脱衣所から出てきた
チュニックにはお約束と言うべきか。
吊り下げられた魚に釘付けの可愛い黒猫が描かれている。
一応ルームウェアだけれど、いわゆる楽ちんスタイルの服装なので、ちょっとコンビニくらいまでなら余裕で行けてしまうコーディネートだ。
ただ――。
(すまん。下着がなかったなっ!?)
所在なさげに胸の前で不自然に手を組んだ
恐らく下もノーパンだろう。
(早いトコ、家に連れて帰ってやんねぇと)
歩き方がぎこちない羽理を見ていると、何故か
(そうだ。羽理の家に行くときはサツマイモも持って行こう)
今日、会社の軽トラ荷台に乗せて持ち帰ったサツマイモ三箱は、
総務部所属の人間だけに絞れば、数個ずつお裾分け出来る程度には沢山もらえたので、帰ってすぐ羽理とワイヤレスイヤホンで通話しながら荷台から下ろした。
本当は社から小袋を取って来て小分けにしてから、今日中に部下たちへ配ろうと思っていたのだが、
受付で社長と、自分と同フロア内にいる財務経理課長の
社用車の軽トラは他の人間が使うことも考慮して荷台を空けておきたかった。
連絡もせず急に訪問してきた迷惑料代わり。本当は一人でも楽々出来る作業だったが、
挙げ句、作業で汚れたから風呂へ入らせろだのと騒ぐ始末。
さすがに身内とはいえ社外の人間に会社のシャワー室を使わせるわけにはいかなかったから、自宅の風呂へ入らせることにして。
ふと、
なのに。
結局何の因果かどんなに時間をずらして入浴しても、羽理と大葉のバスルームは繋がるようになっているらしい。
***
風呂上がりの
(あのままの格好じゃ、色々と想像しちまってヤバすぎるからなっ。――主に俺の息子がっ)
と心の中で付け加えつつ。
ブランケットで冷えた身体を温めながら下着の不在を感じさせないようしっかり隠してもらえると大変有難いんだが、と思ってしまった
それでも――。
「羽理、何で
姉の前で羽理の身体に反応してしまうかも知れないと言う最大級の危険を
何なら姉を押し退けてでも羽理の隣に座りたい
そのことに異議を申し立てた
そのタイミングを推し測ったみたいに柚子の足元からテトテトと離れたキュウリが、
羽理が懸命にブランケットでカバーするも、
結局、余りのしつこさに羽理が困ったように眉根を寄せて
(ひょっとして羽理がノーパンだからそんなに反応してるのかっ!?)
「こらっ、ウリちゃん!」
言って、キュウリを抱き上げて羽理から引き剥がした
そのまましれっと羽理の横へ座った
羽理がさり気なく座布団の端っこに寄って、
抱き上げると割といつもそんな感じなので
代わりに「こいつって……お姉さまとか柚子さまとか言えないの?」と抗議しながら、スッと立ち上がって
「ところでたいちゃんと羽理ちゃんって……」
柚子の抗議に「はいはい」と適当な返事をする
そんな二人を交互に見遣って、柚子が口を開いた。
***
女同士だからいいかと言うと、そう言うこともなくて……。
例えば最初からお互い裸でいることが前提の温泉などなら心の準備も出来ている。
でも、今回は余りに突然過ぎたから。
何と言うかフルンと揺れた柚子の
いや、
一番最初に思ったのは、(あんな大きなお胸の女性には〝勝てっこない〟!)と言うこと。
だって――。
(普通、裸の女の子が目の前にいたら襲いたくならない?)
襲われても困るけれど、自分のことを好きだと明言してくれた後のつい今し方だって、
二人きりになった後でさえも、
心臓がバクバクするのはいつも羽理だけな気がして、何だかとっても理不尽に思えたと言ったらワガママだろうか?
何となく柚子に引け目を感じてしまっている
そもそも下着がないまま、直に身に着けるしかなかったチュニックとレギンスが、(やったことはないけれど)裸タイツの気分で非常に落ち着かない。
何ならレギンスが股に食い込んで気持ち悪くて……歩き方もおかしくなってしまう。
それでわざわざ
床に置かれた座布団の上にペタリと座ったからか、キュウリからやたら際どい所を責め立てられると言う
ついでに――。
(何でキュウリちゃんを抱いたまま私の横に来ましたかね!?)
