朝の空気


 婚約破棄の報せは、やがてクラレット公爵夫妻の耳にも届いた。驚きと怒りを露わにしたのは、彼女の父・クラレット公爵である。一方、母であるクラレット公爵夫人は、不安そうに娘の様子を窺っていた。

 「ミアータ、どういうことだ? アレン殿と正式に話し合ったのか?」

 朝食の席で、公爵は厳しい表情のまま尋ねる。

 「ええ、父様。アレン様のご希望通り、婚約の解消を受け入れました。お互い、これ以上傷つけ合っても仕方ありませんから」

 ミアータの声は落ち着いていたが、その眼差しにはどこか冷えた決意が見える。まるで、ひとかたまりの氷が胸の内に存在しているかのように、外からの刺激を拒むような雰囲気すら漂っていた。

 「バカなことを……! 両家の関係はどうなる? 王都に広まる噂はどう対処すればいい? 第一、ヴァーサー侯爵家とわがクラレット公爵家の繋がりは、そう簡単に断ち切れるものではないのだぞ」

 公爵は苛立ちを隠さず、拳でテーブルを軽く叩く。その音に使用人たちが一瞬びくりとするが、ミアータは表情ひとつ変えずに微笑んだ。

 「そうですね……。ただ、これはアレン様ご自身の意志です。私が一方的に押し返しても、きっと再び同じ結末を迎えるだけでしょう。ならば、傷が浅いうちに手を打つほうがよいかと」

 「ミアータ……」

 母親が口を挟もうとしたが、娘はそれを制するように軽く目で合図する。

 「いずれにせよ、もう決まってしまったことですから。申し訳ありません、父様、母様。ご心配をおかけしますが、婚約破棄に至るまでの詳しい経緯は、いずれ公的な場でお話いたしますわ」

 それだけ言うと、ミアータは椅子をすっと引き、静かに立ち上がった。彼女の物腰はいつもと変わらず優雅で、取り乱す様子など微塵もない。その背筋の伸びた姿勢には、公爵令嬢としての誇りと気高さが宿っていた。

 「どちらへ行くのだ、ミアータ」

 公爵は戸惑ったように声をかけるが、娘は振り返らず答える。

 「少し、庭を散策してきます。朝の空気が吸いたいの」

 ――婚約解消を言い渡された夜以来、屋敷の者たちは皆、彼女の様子を見守っていた。しかし、「大丈夫?」と声をかけても、彼女は必ず「ええ、大丈夫よ」と微笑むだけ。まるで、頑丈な壁か結界が張られているかのように、その内側に誰も踏み込めずにいた。



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庭園での出会い


 クラレット公爵家の庭園は、王都でも随一と言われるほど美しく、広大な敷地を誇る。花の迷路や噴水、数々の彫刻が配され、季節ごとの花々が優雅に彩りを添えていた。ミアータはとりわけ薔薇が好きだったが、この数日は庭に足を運ぶ気力すら湧かなかった。

 だが、この朝は違う。むしろ、自分を見つめ直すきっかけを探すように、薄手のショールをまといながら、柔らかな日差しの中を歩く。すると、花壇の世話をしている庭師の老人が、彼女に気づいて頭を下げた。

 「お嬢様、おはようございます。今朝は珍しくいらしてくださったのですね」

 「おはようございます、ラドリー。ご苦労さまです。最近はゆっくり庭を見回っていなかったから、ちょっと散歩がしたくなって」

 ラドリーは長くクラレット家に仕えている庭師で、ミアータが幼い頃から彼女の世話をしてきた一人だ。ミアータが小さな頃、興味本位で土いじりを始めた際にも、一緒に花の苗を植えてくれた思い出がある。

 「そうでしたか。ちょうど今、新しい花苗が届いたところでしてね。こちらに植えようと思っているんですよ。お嬢様も少し手伝ってみませんか?」

 「手伝い、ですか?」

 言われた瞬間、ミアータは少し驚いた表情を浮かべる。公爵令嬢が土に触れるなど、世間一般からすれば「身分不相応」とみなされるかもしれない。だが、ラドリーは彼女の幼い頃の様子を知っている。何より、ミアータ自身が昔はよく花壇づくりを手伝いたがっていたのだ。

