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「おかえり」と言うために、私はここにいる
「おかえり」と言うために、私はここにいる
烏羽 楓
異世界ファンタジー内政・領地経営
2025年05月15日
公開日
1.2万字
完結済
【ネオページ、プチコン1参加作品】 ギルドの受付嬢・クレアは、他の受付嬢たちと違って愛想も笑顔も少ない。 「口うるさい」「冷たい」「昔は冒険者だったらしい」――そんな噂が、彼女にはつきまとう。 だがその静かな瞳の奥には、かつて前線で仲間を喪った記憶と、今もなお消えない痛みがあった。 ある日、熱意だけは一人前の新人冒険者・リクがギルドに現れる。夢を追う彼の無謀な挑戦に、カミラは警告する――。 「生きて帰ってきてほしい」 戦うことをやめた彼女に残されたのは、“見送ること”と“待つこと”。 これは、“送り出す者”の物語。 帰らぬ者を知るからこそ、「おかえり」と言える強さがある。 ギルドという交差点で、静かに誰かの命を守り続ける受付嬢がいた。

第1話

 ギルドの扉を開けたとき、朝の空気はまだ冷たく、静まり返った室内には、かすかにインクと古紙の匂いが漂っていた。


 クレアは、掃き掃除から一日を始めるのが好きだった。誰もいないうちに、昨日の埃と喧騒の残り香を拭い去る。


 ――それが、冒険者ギルド《黒獅子の牙》の受付嬢としての日課になっていた。


 窓際に置かれた観葉植物の鉢に軽く水をやると、小さな緑が揺れる。


 無言のまま箒を取り、ギルドホールの床を一歩ずつ掃いていく。


 昨日の足跡、土埃、時に血の染み……この床は、冒険者たちの人生の通過点であり、時に帰れなかった者の痕跡でもあった。


「今日は、雨になるかもしれないわね」


 小さく呟きながら、彼女は掲示板の張り紙を確認する。湿気のせいか紙がわずかに反っている。


 依頼票を貼り直し、整える手際は無駄がない。補給申請書、報告書、全て一つひとつ目を通して棚に戻す。


 誰に見せるでもないこの几帳面さは、もはや彼女の癖だった。日々の繰り返しが、彼女を支えていた。


 余計なことを考えずに済むように。記憶の中に沈みすぎないように。


 クレアの指には、戦士が好んで使うグローブの跡がわずかに残っている。


 今はもうはめてはいないが、薄く硬くなった皮膚がその記憶を刻んでいた。


 かつては、剣の柄を握りしめていた手。その名残だけが、今も彼女に“自分が何者だったか”を忘れさせてはくれない。


 やがて、扉の鈴が軽やかに鳴り、街の喧騒がギルド内に流れ込んでくる。


 朝一番の冒険者たちが談笑しながら受付へと向かい、華やかな声が次々と響いた。


「おはようございます、クレアさん!」


「おはようございます」


 軽く会釈しながらも、クレアは表情を崩さなかった。挨拶はあくまで丁寧に、けれど距離を保つのが、彼女のスタンスだった。


 カウンターの向こうで、新人の受付嬢たちが冒険者と楽しげに会話している。その笑顔を横目に、クレアは静かに依頼票の束を広げた。


(……これは、昨日までEランクだったはず。急に報酬が跳ね上がってる。対象も“群れの可能性あり”に変わってるわね)


 手元の依頼票に目を細め、違和感を読み取る。上層部の判断か、それとも現地情報の精度か――いずれにせよ、この依頼は“止めておくべき”だと、クレアの中で結論が出た。


「この依頼、今朝から受け付け停止にします。報告書の精査が必要です」


 淡々と同僚に伝え、掲示板から依頼票を剥がす。その所作にも、どこか剣士のような迷いのなさがあった。


「またクレアさんかぁ。最近、口うるさくなってません?」


 近くにいた若い冒険者が、苦笑いを浮かべながら文句を漏らす。クレアはその言葉に一切動じず、静かに言い返す。


「止めなかったら、あなたは今日、運が悪ければ骨になってたわ。私の目を信じられないなら、別のギルドを選んでも構わない」


「……うぅ、わかりましたよ」


 青年はしぶしぶ引き下がっていく。その背中を見送りながら、クレアは心の中で小さく息を吐いた。


(今の子たち、焦ってるのよね。ランクを上げたくて、命の重さを忘れてる)


 ギルドが拡大して以降、冒険者登録者数は年々増加の一途をたどっている。


 だがそれに比例して、事故も増えた。勢いだけで依頼に飛び込み、二度と戻ってこなかった若者たちの顔が、今も時折、夢に出てくる。


 カウンターの奥、壁に貼られた紙にふと目をやる。


 ギルドの“失踪者リスト”――帰らなかった者たちの名前が、小さな文字で静かに並んでいた。


 その中に、彼女がかつてともに戦った仲間の名もあった。ひとつ、ふたつ、誰にも気づかれぬように、目でなぞる。


(せめて……今は、送り出す側として、誰かを守りたい)


 そんなことを考えていた時だった。


「すみません、この依頼、僕にやらせてもらえますか!」


 元気のいい声と共に、ひとりの少年がカウンターに飛び込んできた。


 まだ初々しい装備に、擦り傷ひとつない腕。名札には“リク”と記されている。


 最近登録された新人の一人だ。目の奥に、無邪気な闘志が宿っていた。


 声が大きい。距離感もつかめていない。けれど――そのまっすぐさだけは、本物だった。


(……また、そういう目。自分はやれると思ってる。何者かになれるって信じてる)


 クレアは、無言のままリクの前に出された依頼票を見た。さっき、受付停止にしたはずの依頼――誰かが貼り戻したのか。あるいは、控えの束から勝手に持ってきたのか。


「その依頼は、あなたのランクじゃ危険すぎるわ。仲間もいない。やめておきなさい」


「でも、挑戦しないと……いつまで経っても、上に行けません!」


 まっすぐな言葉だった。だが、クレアの胸には、冷たいものが静かに波打っていた。


(挑戦すれば、誰でも進めると思ってる……それが、一番危ない)


 そして同時に、忘れていたものが心に差し込む。あの頃の自分もまた、そうだったのだ。何者かになれると思っていた。守れると思っていた。けれど、現実は、違った。


「……準備はしているの?」


「はいっ。装備は整えましたし、応急薬も持ってます。……まだ一人ですけど、後で仲間も探します!」


 言い終えた後、リクはどこか期待するようにクレアを見上げた。


 だが、クレアの返答は変わらなかった。


「その“後で”が命取りになるのよ。せめて、仲間を見つけてから出直して」


 リクの顔から笑みが消える。だが、下を向いたまま、拳を握りしめた。


「……わかりました。ちゃんと準備して、もう一度来ます」


 その姿を見て、クレアはほんの少しだけ、胸の中で何かが動いた気がした。


 それが、希望か、不安か、あるいはただの記憶か――

 彼女自身にも、まだ分かっていなかった。

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