だけど――。
愛犬を抱いた
(心臓がバクバクするので離れて欲しいですぅー)
思いながら、羽理は尻を床に付けたままジリジリと
***
「ところでたいちゃんと
どうやらこの二人、急接近の原因はたまたま。何らかの要因で無理矢理結びつけられただけらしい。
だけど、どう見ても可愛い
なのに――。
(ちょっともう、この二人、何でこんなちぐはぐなの!)
どう考えても両想いにしか見えないのに、この認識の差!
目の前で「いや、俺、お前に好きだって言っただろ? なるべく一緒に過ごそうとも伝えたはずだぞ?」だの「確かに好きだとは言われましたけど、……一緒に過ごすのは病気を治すためだって言ったじゃないですかっ」だの不毛な言い合いが始まって。
柚子ははぁーっと大きく溜め息を落とさずにはいられない。
そんな自分を、『どうしましたか?』と言う表情で見上げてくるキュウリをヨシヨシと撫でながら、
「たいちゃん……」
柚子が狙いを定めたのは羽理ではなく可愛い弟だった。
***
わけが分からないことを言う
その途端、羽理が
仕方なく
言われてみればそんなセリフは言っていなかった気がしたからだ。
「やっぱり……」
はぁーとあからさまに溜め息を
「貴方の言う普通が通じなかった結果が〝今〟なんじゃないの?」
と言われてしまっては、二の句が継げないではないか。
「あの……た、
恐る恐るといった調子で
「ああ」
と照れ臭さも手伝ってぶっきら棒に肯定してみたものの、柚子からの視線が全身に突き刺さってくるようで、何だか居心地が悪い。
(ちゃんと『付き合ってくれ』って……言えってこと、だよ、な?)
そう思いはするけれど、
「……
「たいちゃんっ!」
女性陣二人の視線が物凄く痛くて、針の
加えて。
(う、ウリちゃんまで何でそんな目でパパを見詰めてきまちゅかねっ⁉︎)
真ん丸な愛犬キュウリの黒瞳が、
「あああああっ!」
そうして――。
「柚子、ウリちゃんを頼む。……羽理と二人きりで話がしたい」
すぐ横でキョトンと自分を見上げてくる羽理の腕を引いて立たせると、「今夜は帰らねぇから」と付け加えて「羽理、行くぞ」とやや強引に羽理の手を引いて歩き出す。
柚子に
羽理に昼間何をしていたのか?とか……聞きたいことが山盛りだったし、実際そういう
「あ、あのっ、
オロオロと
「ちょっと待って、たいちゃんっ!」
姉が必死の様子で呼び止めてきて、キュウリを抱いたまま目の前に立ち塞がってくるから。
「な、何だよ……」
(この勢いを
だが、姉である
告白しろと言ったくせに邪魔してこようとする姉を睨み付けたら、「私のご飯作りがまだ途中よ!」とか。
「何だよ、それ!」
***
「……お姉さん、面白い人でしたね」
助手席でふふっと笑う
結局、あのあと羽理に一旦ソファへ座り直してもらってから、
ついでだったので、羽理の弁当へ入れられそうな作り置き常備菜を冷凍庫から出して大きめの
汁物を作りながら手際よく夕飯と明日の朝食を準備する
「たいちゃんはホントいいお嫁さんになれるわね」
とか言ってくるから、
「俺は妻をめとりたい」
とボソッとつぶやいて、ソファでキュウリを撫でる
「……そう出来るよう頑張りなさいね?」
眉根を寄せて困ったように――。「色々と」と付け足した
「ホント、たいちゃんの作るものはみんな美味しそう」
全ての
「柚子だってそんくらい作れんだろ」
柚子は結婚して旦那だっているのだ。
子供の頃は共働きの両親に代わって、一番上の姉――
家では旦那のために手料理を振る舞っているだろうに。
そう思って苦笑したら「たまには人が作ったものを食べたいのよ」とニコッとされた。
まぁ、確かにそういう気持ちも分からなくはなかったので、炊飯器に米を二合セットしてから、「焚けたら適当に食え」と言い置いて羽理とともに家をあとにして。