 「はい、もちろん無理にとは言いませんが……。もしお嬢様がご興味をお持ちであれば、というだけです。ちょうど、今日は暖かいですしね」

 庭師の優しい笑みを見て、ミアータの心がほんの少し柔らかく解けていくのを感じた。かつて、アレンとの婚約が決まる以前、彼女は自由な発想で庭を駆け回り、時には土で服を汚しながら笑っていた自分を思い出す。

 「……そうね。少しだけ、手伝わせてもらおうかしら」

 そう返事をすると、ラドリーはにっこり微笑んでミアータに軍手を渡した。「では、こちらへどうぞ」と花壇の端へ案内する。そこには色とりどりの花の苗が並んでおり、まだ定植されるのを待っている状態だった。



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新たな感触


 ミアータはショールを椅子の背もたれにかけ、ドレスの裾が汚れないように軽くたくし上げてから膝をつく。視線の先には柔らかな土が広がり、風に乗って花の香りが鼻腔をくすぐる。

 「この苗はローズマリー、こちらはラベンダー……。ハーブ類もいくつかあるんですね」

 ラドリーが苗の説明をしてくれながら、それぞれの植え付け方法や土の状態を教えてくれる。ミアータは真剣に聞き入っていた。かつて花壇づくりを手伝ったときの感覚が蘇ってくるが、正直なところ細かい手順は忘れてしまっている部分も多い。

 「そうそう、ラベンダーは水はけの良い土を好むので、植え付けの際にはあまり根を詰めすぎず、少しふんわりさせてあげるといいですよ」

 「なるほど……。けっこう繊細なのですね」

 ミアータは軍手越しに土の感触を確かめる。しっとりとした湿り気の中に、微かな温かさと生命力がある。指先に伝わるざらりとした粒子の感覚は、華やかな舞踏会のフロアや絹のドレスとはまるで違う世界だ。

 「昔はずいぶん花壇づくりが楽しくて、ラドリーにいっぱい教わったのを覚えているわ」

 「お嬢様、私などの話を熱心に聞いてくださって。あの頃、お嬢様はまだ7つや8つだったでしょうかね。今はもうこんなにお美しく成長されて……」

 ラドリーが懐かしそうに目を細める。その言葉に、ミアータは「少し複雑よ」と思いつつも、微笑みで返した。成長したがゆえに、貴族令嬢としての責務と体裁を求められ、結果として「完璧すぎる」と婚約者に退かれた――そんな皮肉を思い出すと、胸に痛みが走るからだ。

 しかし、それでも彼女は手を止めない。土を軽くほぐし、苗をやさしく包み込むように植え付けながら、「こんな時間が、自分には必要だったのかもしれない」と思う。息苦しいドレスやマナー、誰かの視線を意識することなく、ただ無心で土に触れる。言葉にはできない安堵感がじんわりと体を包んでいく。

 作業を始めてしばらくすると、額に汗が滲み、軽く息が上がってきた。屋外で体を動かすことなど、社交界に忙殺されている間はほとんどなかったことを思えば、これだけでも新鮮な体験だ。

 「お嬢様、無理はしないでくださいね」

 「ええ、大丈夫よ。少し疲れるけれど、楽しいわ」

 ラドリーの気遣いに応えつつ、ミアータは苗を一つ、また一つと丁寧に植えていく。彼女の心は、ゆっくりと解放され始めていた。



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家の外へ――孤児院の存在


 庭の作業を終えた後、ミアータは一度自室へ戻って身支度を整えた。土の汚れを軽く落とすために洗面所で手を洗い、さっぱりしたドレスへ着替える。小さな行為ではあるが、自分の意思で心身をリフレッシュできると感じられるのは嬉しいことだった。

 ふと鏡を覗き込む。以前よりも少しだけ表情が柔らかい気がしたが、気のせいかもしれない。けれど、灰色がかった沈んだ瞳が、ほんの少しだけ青みを帯びて輝いているように思えた。

