ギルドの扉を開けたとき、朝の空気はまだ冷たく、静まり返った室内には、かすかにインクと古紙の匂いが漂っていた。
クレアは、掃き掃除から一日を始めるのが好きだった。誰もいないうちに、昨日の埃と喧騒の残り香を拭い去る。
――それが、冒険者ギルド《黒獅子の牙》の受付嬢としての日課になっていた。
窓際に置かれた観葉植物の鉢に軽く水をやると、小さな緑が揺れる。
無言のまま箒を取り、ギルドホールの床を一歩ずつ掃いていく。
昨日の足跡、土埃、時に血の染み……この床は、冒険者たちの人生の通過点であり、時に帰れなかった者の痕跡でもあった。
「今日は、雨になるかもしれないわね」
小さく呟きながら、彼女は掲示板の張り紙を確認する。湿気のせいか紙がわずかに反っている。
依頼票を貼り直し、整える手際は無駄がない。補給申請書、報告書、全て一つひとつ目を通して棚に戻す。
誰に見せるでもないこの几帳面さは、もはや彼女の癖だった。日々の繰り返しが、彼女を支えていた。
余計なことを考えずに済むように。記憶の中に沈みすぎないように。
クレアの指には、戦士が好んで使うグローブの跡がわずかに残っている。
今はもうはめてはいないが、薄く硬くなった皮膚がその記憶を刻んでいた。
かつては、剣の柄を握りしめていた手。その名残だけが、今も彼女に“自分が何者だったか”を忘れさせてはくれない。
やがて、扉の鈴が軽やかに鳴り、街の喧騒がギルド内に流れ込んでくる。
朝一番の冒険者たちが談笑しながら受付へと向かい、華やかな声が次々と響いた。
「おはようございます、クレアさん!」
「おはようございます」
軽く会釈しながらも、クレアは表情を崩さなかった。挨拶はあくまで丁寧に、けれど距離を保つのが、彼女のスタンスだった。
カウンターの向こうで、新人の受付嬢たちが冒険者と楽しげに会話している。その笑顔を横目に、クレアは静かに依頼票の束を広げた。
(……これは、昨日までEランクだったはず。急に報酬が跳ね上がってる。対象も“群れの可能性あり”に変わってるわね)
手元の依頼票に目を細め、違和感を読み取る。上層部の判断か、それとも現地情報の精度か――いずれにせよ、この依頼は“止めておくべき”だと、クレアの中で結論が出た。
「この依頼、今朝から受け付け停止にします。報告書の精査が必要です」
淡々と同僚に伝え、掲示板から依頼票を剥がす。その所作にも、どこか剣士のような迷いのなさがあった。
「またクレアさんかぁ。最近、口うるさくなってません?」
近くにいた若い冒険者が、苦笑いを浮かべながら文句を漏らす。クレアはその言葉に一切動じず、静かに言い返す。
「止めなかったら、あなたは今日、運が悪ければ骨になってたわ。私の目を信じられないなら、別のギルドを選んでも構わない」
「……うぅ、わかりましたよ」
青年はしぶしぶ引き下がっていく。その背中を見送りながら、クレアは心の中で小さく息を吐いた。
(今の子たち、焦ってるのよね。ランクを上げたくて、命の重さを忘れてる)
ギルドが拡大して以降、冒険者登録者数は年々増加の一途をたどっている。
だがそれに比例して、事故も増えた。勢いだけで依頼に飛び込み、二度と戻ってこなかった若者たちの顔が、今も時折、夢に出てくる。
カウンターの奥、壁に貼られた紙にふと目をやる。
ギルドの“失踪者リスト”――帰らなかった者たちの名前が、小さな文字で静かに並んでいた。
その中に、彼女がかつてともに戦った仲間の名もあった。ひとつ、ふたつ、誰にも気づかれぬように、目でなぞる。
(せめて……今は、送り出す側として、誰かを守りたい)
そんなことを考えていた時だった。
「すみません、この依頼、僕にやらせてもらえますか!」
元気のいい声と共に、ひとりの少年がカウンターに飛び込んできた。
まだ初々しい装備に、擦り傷ひとつない腕。名札には“リク”と記されている。
最近登録された新人の一人だ。目の奥に、無邪気な闘志が宿っていた。
声が大きい。距離感もつかめていない。けれど――そのまっすぐさだけは、本物だった。
(……また、そういう目。自分はやれると思ってる。何者かになれるって信じてる)
クレアは、無言のままリクの前に出された依頼票を見た。さっき、受付停止にしたはずの依頼――誰かが貼り戻したのか。あるいは、控えの束から勝手に持ってきたのか。
「その依頼は、あなたのランクじゃ危険すぎるわ。仲間もいない。やめておきなさい」
「でも、挑戦しないと……いつまで経っても、上に行けません!」
まっすぐな言葉だった。だが、クレアの胸には、冷たいものが静かに波打っていた。
(挑戦すれば、誰でも進めると思ってる……それが、一番危ない)
そして同時に、忘れていたものが心に差し込む。あの頃の自分もまた、そうだったのだ。何者かになれると思っていた。守れると思っていた。けれど、現実は、違った。
「……準備はしているの?」
「はいっ。装備は整えましたし、応急薬も持ってます。……まだ一人ですけど、後で仲間も探します!」
言い終えた後、リクはどこか期待するようにクレアを見上げた。
だが、クレアの返答は変わらなかった。
「その“後で”が命取りになるのよ。せめて、仲間を見つけてから出直して」
リクの顔から笑みが消える。だが、下を向いたまま、拳を握りしめた。
「……わかりました。ちゃんと準備して、もう一度来ます」
その姿を見て、クレアはほんの少しだけ、胸の中で何かが動いた気がした。
それが、希望か、不安か、あるいはただの記憶か――
彼女自身にも、まだ分かっていなかった。