鍵はとりあえずオートロックの暗証番号タイプのキーレスキーだから、忘れ物がないようよく確認して部屋から出てくれと頼んだ。
***
「暑くないか?」
結局下着を着ていないと言う気恥ずかしさに勝てなかったのか、
ビジュアル的にその方が
窓は少し開けてあるけれど、さすがに暑くはなかろうか?と心配になる。
「平気です。――あ、でもっ。
そろそろ
あと一時間もすれば日没だが、今はまだ西の空に傾いた太陽が辺りを茜色に照らしていて明るい。
まぶしさに目を
意識すれば対向車や二車線で横に並んだ車から、助手席に座る羽理の姿が良く見えるだろう。
それを気にしての言葉に、
実際、人からどう見えようと知ったことじゃない。
羽理が自分の隣にいること以上に心躍る状況なんてありはしないのだから。
「
今までは恥ずかしくてほとんど口にしなかった心の声を正直に声に出せば、羽理が眉根を寄せて「いっ、いきなりそういうことを言うのは反則です……。し、心臓に負担が掛かっちゃいますっ」と胸の辺りをギュウッと押さえるようにして抗議してくる。
斜陽に照らされてまるで頬を赤く染めているように見える羽理の様子に、
自分だってさっきから心臓がドキドキしっぱなしだ。
「なぁ、お前のその胸の痛みだがな……」
「……?」
ハンドルを握る自分の横顔を羽理がチラチラと見つめてくる視線を感じながら、
そうして「いや、やっぱいい。全部ひっくるめて後で話すわ」と曖昧に言葉を濁してしまう。
どうせなら手とか握って……もっともっと
「き、気になるじゃないですかっ」
ソワソワと落ち着かない様子で瞳を揺らせる羽理を横目に、「だったら大いに気にしとけ」とクスクス笑ったら、羽理が「意地悪っ!」と唇を突き出すから。
「ホント可愛いな、お前」
今までは口に出さなかった言葉を、あえて羽理にも聞こえるように伝えた。さっき
(思ってるだけじゃダメみてぇだからな)
羽理は恋愛が絡むとめちゃくちゃ鈍感だ。
仕事関係なら一言えば十知るような優秀な女性なのに、自身の色恋ごととなると同一人物とは思えない察し力の低さを発揮する。
「か、かわっ!?」
そのくせこうやってちゃんと気持ちを伝えると、びっくりするぐらい動転してオロオロするから。
それがたまらなく〝愛しい〟と思ってしまった
(これからはちゃんと伝えていくか……)
過去の恋愛では
だけど、今回の恋では――。
それは
***
上司から呼ばれて行ってみれば、「会議室で話しましょう」とわざわざ移動させられて。
何の話かと思ったら、開口一番そんな言葉。
思わず上司なことも忘れて彼に詰め寄ったのだ。
「羽理とのランチの約束をすっぽかしたって本当ですか!?」
と――。
だが、それに対する岳斗の反応は予想に反して「え?」という間の抜けたもので……。しかも二人でのランチはちゃんとしたと言う。
(どういうこと? じゃあ羽理が言ってた相手って誰なの? すっぽかされた約束ってなに?)
仁子は混乱しまくって、すぐにでも真相を知りたくなった。
でも、残念ながらそれは目の前の上司とは関係ない話のようだったから。
仁子は羽理に直接聞こうと思ったのだけれど。
それと同時、いくら上司に口止めされたからと言って……羽理に『あなたの不整脈は病気じゃなくて恋のときめきだよ?』と教えないのは〝友達として〟どうなの?とも思ってしまう。
「やっぱりちゃんと教えてあげよう」
早退した羽理に様子うかがいのメッセージを送っておよそ三十分後くらいにそう決意した仁子は、善は急げとばかりに羽理に電話を掛けてみたのだけれど。
携帯からは『おかけになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません』。
そんな無情なアナウンスが流れるだけで、一向に繋がらなかった。