 「このまま、何か新しいことを始めたいわね……」

 思わずそんな言葉がこぼれ落ちる。これまでのミアータなら、自分の趣味ややりたいことなど、あまりはっきり主張するタイプではなかった。貴族令嬢として“あるべき姿”を優先し、自分の欲求は二の次にしていたからだ。

 だが、今のミアータは婚約破棄を経て、少しずつ自分を解放し始めている。迷いや不安はまだ大きいが、それでも新しい世界を覗いてみたいという気持ちが湧き上がってくるのだ。


 そんな折、廊下を歩いていたところに、先ほどの庭師ラドリーが近づいてきて声をかけた。

 「お嬢様、先ほどはお疲れさまでした。実はひとつ、お嬢様にお伝えしたいことがありまして……」

 「ええ、何かしら?」

 彼は少し言いづらそうに言葉を選んだ。

 「私の知り合いが運営している孤児院の話です。王都の外れにある小さな孤児院なのですが、資金不足もあってなかなか満足な環境を整えられず苦労しているらしく……。もしお嬢様が興味をお持ちでしたら、一度訪ねてみてはいかがでしょうか」

 「孤児院……」

 ミアータは考え込む。貴族令嬢が慈善事業の一環として孤児院を訪れることは、決して珍しい話ではない。むしろ社交界でも「良家の令嬢は慈善活動に積極的であれ」という風潮もあるくらいだ。だが、ミアータには今までそういった場に表面的に顔を出すだけで、本気で関わる機会はほとんどなかった。

 「……行ってみたいわ。ラドリー、詳しい場所を教えてもらえないかしら」

 そう答えたのは、先ほど庭の苗を植えたときと同じ気持ちが根底にあるからだ。つまり、自分の手で何かを育ててみたい、あるいは誰かのために行動してみたい――そんな思いが芽生えている。完璧な公爵令嬢としての“務め”ではなく、純粋な興味で動いてみたいのだ。

 ラドリーは意外そうに目を見開き、しかしすぐににこやかな笑顔を浮かべた。

 「かしこまりました。私も詳しい道順を知っております。ご要望があれば、馬車の手配や案内役もいたしましょう」

 「助かるわ。ありがとう、ラドリー」

 こうしてミアータは、孤児院を訪ねることを決めた。



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馬車に揺られて


 翌朝、ミアータは少し地味めのドレスを選んだ。公爵令嬢とはいえ、あまりにも華美な衣装で孤児院を訪ねるのは場違いな気がしたのだ。とはいえ布地や装飾の質は上等なので、一目で高貴な身分であることはわかってしまうだろうが、せめて派手さを抑えるという彼女なりの配慮だった。

 屋敷の門の前には、一台の小ぶりな馬車が待っている。従者を最小限に絞り、余計な護衛はいらないと伝えた。ミアータが乗り込むと、御者が「準備ができました」と声をかけ、馬を進める。

 ――初めて訪れる場所に向かうというだけで、どこか胸が高鳴る。社交界のドレス姿で舞踏会に向かう緊張感とはまるで違う、素の自分として見知らぬ世界に飛び込んでいく期待感があった。

 馬車が王都の中心街を抜け、少し離れた外れの地区へ近づくにつれ、街並みは徐々に質素になり、舗装もまばらになってくる。道行く人々の服装も整っていない者が多く、中には浮浪児のように薄汚れた子供たちの姿も見えた。

 「こんなに王都の中心から遠くないのに、雰囲気はまるで違うわね……」

 ミアータは窓越しにその光景を見つめながら、胸の奥が締め付けられるような思いを感じていた。王宮や上流貴族が集う豪奢な世界とは、あまりにも対照的な現実がここにはある。

 そのまましばらく進むと、ようやく目的の建物が見えてきた。ラドリーが紹介してくれた孤児院――石造りの古い外観で、広い庭もなく、壁にはところどころひび割れが目立つ。塗装の剥げた扉の前に馬車を止めると、御者が小さく息をついて「到着いたしました、お嬢様」と声をかけた。

 ミアータはドアを開け、外へ降り立つ。足元には砂利混じりの土が広がり、屋敷の庭園とは比べものにならないほど殺風景だ。しかし、扉の隙間から子供たちの笑い声が聞こえてきた。

