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第2話

 リクが去ってから数分後、カウンターには再び冒険者たちが並び始めた。


 受付嬢としての業務に戻ったクレアは、淡々と依頼内容を精査し、冒険者たちに適した仕事を選び分けていく。


「この鉱山調査は、ガスが出やすい区域に入ってるわ。風属性の術士がいないと危険よ。補助魔法の心得がある人と組んで」


「了解っす……やっぱクレアさん、細かいなぁ」


 不満気な顔をする冒険者もいれば、素直に感謝の言葉をかける者もいる。


 だがどんな相手にも、クレアの対応は変わらない。厳格で的確。まるで冷たい刃物のように――だが、それはすべて“失わないための配慮”だった。


(口うるさいと思われるくらいが、ちょうどいい)


 かつて、仲間が命を落とした時も――ギルドの受付は、ただ依頼票を通して送り出しただけだった。


 誰かが止めていれば、ひとつの判断が違っていれば。


 だからクレアは、“自分が止める側”になると決めたのだ。


「……クレアさんって、怖いけど優しいよね」


 ふいに聞こえた言葉に、クレアは顔を上げる。


 隣のカウンターで応対していた新人受付嬢・マリーが、冒険者からそう言われて微笑んでいた。クレアの視線に気づくと、マリーが小さく会釈してくる。


「すみません、つい聞こえちゃって。クレアさん、やっぱり頼られてますね」


「どうかしら。煙たがられてるようにも思うけど」


「でも、結果的に事故は減ってます。わたし、いつかクレアさんみたいになりたいです」


 マリーの瞳に宿る尊敬の色を、クレアは少しだけ意外に思った。


 あどけないが芯の強いその表情に、かつての自分の姿が重なる。


(あの頃の私は、誰かの後ろを見つめる余裕なんてなかった)


 いつからだろう、こうして“誰かに見られる立場”になったのは。


 剣を置いたことで、背負ったものは確かに減った。けれど――肩に残る重みは、今も消えてはいない。


 昼過ぎ、ひと息ついたタイミングで、クレアは裏の休憩室へ向かう。棚から自分のカップを取り出し、魔導式の簡易ポットに手をかざして湯を沸かす。


 しん……と静まり返った空間。受付の喧騒が嘘のように、ここには時間がゆっくり流れていた。


 カップに注がれるお茶の香りが、ふと彼女の記憶を揺らす。


(あの子、リク……まっすぐな目をしていたわね)


 どこか放っておけない、けれど、守ってやることもできない。


 今のクレアにできるのは、“正しい判断”を与えることだけ。


 冒険者の才能があるかどうかなんて、本当は現場に出ないと分からない。でも、命を賭ける仕事に“経験を積めばいい”という理屈は通らない。


 だからこそ、彼女は冒険者たちに“無事に帰ること”の大切さを口を酸っぱくして語る。


 ――それは、剣を手放した者にしか、語れないことだった。


「……時間ね」


 時計を見て、クレアはカップを片付ける。


 午後の業務が始まる。報告書の整理、依頼達成者への報酬支払い、そして再び、新しい命の出発を見送る時間が。


 カウンターに戻った彼女は、再び掲示板の依頼票に目を走らせた。その手つきには、どこか祈るような静けさが宿っていた。


 午後の受付は、朝よりも少し穏やかだった。大口の依頼を終えた中堅冒険者たちは酒場に流れ、新人たちは昼食の時間。ギルドのホール全体に、ほどよい余白が生まれていた。


 その時間が、クレアはわりと好きだった。急かされるでもなく、騒がれるでもなく、静かに“判断”に集中できる。


 まるで戦場の前線で、仲間の動きを読む時のように。


「すみません、報酬の確認、お願いします!」


 戻ってきた冒険者が報告書を出し、クレアは目を通す。少し紙が濡れていた。泥か、雨か、あるいは血か――彼らの誰もが、紙の端に“生”の痕跡を残してくる。


「モンスターの個体数、予定より多かったようね。……その分、加算されるはず。待ってて」


 無言でうなずく男たち。彼らの礼儀は簡素で、それが何より信用の証だ。


 数件の対応を終えた頃、クレアはふと、カウンターの隅に佇む人影に気づいた。


 リクだった。朝とは打って変わって、やや控えめに、所在なさげに立っている。


 彼の装備は変わっていない。が、目つきだけが違った。ほんの少し、戸惑いと悔しさが混じっている――経験した者の、最初の揺れだ。


 クレアは視線を送るだけで、声はかけなかった。


 何かを決心したかのようにリクの方から、恐る恐る近づいてくる。


「あの、さっきの……話、もう一度だけ、いいですか」


「ええ。仲間は?」


「……見つからなくて。でも、明日からギルドの交流訓練があるって聞いて、参加してみようと思います」


 その答えに、クレアはわずかに目を細めた。


「それなら正解。独りで突っ込むより、よほど建設的よ」


「……でも、やっぱり、悔しいんです。止められて正しいのはわかってるけど、何もしないまま帰るのって……自分が何者でもない気がして」


 ぽつり、と漏れた言葉が、クレアの胸の奥に小さく突き刺さる。


(……何者でもないと感じるあの痛み。わかる。私も、剣を置いたとき、同じだった)


 誰かを守れなかった日。命の代わりに残ったのは、あまりに静かな“無力”の実感だった。


「自分が何者でもないと感じること。それは悪いことじゃないわ」


「え……?」


「それは、まだ何者にもなれるということよ。だから焦らなくていい。地図も見ずに歩き出すほど、命は軽くないわ」


 リクは一瞬、言葉の意味を咀嚼そしゃくするように黙り込んだ。


「……ありがとうございます」


 そう言って彼は去っていった。今度は、走らず、歩いて。その後ろ姿を見送って、クレアはふう、と小さく息を吐く。


(まっすぐな子ほど、折れやすい。だから……ほんの少しだけ、寄りかかれる場所があればいい)


 そういう意味では、受付嬢というのは都合がいい。剣を取らず、ただそこにいて、必要なときに支える。


 誰かにとって、“戻ってこれる場所”であればいいのだ。


 ふと、カウンターの奥の書類棚に目をやると、一枚の古い登録証が目に入った。


 茶色く焼けた端、消えかけた文字――


 【クレア・ヴェルミーナ】

 【冒険者ランク:A】

 【登録状態:活動終了】


 棚の奥にしまい込んだはずなのに、整頓の拍子で少しだけ外に滑り出ていたらしい。クレアはそっと、それを手に取って、裏返す。


 裏面には何も書かれていなかった。ただ空白だけが、かつての記憶を思い起こさせる。


(あれから、何年になるかしら)


 彼女はそれを封筒に入れ、静かに元の場所へ戻した。


 誰にも見せるつもりはない。ただ、忘れてしまってもいけない。


 ギルドの扉が再び開き、次の冒険者が入ってきた。いつもと変わらぬ喧騒が、午後の空気に溶けていく。


 クレアは椅子に腰を下ろし、依頼票の山に手を伸ばした。

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