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第4話

「白蓮。これを」

 その日の早朝、屋敷の庭。白蓮は縁側を背にして立ち、前には一人の男性。

 屋敷の主人にして白蓮の父――篁貞明は、娘の手に白い紙片を握らせた。

「念のためだが……」

 白蓮は頷き、受け取ったそれを数秒ばかり眺める。式神の形代だ。才能のある者が持って念じれば、その紙片はたちまち姿を変える。時に狼、時に虎――もちろん密かな情報収集に使う場合は、小紙片のまま使役することもできる。

 自分で動くだけでは限界がある陰陽師にとって式神は必要不可欠な補助役であり、パートナーのようなものでもある。

 らしい。

(……)

 白蓮は父に何度も教わった通り、目を閉じて念じた。

 扱う者によっては獰猛な獣にさえ変貌させることができるという式神術は、その起動自体は難しいものとはいえない。どこまで精密なものを呼べるか、呼ばれたものがどれほど優秀な能力を持つか――才能が出るのはその差の部分についてであって、簡易式神程度であれば普通は従わせることができる。だからこそ陰陽師は力量が足らずとも仲間の支援に回ることで役割を持てるのだ。

 貞明は懸命に式神に命を吹き込もうとする娘の姿を腕組みしつつ見ていたが、その目は淡々としていた。

 娘のことは大切だ。

 大切だが――その才能に、期待はしていない。

 仮にも分家当主の子でありながら、白蓮には露ほどの才能も受け継がれなかった。これはおよそ聞いたことがない事例だ。

 小さな手に握られる紙片は、数分経ってもただの紙のまま。

「白蓮、もういいよ」

「お父さま」

「付き合わせてすまないな。今日が終わったら、好きなものを買ってやるからね」

 優しく語りかけられるのと同時に、白蓮の手から紙片が抜き取られる。彼女はそれをわずかばかり名残惜しそうにして、父の顔を見上げた。

 ――本家から打診があったのは、ひと月ほど前のことだった。

 白蓮の家は分家だが、本家筋に比較的近い王道だ。苗字も本家と同じ「篁」を名乗ることを許されているし、貞明もたびたび本家の当主からお呼びがかかる。

 末の娘には本当に才能がないのかと、思い出したような質問。

 陰陽師としての才能が後から開花したという例はほとんどなかった。血の滲むような鍛錬で比較的未熟な才能を叩き伸ばす者はいるが、元々の素養がないというところからの飛躍はまずありえない。

 ええ、まあ、と答える貞明に、本家の当主は首を傾げた――それはそれとして、当主の娘だというのなら一度くらい挨拶に来させてはどうか。

 本家の当主は分家に生まれた「才能ある者」の存在を気に掛けている。その逆も、時には興味の対象となるのだろうか? どう考えても気紛れだっただろう提案だが、この日が空いていると先に言われてしまっては貞明に断る選択肢はなかった。白蓮は父に連れられ、初めて本家へ行くことになったのだ。

「私、本家に行くのは初めてです。お父さま!」

「ああ、立派な屋敷だよ。まあ、その……気負う必要はない。大丈夫だ」

 貞明は娘の明るい笑顔を見て、何ともいたたまれない気分になった。

 本家の当主は悪人ではないが、暇人というわけではない。才能がない者に特別の情を掛けることもない。分家当主の娘だから挨拶に来いというのも、通過儀礼以上の意味などないだろう。きっとあの淡々とした目が白蓮に数秒ほど向いて、心のこもらない励ましがあり、それで終わりだ。

 そんな結果の見え透いた対面で、不必要に傷つかなければいいけれど……。

 わずかな希望を込め、式神を触らせてみてもやはり無駄だった。失望とも違う憂いに飲み込まれながら、貞明は娘の手を取る。白蓮は父の手の温かさにまた微笑みを見せた。


 白蓮は、この日を待ち望んでいた。

 本家の人間は、わざわざこちらに出向いてくるようなことは決してしない。それは周りを見ていれば、話を聞いていれば分かることだ。

 才能のことを差し引いても、当主の娘という立場。本家にたびたび呼び出されている兄や父。

 いくら何でも、自分にだって一度くらいは本家に行く機会があるだろう――白蓮はそんな風に、やや心許なくも祈り続けていた。それがやっと叶う。

 白蓮には、本家に行かなければならない理由があった。それもできるだけ早く。

 だから本家の門をくぐる彼女の心は喜びに満ちていた。その顔が曇らないようにと、心配と緊張とで目眩すらしてきそうな父の思いとは裏腹に。

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