 「いらっしゃいませ、どなたでしょうか……?」

 扉を開けて出てきたのは、中年の女性――どうやらこの孤児院を切り盛りしている院長らしかった。彼女はミアータの姿を見て驚いた表情を浮かべる。まさか、公爵令嬢が自ら訪ねてくるなど夢にも思わなかったのだろう。

 ミアータは軽く会釈して、「はじめまして。クラレット公爵家の娘、ミアータと申します。突然お伺いして驚かせてしまったら申し訳ありません」と丁寧に言葉を選ぶ。

 「こ、クラレット公爵家……! これはご丁寧にありがとうございます。い、一体どのようなご用件で……?」

 院長は明らかに戸惑いつつも、深く頭を下げて出迎える。

 「こちらの孤児院のことを知人から伺いまして、何か私にできることがあればと思い、お邪魔させていただいたのです。もしご迷惑でなければ、中を拝見してもよろしいでしょうか」

 「もちろんです、どうぞ中へ……。ただ、何分このような場所ですので、お目汚しもあるかと思いますが」

 遠慮がちに案内されながら、ミアータは孤児院の中へと足を踏み入れた。



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子供たちとの触れ合い


 薄暗い廊下を進むと、奥の部屋から笑い声が聞こえてくる。覗いてみると、十人ほどの子供たちが簡素なテーブルや椅子に腰掛けたり、床に座ったりしながら楽しそうに遊んでいた。ボロボロの人形や色褪せた絵本が彼らのおもちゃであり、決して恵まれた環境とは言えない。

 しかし、子供たちの笑顔は輝いていた。ミアータは少し驚きながらも、その笑顔に引き込まれるように部屋へ一歩足を踏み入れる。すると、一人の小さな男の子が彼女に気づき、目を丸くして叫んだ。

 「わぁ……綺麗なお姉ちゃんだ!」

 その声に釣られるように、子供たち全員がミアータの方を振り返る。やがて一人、また一人と近づいてきて、まるで物珍しいものを見るように彼女をじっと見つめた。

 「本当に綺麗……。お城のお姫様みたい……」

 「お姉ちゃん、どこからきたの?」

 次々と素朴な疑問が飛んでくる。ミアータは慌てながらも、微笑みを忘れない。

 「こんにちは、はじめまして。私はミアータっていうの。公爵家というところのおうちに住んでいるのだけど、今日はみんなに会いに来たの」

 すると、子供たちは興味津々といった様子で「みんなに会いに?」「やったー!」「何してくれるの?」と口々に喜びの声を上げる。無邪気に瞳を輝かせる姿に、ミアータの胸が温かくなった。

 「実は私、初めてここへ来たから、いろいろ教えてほしいの。みんなは毎日、どんなことをして過ごしてるの?」

 ミアータが問いかけると、子供たちは嬉しそうに自分たちの生活を話し始めた。朝起きてからの簡単な仕事、お昼ご飯の時間、手作りのおもちゃで遊ぶ時間、そして夜には院長やお手伝いの人に教えてもらう読み書きの練習――どれも質素な内容だが、彼らはそれを楽しんでいるようだった。

 そんな会話をしているうちに、院長が申し訳なさそうに近づいてきた。

 「子供たちが騒がしくてすみません。狭い場所しかなく、ご覧のとおり物資も乏しくて……」

 「いえ、そんなことはありません。皆さんが元気で楽しそうに暮らしているのが伝わってきます」

 ミアータは笑顔でそう答える。確かに、環境は決して良くない。建物の老朽化も進んでおり、暖房設備も十分とはいえない。このままでは冬を越すのも一苦労だろう。食料や衣服、学用品などの支援も必要だと思われる。

 「とはいえ、資金面で厳しいのは本当なんでしょうね。何か私にもできることがあれば協力したいのですが……」

 ミアータがそう申し出ると、院長は少し躊躇した様子を見せたが、正直に言葉を続けた。

 「ありがたいお話です。実は、維持費の工面が本当に難しくて。王国からの補助金だけでは子供たちを養うのがやっとで、建物の修繕などは後回しにするしかなくて……」

 院長の言葉を聞きながら、ミアータは自分の置かれている状況を改めて考える。公爵家の娘として、多少の資金や物資を援助することは難しくない。だが、それはあくまで“形だけ”の支援になる恐れもある。大事なのは、これからどうこの孤児院と関わっていくか、ということだ。

