*動物の死骸が出てきます。苦手な方はご注意ください。
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泣き疲れてソファで眠ってしまった翌朝。
何事もなかったかのように届けられた朝食のトレイに、トリシャは目を見張った。
(なんだかいつもより……豪華な気がするわ)
朝食はいつも卵料理とハムかベーコン、じゃがいもや野菜が添えられたワンプレートだ。そこに日替わりのスープとデザートのヨーグルトがついてくる。ヨーグルトには果実のジャムつきだ。
ところが今朝は朝から川魚のソテーにトマトソースが添えられていた。デザートにはヨーグルトに加えてタルトまである。トリシャが輿入れしてきた日に食べたあのぶどうのタルトだ。
なぜ突然メニューが変わったのだろう。もしや昨晩盗み聞きをしていたことがバレて、気を遣われてしまったのだろうか。だが自分という存在が疎ましいのなら、わざわざそんなことをするはずがない。それにヘルマンはトリシャの食事を抜くか減らすかしてみろと指示していた。それを受けてのこれなら、主人の命令に反した行動ということになる。
「……たまたまかもしれないわね」
きっと材料が余っていたとか、賄いで作り過ぎただとか、そんな理由だろう。平時であれば美味しくいただくところだが、いろんなことがありすぎたトリシャの胃にこの内容は重過ぎた。まさかそこまで考えての嫌がらせではないと思いたい。
「困ったわね。残すのは気が引けるし……」
万年貧乏であらゆる節約をしてきた身として、食事を残すことは非常に後ろめたい。こんな日こそあの子猫に助けてもらいたいところだが、今日に限って子猫が姿を見せる気配はない。
昨日の昼と夜と、食欲がなかった分、少しは多く食べることができた。だがいつもより量が多いこともあって三分の一ほど残してしまった。
(残してしまうことをお詫びするメッセージを……いえ、やめた方がいいわね)
迷惑と思われている行為を繰り返すことはしたくない。だからこのままでいい。
残したままの食膳を下げるために扉を開ければ、ふと部屋の前に何かが落ちていることに気がついた。
目を凝らしてそれをよく見たトリシャは、上げそうになった悲鳴を飲み込んだ。反射的に扉をぱたんと閉める。
(嘘でしょう? 今のは……っ)
足元からぶるりと立ち上る震えを制するように、もう一度薄く扉を開いた。先ほどと同じ場所に横たわっている無惨なそれは——ネズミの死骸だった。
胸に手を当てて動悸を落ち着かせた後、そろそろと食膳をサイドテーブルに戻した。動かないネズミに目もくれず、すぐさま扉を閉めてそこにもたれる。
トリシャは元伯爵令嬢だ。だが家計を支えるため十歳の頃から実家の台所に立っていた。
そして一家の台所においてネズミの存在は、そう珍しいものではなかった。
害獣であるネズミを生かしておいては病気の蔓延や食材のロスにつながる。だからトリシャもネズミ捕りには熱心だった。ちょろちょろと屋敷の中を走るネズミを箒を持って追いかけたことも一度や二度ではない。仕掛けた罠にかかったそれを処分するのはさすがにドーシャに任せていたが、死骸を見つけたら「よかった」と安堵するくらいには図太い神経をしている。
だから今、自分の部屋の前に置かれたそれを怖いと思わなかった。古いお屋敷ならネズミの一匹や二匹、走り回っていても不思議ではない。退治されてよかったなとすら思う。
だがそこに誰かの悪意が潜んでいるなら話は別だ。これほど綺麗に掃除され管理された廊下の、しかも自分の部屋の真ん前でネズミが息絶えるというのは、明らかに不自然だった。
そこから導かれる答えは——。
(誰かがわざと、ここに置いたの……?)
