今日も剣道部へ行こうとしたが、よく見ると今日目黒はいつも道着を入れているスポーツバッグを持ってきていない。ということは。
「今日、部活は無いのか」
「うん。だからちょっとお喋りしようよ」
目黒が笑顔で提案してきた。早く帰宅したところで特にやることもないため、目黒の提案に頷く。
目黒は荷物をまとめると、鞄を持ってきて俺の隣の席に座った。なお隣の席の阿佐美はすでに帰宅している。
放課後の教室からは、一人、また一人と生徒たちが帰って行く。だんだんと人数の少なくなる教室は、少し物悲しくもあり、観客の少ない映画館に入って映画を独占したときのような贅沢な気分にもなる。
「……俺たち以外、全員出て行ったな」
いつも剣道部へ直行していたため知らなかったが、放課後の教室は割とすぐに空になってしまうらしい。
「みんな部活に行っちゃうから、放課後の教室はお喋りをするにはもってこいなんだ」
そう言いながら目黒は窓の外を眺めた。窓の外にはどこまでも続く自然が広がっている。
「ねえ、相馬君。聞いてもいいかな」
「何を?」
目黒が俺に聞きたいこととは何だろう。
もしかして俺が沢村と決闘の約束をしたことが耳に入ってしまったのだろうか。
あの場に目黒の姿は無かったが、校庭にはクラスメイトがたくさんいたから、誰が聞いていてもおかしくはない。
沢村との決闘で万が一俺が負けた場合に目黒が変に責任を感じそうだから、あまり目黒に聞かせたい話では無かったのだが……。
「相馬君は、どうして正義のヒーローみたいなことをするの?」
しかし目黒の口から紡がれたのは、俺が考えていたものとは別の質問だった。
いや、沢村との決闘を知ったからこその問いだろうか。
「俺、正義のヒーローみたいか?」
そう見えているなら嬉しい。
実際にはまだまだ正義のヒーローにはなれていないが、正義のヒーローみたいと言われるだけでも励みになる。
「相馬君はヒーローみたいだよ。だって初対面の阿佐美さんのことを助けようとしてるんだもん。私のことだって」
「そりゃあ、阿佐美の置かれた状況を聞いちゃうとな。目黒だって危険な状態なわけだし」
好きでもない相手、しかもストーカー化して困っている相手と無理やり付き合わされるなんて、悲劇でしかない。そんな悲劇を起こさせるわけにはいかない。
それに阿佐美に関してはすでに悲劇の渦中だ。
実際に阿佐美を解放するまでの道のりは長そうだが、助けると決めた。
どっちも、俺の正義が許せないと叫んでいるから。
俺は、正義のヒーローにならなければいけないから。
「俺さ。昔、正義のヒーローになるって約束したんだ」
「…………誰と?」
「それが、顔は覚えてないんだよな」
約束したのはずっと昔。まだ俺が隣町に住んでいた頃。
そんな昔の、顔も覚えていない相手との約束を、俺は後生大事に抱えている。
「…………そっか」
「だけど、そのときに交わした約束は胸に刻まれてる。俺が正義のヒーローになることで、救われる人がいるんだ」
俺の言葉を聞いた目黒は、ふわっと穏やかに微笑んだ。
……あれ。俺はこの笑顔を知っている気がする。
「俺たちって、剣道道場以外でも会ったことがあったか?」
「どうして?」
「なんだか目黒のその笑顔を知ってる気がして……それに目黒は他の男子とはあんまり一緒にいないけど、俺とはこうやって話してくれる。でも昔通ってた剣道道場では挨拶以外で喋ったことがなかっただろ。それなら他にも接点があったのかと思って」
俺の言葉を聞いた目黒は、心外だと言いたげな様子で頬を膨らませた。
「剣道道場でも喋ったことあるよ。私が手拭いを忘れたとき、相馬君が貸してくれたじゃん」
「そうだったか? ああ、でも、あの頃は親父に予備の手拭いを持たされてたような気がするな。親父は予備とか念のためとかの品を持たせがちだったから」
その親父は不倫をして、俺と母さんの前から消えた。
今思うと、不倫の始めも予備が欲しいとかそんな感情だったのかもしれない。
母さんにも不倫相手にも失礼な考え方だ。
「……そっか。相馬君は他の人にも手拭いを貸してたもんね。覚えてないよね」
「ごめん。それで、俺たちが会ったのは剣道道場だけだったか?」
「…………」
この沈黙から察するに、きっと俺たちは剣道道場以外でも会っているのだろう。
でも、いつどこで?
全く記憶が無い。
「相馬君、本当に忘れちゃったの? 私、相馬君に会いたくて剣道道場に通い出したのに」
目黒がさらに頬を膨らませた。
どうしよう。全く思い出せない。
「俺たちは剣道道場で会う前に出会ってた……のか? 俺は隣町に住んでたんだけど……」
「私、相馬君のことを一所懸命探したんだよ。名前も知らないし写真も持ってなかったし、同じ町にすら住んでなかったから、見つけるまでに時間がかかっちゃったけど」
そう言って目黒は自身の鞄の中に手を入れた。そして鞄から一本の折り畳み傘を取り出して俺に見せる。
何の変哲もないやや小さな折り畳み傘だが、青い折り畳み傘を見た瞬間、幼き日の記憶が蘇ってきた。
「相馬君はこの傘、覚えてない?」
「これは……」