 「もしよろしければ、今後も定期的にこちらへ伺ってみたいのです。私自身が何ができるか、実際に見て考えたいと思います」

 「そんな……私どもからすれば、願ってもないことですが、本当に大丈夫なのですか?」

 院長が遠慮がちに問いかけるが、ミアータははっきりと頷いた。

 「ええ。貴族令嬢だからこそ、こんなときにこそ力をお貸しするべきだと思うんです。私にできることは限られているかもしれませんが、まずは子供たちと一緒にいる時間を増やしたいです」

 院長はその言葉に深々と頭を下げ、「ありがとうございます、ミアータ様」と感謝の念を滲ませた。その姿を見て、ミアータはむしろ「こうした反応をされるのは少し恥ずかしい」と思いつつも、「これでいいのだろうか」と不安も感じていた。自分がここへ来ることが本当に彼らのためになるのか、まだ確信は持てない。だが、少なくとも自分の目で現実を見て、そして何かをしたい――その気持ちは本物だった。



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小さな一歩


 孤児院を後にする頃には、すでに陽が西に傾きかけていた。ミアータは子供たちと簡単な手遊びや読み聞かせをして過ごし、あっという間に時間が経ってしまったのだ。

 馬車に乗り込み、ドアを閉める瞬間、数人の子供が窓辺まで駆け寄ってきて「また来てね!」と手を振る。その笑顔は、質素な暮らしの中でも希望を失わない強さを感じさせた。

 「……また、来るわね」

 ミアータも小さく手を振り返し、馬車はゆっくりと走り出す。

 窓の外に映る夕日の赤い光が、なんとも切なく美しかった。公爵令嬢としての立場や名誉、誇りを守ることが今までの彼女の最優先事項だった。けれども、その“完璧さ”が婚約者にとっては重荷になり、破綻をきたした。

 しかし、婚約破棄の傷はまだ生々しく痛むものの、こうして自分の意思で孤児院を訪ね、子供たちと触れ合ってみたことで、心の中にかすかに灯る温かい光を感じる。それは、もしかすると「自分にはもっと違った可能性があるかもしれない」という気づきへの第一歩なのかもしれない。

 「私には何ができるのだろう。お金を出すだけなら簡単かもしれない。でも、そうじゃない。本当に必要なのは、この子たちと一緒に成長していくような繋がりかもしれないわ……」

 考えは尽きず、馬車の揺れに合わせて頭の中で様々な思いが渦巻いていく。そんな折、ふと視線を落とすと、子供がくれた小さな折り紙が膝の上に乗っていた。歪な形のハートマークで、「ありがと」と下手な字で書かれている。

 その文字を見た瞬間、ミアータの胸が締め付けられるような感覚に襲われた。完璧な文字ではない。むしろ子供の拙い字で、紙も破れかけている。それでもそこには、子供たちの「ありがとう」という素直な気持ちが詰まっていた。

 ――いつしか自分は「完璧であること」ばかりに囚われて、こうした素直な思いに気づく余裕を失っていたのではないか。アレンが「息苦しい」と言ったのも、こうしたささやかな交流を見落としていたからなのではないか。

 いろいろな後悔や疑問が頭をもたげるが、今はそれに悩むよりも、このハートマークの折り紙を宝物のように感じた自分を大切にしたいと思う。馬車が揺れるたびに、彼女の心も少しずつ揺れ動き、前へ進もうとしていた。



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侯爵カイルとの偶然


 屋敷へ戻ったミアータは、玄関ホールでばったりとある人物と遭遇した。カイル・エルネスト――若き侯爵にして、クラレット公爵夫妻とも親交のある貴族だ。まだ20代半ばながら領地経営や学問にも熱心で、「将来有望な若手」と周囲から評価されている。