昨晩、階下で聞いたヘルマンの声が蘇る。
『——子どもが生まれる前になんとしてでも追い出したい』
いつまでも居座っている政略結婚の妻を追い出すために、彼が指示したのか。あるいは食事を抜くことに抵抗があった使用人が、別の手としてこの嫌がらせを思いついたのだとしたら。
必死に食べ物を詰め込んだ胃のあたりが、きゅうっと苦しくなる。なるほど、これを見越しての豪華な朝食だったというなら、ある意味見事な嫌がらせだ。ネズミなど怖くないトリシャに、これ以上ない打撃を与えている。
楽しみだった食事の時間が、ここ数日で一気に苦しいものに変わってしまった。この部屋でヘルマンと向かい合って過ごした穏やかな夕食の日々が、まるで遠い昔のようだ。
(いえ、楽しかったのはわたくしだけね。ヘルマン様にとっては苦痛だったのだから)
彼が一緒に食事をとりたいのは自分ではなく“青の方”だ。
昨晩ヘルマンがひとりで食事をしていたのはダイニングルーム。改修中で使えないと説明されていたその部屋に工事の気配はなく、ヘルマンもカミラも普通に利用していた。
身重の“青の方”はトリシャのせいもあり、三階から降りることができない。だからヘルマンはダイニングでひとりきりの食事を重ねている。
彼が“青の方”と「まともに夕食もとれない」のは自分のせい。使ってこなかった主寝室と夫人の部屋は明け渡せても、愛する人と向かい合って過ごすダイニングルームにトリシャを入れることはしたくなかったのだろう。
次々と発覚する事情に、身体の震えが止まらなかった。ネズミが怖いのではない、誰かの悪意が怖くて、足が竦んでしまった。
(落ち着くのよ、トリシャ。ここで泣いたって誰も助けてはくれないのだから)
深呼吸を繰り返してどうにか自分を落ち着けたとき、扉を叩く音がすぐ後ろで響いた。「トリシャ嬢!」と焦るような声は、聞き間違えるはずもない、夫のものだ。
「ヘルマン様……」
「トリシャ嬢、あのっ、大丈夫ですか!?」
「……えぇ。気分はだいぶよくなりました」
昨晩疲れが溜まっているからと顔も見ずに返事したことを思い出し、そう答えた。本当は先ほどの出来事で気分が悪いままだが、それを伝える気にはなれなかった。
「そうですか、よかったです。……あの、扉を開けてもらえないでしょうか。あなたの顔を見ないと心配が消えなくて」
「……」
彼がトリシャを心配することなどはたしてあるのだろうか。疑問がもたげたが、ここで断って押し入られても困ることになる。
息をついてからうっすらと扉を開ければ、そこにはアッシュブロンドの髪をやや乱したヘルマンの姿があった。ぐにゃりと下がった眉尻が、トリシャを見た途端に少しだけ戻る。
「トリシャ嬢、ありがとうございます。その、おはようございます」
「えぇ、おはようございます、ヘルマン様」
「本当に体調は戻ったのでしょうか。医者を呼ぶ必要は」
「それには及びませんわ。少し疲れてしまっただけですから。朝食も美味しくいただきましたし」
ふとサイドテーブルに目をやれば、食膳はすでになかった。誰かが片付けてくれたのだろう。当然ながらネズミの姿もない。使用人の仕事の速さはさすがとしか言いようがない。
ヘルマンはトリシャの返答に頷きつつも、「その、あの……」と歯切れ悪く切り出した。
「先ほど、扉の前で何か、見ませんでしたか?」
「何か、とは?」
「いえ、あの、何も思い当たらないのであれば大丈夫なのですが」
「……何も見ておりませんわ。それとも何かあったのでしょうか」
「いえ! そういうわけではありません! 何もありませんので!」
慌てて首を横に振った彼は、どこか安堵したかのように話を切り替えた。
「今日のトリシャ嬢のご予定は?」
「中断していたお祝いの品の目録作りの続きをしようと思っています」
「そうですか。実は領内の冬支度の方も落ち着きまして、私も時間がとれそうなんです。よろしければ一緒に昼食でも……」
「……作業をきりのいいところまで進めたいので、お昼の時間がいつになるのかわかりませんの」
「それならあなたに合わせますよ」
「いえ、ご迷惑でしょうからヘルマン様はヘルマン様でおとりください。わたくしは……そうだわ、朝たくさんいただいたので、お昼はいりません。カミラにそのようにお伝えいただけますか?」
「え? えぇ、それはかまいませんが、トリシャ嬢、やはりお身体が不調なのでは? 休まれた方が……」
「いいえ、作業は進めます。それくらいしか……わたくしにはできませんので」
碌に仕事もしないお飾りの妻だと、これ以上ヘルマンに思われたくなくて、ついそんな物言いをしてしまった。けれど言ってすぐに後悔する。
(目録作りなんて、たいした仕事じゃないのに、わたくしったらずいぶん偉そうに)
ヘルマンとトリシャが連名で誰かに結婚祝いを贈る日なんてきっとこない。とすれば目録など必要ない話になる。
