隣町にある剣道道場へ稽古に行った帰り。突然の大雨に慌ててリュックサックから折り畳み傘を取り出す。
雨の勢いが強いため、リュックサックに入った道着が水を含んで重くなり始めている。
剣道道場に竹刀と防具を置かせてくれていることに感謝をする。そんな大荷物で雨に降られていたら大変なことになっていた。
申し訳程度の屋根があるバス停まで走って行くと、そこには先客がいた。
先客はすっかり雨に濡れており、全身が水浸しだ。
「どうしたんだ。傘を忘れたのか?」
俺が声をかけると先客は顔を上げた。
先客はショートカットで、男でも女でも着るような服を着ている。
整った顔立ちをしているが、美少年と美少女のどちらだろう。
性別は不明だが、年齢は俺と同じくらいの小学校低学年に見える。
「朝から雨予報だったから傘は持ってたよ、私」
「私」ということは、この子は女の子なのだろう。
そしてこの子は傘を持っていたらしい。
それなのになぜか今、ずぶぬれで途方に暮れている。
「どうして今は傘を持ってないんだ? 失くしちゃったのか?」
「雨が降ってる最中に傘を失くす人なんていないよ」
女の子はやや言い淀んでから、傘を持っていない理由を告げた。
「……盗られちゃったの。傘を差して歩いてたら、いきなり」
「そんなことある!?」
思わず大声が出てしまった。
傘を差して歩いている人の持つ傘を奪うなんて、そんな意地悪は聞いたことがない。まるでいじめ……と思ったところで、もしかすると本当にいじめなのではないかという考えに至った。
俺がいじめを疑ったことに気付いたのだろう女の子が、また言葉を零す。
「友だちが、好きな相手に告白をしたら、相手に私のことが好きだから付き合えないって言われたんだって。だから恋を邪魔した私は泥棒猫らしいよ。泥棒猫はいじめてもいいんだって」
俺には泥棒猫の意味はよく分からないが、話の流れや泥棒のイメージから、悪い言葉だということは分かる。
少なくとも友だちに相手に使う単語ではないはずだ。
そしてその出来事がきっかけでこの子がいじめられるのは、どう考えてもおかしい。そんな理屈は通るはずがない。
告白相手がこの子に惚れていただけで、彼女が何かをしたわけではないし、まずどんな理由があってもいじめは正当化されない。
「告白相手が惚れてる君にこんなことをしたら、その友だちは余計に相手から嫌われるだろ」
「私もそう思う。でも私に腹が立って仕方がないんだって」
腹が立ったから何だと言うのだろう。腹が立ったら何をしてもいいわけではないだろうに。
そんなことのせいで、大雨の中でずぶ濡れになっているこの子の気持ちを考えはしないのだろうか。
「意地悪をされたのは今日が初めて?」
「ううん、結構前から。傘を盗られたのは今日が初めてだけど」
そんなしょうもないことが理由のいじめがずっと続いているなんて。この町の学校はどうなっているのだろう。俺の通う学校ではみんな仲良く遊んでいるのに。
「いじめのことを誰かに言った? 親とか友だちとか学校の先生とかに」
女の子は一度俺の目を見てから、すぐに視線を外して俯きながら答えた。
「……先生に言ったけど、効果は無かったよ。あの子が学校では嫌がらせをしないで、学校の外で嫌がらせをしてくるように変わっただけ」
「そのことも伝えたらいいんじゃないか?」
「無理だよ。だって目撃者がいないことを確認してから嫌がらせをしてくるんだもん。あの子と私のどっちの意見が正しいかなんて、誰にも分からないよ。それどころか、あの子は友だちと口裏合わせをするだろうから、私の方が嘘つき扱いされるかも」
「う、うーん」
相手は巧妙に嫌がらせをしているようだ。
今回だって、きっと目撃者はいないのだろう。人の多い都会では差している傘を奪ったら目立つに決まっているが、この町の道路は自分の周囲に誰も歩いていないことの方が多い。
相手はそのことを分かっていて、この子の傘を盗んだのだろう。
「……テレビと違って、現実世界には正義のヒーローなんていないんだよ。ゴレンジャーも仮面ライダーも魔法少女も空想の中だけの存在で、実際には悪者をやっつけてなんてくれないんだ。助けてなんてくれないんだよ」
女の子は諦めたように吐き捨てた。
しかし、これには異を唱えたい。
「ゴレンジャーがいるかはさておき、正義のヒーローは俺たちの世界にもいるよ。まだ君が出会ってなかっただけで」
「そんなものが本当にいるんだったら、私を助けてくれたはずだよ。だけどいくら待っても正義のヒーローは来てくれなかった」
すべてを諦めたような女の子に向かって、俺は言った。
「来たよ」
「え?」
女の子は意味が分からないといった表情で俺のことを見つめた。
だから、もう一度言う。
「ヒーローは来たよ。だって俺が、正義のヒーローだから!」
「君はただの男の子でしょ」
決まったと思ったのに、女の子は真顔のまま俺を見ている。
若干の気恥ずかしさを覚えたが、それでも自身の発言を撤回するつもりはなかった。
「今はただの子どもだけど、俺が将来、正義のヒーローになれば、君は正義のヒーローに助けてもらったことになる!」
確かに今の俺は正義のヒーローではない。
でもそれなら、辻褄を合わせればいいだけだ。
後々、俺が正義のヒーローになればいい!
「なれるわけないよ。正義のヒーローになんて」
「なれるよ。なってみせる。ヒーローに二言は無い!」