 「お帰りなさい、ミアータ様」

 カイルは柔和な微笑みを浮かべ、彼女に一礼した。背が高く、金色混じりの茶髪が緩やかに揺れている。貴族らしい端正な顔立ちだが、どこか人当たりの良さを感じさせる空気をまとっていた。

 「カイル様……お久しぶりです。どうしてこちらに?」

 ミアータは少し戸惑いながらも会釈を返す。カイルとはもともと面識があるものの、親密に話したことは多くなかった。

 「実は、公爵様に呼ばれていたのですよ。公務の件で少々話し合いがありましてね。ちょうど今、終わったところで帰ろうかと思っていたところです」

 そう言ってから、彼はほんの少し苦笑しながら言葉を継ぐ。

 「正直なところ、ミアータ様の婚約破棄の件……あちこちで噂になっていて、私も気にしていました。お元気そうで何よりです」

 「そう……ですか」

 ミアータは微かな心の痛みを感じながら、しかし笑みを忘れない。

 「噂になるのは仕方ないことでしょう。私としては、騒がれているといっても、もう済んだことですから」

 その言葉に、カイルは少し複雑そうに眉を下げた。

 「きっと大変でしたね。私もあまり詳しくは存じ上げませんが、何か助けになれることがあれば遠慮なくおっしゃってください」

 彼の言葉には偽りのない優しさが感じられた。ミアータはその好意をありがたく思いながらも、どこか距離を置くように言葉を選ぶ。

 「ありがとうございます。でも、これは私自身の問題ですから。私なりに整理していこうと思います」

 「そうですか……。でしたら、今日のところは失礼しますね。公爵夫妻にも挨拶を済ませましたから」

 カイルはそう言って、再び礼をしてから玄関の方へ歩き出す。その背中を見送りながら、ミアータはふと考えた。

 「彼が噂に聞く“若き侯爵”か……。婚約破棄がなければ、こんな風に気づかう言葉をかけてもらう機会などなかったかもしれないな……」

 アレンとの婚約中は、ほかの男性と親しく会話すること自体、どこか気が引けていた部分がある。それが今は失礼のない範囲であれば、自由に交流してもいいのだ、という考え方に変わりつつある。

 ミアータにとって、そうした一つひとつの出来事が新鮮だった。



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帰宅後の決意


 部屋に戻ったミアータは、一息ついてからデスクに向かう。先ほど孤児院からもらった折り紙のハートマークをそっと机の上に置き、その横に小さなメモ帳を広げた。

 「まずは……私の目で見て、必要だと思ったものをリストアップしてみましょう」

 彼女は孤児院で感じた問題点を一つずつ書き出していく。建物の修繕、衣服や学用品の不足、暖房設備の改善、食糧の確保――項目は山のようにあるが、どれも金銭面のみならず、人的支援や知恵が必要になる。

 「すぐに私財を投じてもいいけれど、院長や子供たちが私に依存しすぎない形が望ましいわね。継続的な支援と、自立を促す仕組み……うーん、難しい問題だわ」

 慣れない思考に頭を悩ませつつも、筆を走らせるミアータ。その横顔は、以前の「常に完璧な微笑みを湛える貴族令嬢」とは少し違う、真剣な表情をしていた。

 「家の名前ではなく、私自身の意思でできること。婚約破棄に踏み出した今こそ、私にしかできない形を模索したい……」

 彼女はそう呟きながら、日記帳も開く。そこにはアレンとの婚約中に感じていた小さな違和感や悲しみが綴られていたが、もうそれを読み返しても心が大きく乱れることはない。むしろ、「あの時、素直に自分の気持ちを伝えられていたら、結果は違ったのだろうか」と、どこか客観的に振り返る余裕が出てきた。

 「それでも、過去は戻らない。ならば私は、これからの自分を見つめ直すだけ」

 机上に散らばるメモ用紙を整理し、そっと蓋を閉じる。まだ形にはなっていないが、やるべきことは山ほどある。焦らず一つずつ、孤児院の人々と協力して解決策を探していこう――そう心に決め、ミアータは静かに立ち上がった。



