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16.その女性(ひと)は誰ですか?⑤

 羽理は少し考えて、十五時さんじ前と言うとっても中途半端な時間ではあったけれど、有給休暇を取らせてもらって早退することにした。


 何だかよく分からない感情にかき乱される自分の不甲斐なさが嫌で嫌でたまらなくて……ブルーな気持ちのままノソノソと帰り支度じたくをしていたら、仁子じんこから小声で「大丈夫? もしかしてランチタイムに何かあった?」と顔を覗き込まれて……。


 仁子からの優しい声掛けに、羽理は何故だか分からないけれど、鼻の奥がツンとしてジワリと涙がこみ上げてきてしまう。


 もちろん、何かがあったのは課長と……ではない――。


 真っ先にそう返すべきところを羽理が気付けずにスルーしてしまったのは、平常心ではなかったからだろう。


 そればかりか――。


「約束……したのに……あっさり破られ、たの……。向こうから……言って、きた、くせに……」


 小さな声で途切れ途切れに言ったら、仁子が「えっ? どういうこと? ランチ、行けなかったの?」と聞かれて。


「あ……」


 さすがにそうじゃない、と続けようとした羽理だったのだけれど、ちょうどそこで岳斗が「法忍ほうにんさーん、ちょっといいかな?」と仁子に声を掛けてきたから。

 私語で上司からの呼び出しを無視させるわけにはいかなかったので、羽理は淡く微笑むと、仁子を岳斗の方へとうながした。


(仁子のことだもん。どうしても気になったらきっと、課長にだってランチのこと、確認しちゃうよね?)


 仁子にとって、羽理との会話の当事者が倍相ばいしょう岳斗がくとならば、その彼に呼び出された仁子が羽理との話のズレを岳斗がくとの方に問いただして正しく理解するのも時間の問題だろう。


 そう思いながら羽理が見詰める視線の先。

 仁子が岳斗にともなわれて小会議室に入って行くのが見えた。


 羽理は二人の背中を小さく会釈えしゃくをして見送ってから、フロア内に残った他の面々に「お先に失礼します」と声を掛けて一人トボトボと財務経理課を後にした。



***



 帰宅後何もやる気になれなくてふて寝していた羽理うりは、十七時ごじ過ぎにノロノロと起き出したのだけれど。


 ぼんやりした頭のまま、ふと枕そばに置いていたスマートフォンを見ると、仁子からのメッセージがいくつか届いていた。


『調子はどんな? 何かいるものがあったらメッセしてね。届けるから』

 と言う文言の後に、小首を傾げて心配そうにする可愛いタヌキイラストのスタンプがくっ付いていて。


 それに続くようにして数分後のメッセージで『そういえば課長とのランチ、ちゃんと行けてたみたいだね。じゃあ、羽理との約束を破ったのは結局誰だったの? 何の約束を破られたの?』と打ち込まれていた。


 それとは別に倍相ばいしょう岳斗がくとからの着信が一件。

 留守番電話サービスに残された録音を聞いてみると、体調うかがいだったらしい。


 羽理は小さく吐息を落とすと、スマートフォンをポイッとベッドに放り投げた。


大葉たいようの……バカ……」


 未だに何の連絡もないと言うことは、大葉たいようは羽理が早退したことにですら、まだ気が付いていないのかも知れない。


「お風呂……入ろ……」


 モヤモヤし過ぎて小説を書く気にもなれないとか。


 羽理は気持ちを切り替えるべくサッとシャワーを浴びて早めに就寝してしまおうと考えた。


(そういえば屋久蓑やくみの部長の家に置いてた着替え、着て帰っちゃったな……)


 今飛ばされたら、パジャマとして持ち込んだものぐらいしか着るものがない。


 そう気が付いたのだけれど、いつもよりずいぶん早い時間の入浴だし、一連の不思議現象に対する大葉たいようの推察が正しければ、同時に入浴しない限り安全なはずだ。


 そういえば――。


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