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第3話

 白蓮が一つ残った砂糖菓子入りの箱を持って部屋を出たのは、千景が去って数十分経ってからのことだった。襖を引き、廊下に出る。

 分家とはいえこの屋敷の主の娘である白蓮は、ここで暮らす使用人のみならず若手陰陽師たちからも敬語で話し掛けられるような存在だ。

「可愛い子供だから」というだけの理由で白蓮が上の者としての立場を失っていないのは、突出した才能の持ち主がすでに出ている分家ならではの空気感によるといえた。

 突出した才能の持ち主。

 たとえば――彼女の兄のような。

 白蓮は小箱を側に置いたまま書庫にしばらく潜っていた。

 大人でも集中し続けるのが厳しいほどの時間を費やし、一定の成果を手にした彼女はやがてその重厚な扉を押し開けて外に出る。次の目的地はすぐ近くだ。

 兄がそう望んだから、彼の部屋はこの書物の宝庫の隣に都合されたのだという。

「兄さま!」

 白蓮は知っている。自分には優しいこの兄が、若手陰陽師たちから畏怖されていることを。

 その理由は簡単で、彼女の兄――篁分家嫡男の篁律己が非常に厳格かつ表情に乏しい人間であるためだ。

 白蓮は若手陰陽師たちがこう言っていたのを聞いたことがある。

 さすがのあの人も妹に冷たくすることはできないんだな。

 彼女がもっと幼い頃、何も考えずに兄のところへ突撃して遊んでもらった後で――兄が大切な訓練をしている途中だったと知った。

 子供だから許された。妹だから許された。そう気付いてから、白蓮は自分の振る舞いが時間の制約を受けるものなのだと学んだ。

 誰からも恐れられる「才能持ち」。そんな兄を堂々と邪魔できるのは、この屋敷で白蓮ただひとりなのだ。

「白蓮。どうした?」

 分家の花形、その部屋の襖を勢いよく引き開けるなんて真似に対しても、律己はその氷のような視線を緩めざるを得なかった。そこに妹の姿をみとめてしまったら。

 物の少ない部屋の端で文机に向かっていた彼は、駆け寄ってくる妹の肩を転ばないように支えた。

「兄さま、聞いてください。今日も色々なことがわかりました!」

「そうか。……その箱は?」

 律己はいつも曇りのない輝く目でこちらを見上げる妹を大切に思っている。そして誇りにさえしている――これほど幼いうちから燃えている、飽くなき探究心を。

 好奇心に満ちた、知識欲の塊。

 ことあるごとに得た知識を報告してくる小さな存在を差し置き、律己が他の何かを優先したことは今のところない。

「これは、千景姉さまにもらった『和三盆』です! 花の形なんですけれど、名前がわからなかったので図鑑を見てきました。兄さまは分かりますか?」

 白蓮が宝物でも披露するように開けた箱。そこに一つ残る砂糖菓子が模る花の名を律己はもちろん知っていたが――彼はゆっくりと首を振る。

「いいや。教えてくれ、白蓮」

「はい!」

 妹の顔がぱっと明るくなるのを見て、花開くようだと思う。先ほどまで学んでいた陰陽術が、一瞬ひどく色褪せて感じられるくらい。

(陰陽師の才能がなくとも、稀有なことだ)

 黙って聞いていれば、白蓮は花の名前のみならず図鑑で仕入れたというこまごました知識まで披露してくれた。

 些細なことから疑問を見つけて書庫に籠り、人に話せるくらい知識を吸収してくる。若手陰陽師にも見習って欲しいような学習の仕方だ。

 律己は素晴らしい才能を持って生まれて――本家にも目を掛けられるようになった。本家はもちろんここより才能を重視する向きが強く、人の価値が陰陽師としての才能と同化しそうになる。

 それを――この小さな存在が止めてくれている気がする。

「白蓮」

「はい! 兄さま」

 律己が頭を撫でてやると、白蓮は幸せそうに目を細めた。理解できるか分からないが、つい語り掛ける。

「白蓮。陰陽師としての才能など、人の一面にすぎない」

「……」

「お前の学ぶ姿勢は正しい。得た知識も無駄にはならない。お前を潰そうとする人間に負けないでくれよ」

「……えっと」

 どういうことでしょう、と首を傾げる。

 これからも彼女が学ぶことが許されていてほしい。才能主義の世界で彼女が輝くことはないだろうけれど、それでも。

「勉強を頑張れ、ってことだ」

「なるほど! わかりました!」

 大きく頷いた白蓮は、ひょいと律己の体の向こう側を覗き込んだ。

「兄さまは、何をされていたんですか?」

「陰陽道の書物を読んでいたところだよ」

「私も読みたいです!」

 打てば響くような返事だが、あれは流石に白蓮には難解すぎるだろう。挿絵もないしと迷った兄の姿に、白蓮はぽつりと呟く。

 ふと、切なそうに。

 怖がるように。

「兄さま。私、才能はなくても……陰陽道には興味があります。それって、だめでしょうか?」

「駄目なものか」

 知識を得るのが悪いはずはない。自分が陰陽師にならずとも、知っているだけで役に立つこともあるだろう。妹の顔が曇らないよう、律己はできる限り優しく語り掛ける。

「望むなら、書庫からお前でも読めそうなものを見繕ってこよう。そこから少しずつ広げていくんだ。それでいいか?」

 はい、と、また元気な返事。

 陰陽師の中にももちろん才能の多寡がある。白蓮のようにまったく何の素養も持たないことは稀だが、一人では戦うこともままならないような者は後方支援や事務方に回ることがほとんどだ。

 本家からは見向きもされないような、いくらでも代わりがきくような者たちだが――こんな妹の姿を見ていては、それも不憫というものだ。彼女の熱意が、誠実な探究心が、願わくば報われて欲しい。

「本家にも、行ってみたいです。兄さまはよく呼ばれているのでしょう?」

 白蓮の無邪気な声に、律己は何と答えるか迷った。本家の現当主は絵に描いたような才能の塊で、おそらく白蓮に目を留めて呼び出すようなことはない。それでも彼女を傷つけたくなかった。

 自然に聞こえるよう絞り出した言葉。

「……今の当主の息子は、お前と同い年だよ。俺と同じで、書庫の近くに部屋があった。もし向こうに行くことがあれば、気が合うかもしれないな」

 当主の息子。

 同い年。

 そう聞いた白蓮は、にっこりと――律己が上手くフォローできたと安心できるほど、かわいらしい笑みを浮かべた。

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