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家族との距離


 その日の夕食、ミアータは両親と同じテーブルについたが、会話は少なかった。婚約破棄以来、公爵と公爵夫人は娘に強く干渉しすぎないように気を遣っているらしい。だが、それでも彼らの表情には明らかな心配の色が浮かんでいた。

 「ミアータ、今日はどこへ行っていたのだ?」

 公爵が食事の合間にそれとなく尋ねる。

 「少し、知人の紹介で孤児院を訪ねてきました。今後、支援をしていきたいと思っています」

 ミアータがそう告げると、公爵と夫人は一瞬顔を見合わせた。彼らは娘の慈善活動に反対するつもりはないが、「なぜ今、そのような行動を?」という疑問があるのだろう。

 「孤児院、ね……。結構なお考えだが、クラレット家としてはあまり派手に動かないように気をつける必要があるぞ。今はお前の婚約破棄が世間の話題になっているからな」

 公爵は苦言を呈するように言う。しかし、ミアータは動じない。

 「もちろん、周囲には配慮します。私個人の行動として、少しずつできることを探していきたいだけです」

 公爵夫人は、そのやり取りを見守りながら口を開く。

 「ミアータ、あなたが昔から優しい子だということはよくわかっています。ただ、今はまだ心の傷も癒えていないでしょう? あまり無理をしなくてもいいのよ」

 母の言葉に、ミアータは一瞬目を伏せるが、すぐに微笑みを返した。

 「ありがとう、母様。でも大丈夫。私、案外強いのかもしれないって最近思うの」

 その笑顔はかつての“完璧な仮面”とは少し違う、自然体に近いものだった。公爵夫人は娘の変化を感じ取ったのか、わずかに目を潤ませながら頷く。

 「そう……そうね。あなたの好きにしなさい。ただ、何かあったらすぐに言うのよ。私たちはあなたの家族なんだからね」

 「ええ、もちろんですわ」

 かつては“完璧な娘”を期待され、その期待に応えるためだけに生きてきたミアータ。今は少しずつだが、親との関係にも変化の兆しが見えてきている。もしかすると、婚約破棄は大きな痛みと混乱をもたらしたが、同時に彼女にとって新しい一歩を踏み出すきっかけでもあったのかもしれない。



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閉じていた扉を開く


 夜、自室の窓辺に腰掛けて、ミアータはうっすらと光る月を眺めていた。静かな闇の中で、遠くに街の灯りがちらちらと見える。あの先には孤児院があり、貧困に苦しむ人々が暮らしている。

 「私が今まで見ていた世界は、本当に狭かったのだわ……」

 王宮での舞踏会、貴族同士の華やかな社交、そしてアレンとの婚約――その環の中にいるときは、まるでそれが世界の全てかのように思えていた。けれども、実際は自分の知らない現実が幾重にも広がっている。

 そして、婚約破棄という出来事は、まるで閉ざされた扉が外からこじ開けられたかのように、ミアータに「その先」を見せ始めたのだ。

 深呼吸をして、少し冷えた夜気を吸い込む。婚約破棄からの喪失感は、まだ完全には消えていない。ただ、そこに重なるようにして、新しい世界への興味や希望が少しずつ芽生え始めている。

 窓を閉め、寝台に向かう前に、彼女は机に置いたままの折り紙のハートマークを手に取った。その文字――「ありがと」を指先でなぞり、小さく微笑む。

 「完璧じゃなくても、こうして気持ちは届くのね……。私も誰かに、こんなふうに素直に“ありがとう”と伝えられる人間になりたい」

 そう呟いて、ハートマークを大切に引き出しの中へしまう。子供たちからもらった最初の“贈り物”を、いつでも取り出して励みにできるように。

 “ざまあ”という言葉は、ひどく冷酷に聞こえるかもしれない。しかし、ミアータにとっては、あの婚約破棄は「ある意味で良かったのかもしれない」と思える瞬間が増えつつある。今のこの感情は、決して悲しみだけではない。

 人が変わるきっかけは、往々にして大きな痛みを伴うことがある。それでも、それを乗り越えた先に見える景色は、これまでとは全く違うのだ――。ミアータはまだそこに到達してはいないが、その方向へ歩き始めていることは確かだった。



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