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第2話

 篁白蓮の朝は早い。

 まだ七歳になったばかりだというのに、屋敷にいるどんな見習いの陰陽師よりも早く彼女は目を覚ます。

 彼女は理解しているのだ。

 目を開けている時間が長ければ長いほど、そこには多くのものが映る――そんな単純な事実を。

 名家の子女ということで、すでに個室を与えられている。自立の心を育てるためだ。広くはないが整えられた孤独な環境が、彼女の自由な成長に一役買っていた。

 布団から這い出した後、白蓮はすぐに障子を開ける。外はまだ仄暗く、最近の彼女はその暗さを表現するための言葉を知りたがっていた。

 庭にいつもと何か違うところがないか、じっと見つめる目。あどけない表情。

 それでも、視線は――恐ろしく真っ直ぐに。

 何も歪みのない好奇心。知的探究心。視界に入るものは全て興味の対象だ。

 庭には誰もいない。ただ目を凝らせば少し地面が黒く濡れていて、夜のうちに雨が降ったようだった――白蓮は、このくらいの濡れ具合なら、雨は何時間前だったのだろうと小さく首を傾げる。

 開けた障子から縁側へ一歩踏み出す。空を見上げると、雨雲はすでになかった。

(天気を予想する人がいるものね。どうやっているのか、知りたい)

 白蓮は「今日調べること」を思いつき、にっこりと笑った。

 部屋へ戻る時、彼女は障子に手をかけながらふと気付いた。障子。こんな薄い紙。今までは破れないよう気をつけていたけれど、そもそもなぜこんなものを使うのだろう?

 破れないものにしたらいいのに。

 どうしてなのだろう? なにか理由があるのだろうか?

 白蓮はその小さな手をそっと障子紙に当てた。人差し指を伸ばし、押し込む。

 一瞬ざらつくような悲劇的な音。指の腹にじわりと伝わる紙の破れ目の抵抗感とともに、空虚な穴が出来上がる。

(これで風が入るようになる、でしょ。あとは……)

 この頼りない紙が、いったい何から自分を守ってくれているのだろう。穴の空いた部分を広げたり、裏に回ってその障子紙を剥がしてみたりする。やがて陽が昇り、空いた穴を通して外を見ていた白蓮は眩しさに目を細めた。

 なるほど、「強い光から」か。

 この部屋に光が柔らかく入ってくるのはあなたのおかげだったのね、と白蓮は頷く。幾らかの障子紙をさんざん駄目にして「確かめた」後、白蓮は覚悟を決めた。

 もう充分見た。あとは叱られる時に、障子の作りや価値、破ってはいけない理由を教えてもらえることだろう。


 その後の正直な告白によって、白蓮は愛情深い両親から叱られた。

「触ったら破れてしまった」「こんな簡単に破れるものをどうして使うの」

 愛娘の問いかけに、両親は教育のため誠実に応じた。和紙の性質。日光や冷えから彼女を守っていること。彼女のために用意された障子紙がどこで作られ、どれほど高級なものか。張替の作業について。

 彼女は反省し、真摯に謝罪した。

 両親は今後気を付けるようにと言い含め、障子の修繕の手配をした。七歳の子供の悪戯への沙汰としては、ごく一般的なものだ。たまたま廊下を通りがかった姉が、かわいらしさに頬を緩めるくらい。

 幼い白蓮は、すでに分かっている。

 自分の年だから、この容貌だから、素直にしているから――自分の知識欲を満たせるということを。

「白蓮」

 しばらく落ち込む振りをしてから部屋に戻った白蓮は、数分もしないうちに姉の訪問を受けた。

「姉さま!」

 上の姉――篁千景。年は十四、才能ある若手陰陽師の見習い。女性陰陽師と聞いて一般人が真っ先に想像するような、翳のある見事な和美人である。清楚な着物姿と胸元下まで真っ直ぐに流れる美しい黒髪は見るたびに白蓮の目を惹きつける。

 静かな湖畔のような優しい視線は、いつも末の妹へ慈愛深く注がれる。千景の手には小さな箱があった。

「入ってもいい? お菓子をあげるわ」

「はい! やったー!」

 なんですか、と駆け寄る幼い姿は誰の目にも可愛らしい。千景は懸命に、純粋な瞳でこちらを見上げる白蓮の頭を軽く撫でてやってから小箱を差し出した。両手でそれを受け取った白蓮は、見るからに高級なその木箱に目を輝かせた。

「これ、『さがや』のお砂糖!」

「そう。和三盆」

 木箱に入る紋だけで白蓮には分かったようだ。ゆっくりと高級砂糖菓子の名前を教え、「危ないから」と小机のほうを指す。白蓮はすぐさま姉の言葉に従って机の上に箱を置き、そっと開ける。中には花をかたどった砂糖菓子が二つ、行儀よく収まっていた。

「かわいい! 姉さま、すっごくかわいいです!」

「そうね」

 千景は単純な妹の様子に頬を緩める。さっき叱られていたようだからと、以前貰った菓子で慰めようとした効果は抜群だ。年相応にはしゃぐ姿はなんとも愛らしく、きっと元気を出してくれただろう。

「姉さま、これは何の花なのですか?」

「え?」

 満面の笑みでこちらを見る白蓮が発した疑問に、千景はつい言葉に詰まった。そんなこと、意識もしていなかった――幼い視線につられるように箱の中を見る。

「えっと……そうね。うん、こっちは桜よ。庭にも木があるでしょう」

「はい!」

 大きく頷いた白蓮の目が、このとき千景は幼い妹に対して確かに違和感を覚えた。きっともうひとつを指して「じゃあこっちは」と畳み掛けてくると思ったはずの無邪気な瞳は自分が言ったとおり庭に向き、こちらに戻り、にっこりと笑う。

「ありがとうございます、姉さま! これ、大好きだから。嬉しいです」

 桜を模した和三盆は、小さな指に摘ままれて白蓮の口の中へ消えた。

 名を知らないほうの花が、箱の中に残る。

「……ええ。元気を出してね、白蓮」

「姉さまはお優しいです。大好きです、姉さま」

 天使のような笑顔。この末の娘はいつも愛嬌に満ち、人懐こい。まだ幼いからということもあるだろうけれど、才能のなさからは考えられない愛されようだ。

 この子が笑うと、その愛らしさに皆が笑顔になってしまう。誰もが彼女にこうして与え、施してしまう。

 同情からでもあろう――彼女が持っていないものは、この家の人間として生きていくにはあまりにも大きすぎるのだから。

 自分もそのひとりだと千景は自覚している。確かに陰陽師は実力主義だが、こんな純粋無垢な妹が才能のなさくらいで悲しむことなどあってはならないと思う。守りたいと本心から思っている。

 でも、時折この子は不思議な目をする。

 私が彼女の求める答えを持っていないことに、気付いたように見えた。

 ――やがて、考えすぎかと千景は首を振る。この幼さと笑顔。明るい振る舞い。どう考えたって、勘違いだ。

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