自嘲したくなるのを飲み下して、俯いたままヘルマンに告げた。
「作業も部屋で行いますので執務室には行きません。この部屋から出ませんので、わたくしのことはお気になさらず。ヘルマン様はヘルマン様で自由にお過ごしください」
扉の前に悪意を撒かれて、これ以上部屋を出て自由に行き来する勇気は持てそうになかった。お飾りの妻はお飾りらしく、夫人の部屋でだけ過ごした方が皆が喜ぶというならそうしようではないか。
どうにかヘルマンとの話をつけてから扉を閉めた。しばらく部屋の前に彼の気配を感じたが、やがてそれも消えた。
もうすっかり枯れ果てたと思っていた涙が、また込み上げそうになる。懸命に堪えながら、豪華に設えられた部屋に向かってひとり呟いた。
「わたくし、ネズミは怖くないんです。だけどショックは受けました。これで……満足ですか?」
まるで部屋の前で起きたことを確かめにきたかのようなタイミングに、胸が押しつぶされそうだった。
彼に直接ぶつけられなかった言葉は、冷たい部屋とトリシャの心の中にだけ響いていった。
昼食もスキップしたトリシャの部屋を訪ねる者は誰もいなかった。
淡々と目録作成に勤しんでいると、さすがに疲れを感じて、息抜きがてらバルコニーに出てみることにした。
冬支度が一段落ついたとヘルマンが言っていたのは本当らしく、領民たちが働く姿からも数日前の気忙しさが薄まっていた。寒さも一段と厳しくなったようで、下から立ち上る風がきりりと冷たい。
目を細めた先につい見つけてしまうのはヘルマンの姿。一段落したとはいえ、やることがまったくないわけではないのだろう。道路の脇の堀に渡した簡易の橋を確認して回っている。堀を作ることを優先して、橋の構築には手が回らなかったそうで、今は軽く板を渡しているだけの状態だ。春になれば大々的に補修工事に入ると聞いている。
作業に熱中していたはずのヘルマンが顔を上げた瞬間、ふと視線が絡んだ気がした。まさかと思ったが、彼は一向に視線を逸らさない。
視力がいいことだけは妹にも負けないと言っていた言葉を思い出す。あのときもこれくらい距離が離れていた。
(何を見ているの……? わたくし? それとも……)
トリシャははっと上を見上げた。頭上には三階のバルコニー部分が広がっており、それ以上先を見ることはできない。
(もしかして“青の方”の姿が見えるとか?)
気になって身を乗り出しても何かが見えるはずもなく、トリシャはすぐに諦めた。
ヘルマンはあの日バルコニーに立つトリシャを見つけたと言ったが、本当は “青の方”の姿が見えないか探していたのかもしれない。身重で外出もできない彼女が、気分転換に慣れ親しんだ風景を眺めるのは不思議なことではない。妊婦には心配な寒さのようにも思えるが、ずっとここで暮らしてきた人なら慣れていることだろう。
(わたくしはずいぶんと、自分に都合がいい勘違いをしてきたのね)
ヘルマンの気遣いを自分に対する親切だと思い込み、屋敷を采配する権利や領地の見学を当然のことのように強請った。使用人も領民も、皆が領主夫人と戴いていたのは“青の方”の方なのに、自分こそがその立場なのだといきがった。
なんと滑稽で強欲な姿だったことだろう。
けれど今更それをなかったことにはできない。なぜなら自分たちの結婚は王命によるものだ。気に入らないからといって反故にすることはできない。
二人が離婚できないということは、ヘルマンと“青の方”は永遠に結婚できないということだ。二人の間に生まれる子どもはいったいどうなってしまうのだろう。
その先を考えたくなくて、トリシャは部屋へと舞い戻った。窓に鍵をかけながら浅い呼吸を繰り返す。
“青の方”の産み月まであとどのくらいあるのだろう。出産ともなれば医者や産婆が呼ばれ慌ただしくなるはずだ。産声が上がればさすがに隠してはおけなくて、そのときになって打ち明けられるのだろうか。
ぐるぐると過ぎる仄暗い思いに押しつぶされそうになって、何も手がつかなかった。作業を続ける気にはとてもなれず、夕食や湯浴みも断って、ただひとり暖炉の火が揺れる様子を眺めていた。窓を閉めてもどこか寒々しい部屋に耐えられず、薪をひとつふたつと焚べていく。ぱちぱちと爆ぜる炎を見ているうちに瞼が重くなって、今日も寝室ではなく自室で眠ってしまった。
その日の夜、リドル領に初雪が降った。一晩降り続けた雪は、リドル領の麦畑と丘陵地を一面の銀世界に変えた。
母の実家で過ごして以来の雪に誘われて、トリシャは起き抜けに窓を開け放った。雪景色を見れば、このふさいだ胸の内も少しは明るくなるのではと期待した。
だがそこで見たものに、またしても心が氷りつく。
屋根のおかげで雪に見舞われなかったバルコニーの中心にあったもの。それは昨日部屋の扉の前で見たのと同じ、ネズミの死骸だった。