「お前は何も言わなくていい、白蓮。高嗣様だって、酷なかたというわけでもない。無事に終わるだろう」
「はい、お父様」
本家の敷地は広い。白蓮の目は初めて訪れた屋敷の広さに圧倒され、忙しなく動いていた。
庭では本家付きの若手陰陽師たちがちらほらといて、何やら術の訓練をしているようだ――集中しているのか、よほど近くを通らない限りは白蓮たちに気付かない。
本家で引き取られて修練に励む者は、将来有望な秀才ばかりだと聞く。真剣すぎるような表情も頷ける気がした。
「兄さまは、『本家付き』にはならないのですか?」
無邪気に尋ねる白蓮を貞明は苦笑して見下ろす。
「本家付き」になることは名誉だが、以後その者が成し遂げたことは全て本家の功績になる。一番優秀な者を渡してしまったら、その分家の力が落ちるのは当たり前のことだ。
分家の格を保つため、熱心な勧誘をやり過ごしているところだとはさすがに生々しくて話せない。
「時機というものがあるんだ」
白蓮は父の逃げるような口調に、そうなのですね、と小さく頷く。
貞明と白蓮は、屋敷の中でも一等奥にある広間へ案内された。目の前で襖が開かれ、緊張しながら一歩踏み出した白蓮はその先に誰の姿もないことに拍子抜けした。
つい父親を振り返る。父親がなにごとか言う前に、案内役の女性が「じきにお見えになります」と言う。淡々とした、感情の読み取れない声だ。
「……はい」
白蓮はおどおどとした様子を見せた後で、父親に倣ってその後ろに坐した。父親も気まずそうに押し黙っていて、なにか雑談ができるような空気ではない。
部屋には立派な生け花があったが、普段使いしている部屋でもないようだし――かわいそうだな、と白蓮は思う。他には何もない殺風景な部屋だ。それでもやがて足音が聞こえてきたとき、すぐさま貞明が頭を深く下げた。
(まだ、姿を見てもいないのに?)
それにも、とりあえず従う。
本家当主のことを白蓮が初めて直に知ったのは、頭上からゆっくりと降ってきた声によった。
「貞明。待たせたな」
「とんでもないことでございます」
姿を見なくてもその威厳が伝わってくるような迫力のある声だった。間を空けずに応じる父親のこれほど畏まった声も、白蓮は初めて聞いた。
顔を上げていいかわからなかったので固まったまま、交わされる会話に耳を傾ける。
「それが例の娘か」
「はい。白蓮と申します」
迷う暇もなく、貞明が代わりに名乗った。
「顔を上げろ」
白蓮は、ああ頭を下げ続けていたのは正しかったのだと思いながら命令に従った。はっきりと目が合ってしまってまずいような気もしたけれど、この際とばかりに相手を見つめる。
(本家当主)
さぞ豪華絢爛な衣装を纏っているだろうと思っていた白蓮の予想は裏切られた。初めて見たその姿は実に簡素な、淡黄色の和服姿だったのだ。
年は貞明と同じくらいだろう。彫りの深い顔立ち、体格もよく威圧感はあるけれども――陰陽師らしいとも白蓮には思えなかった。
目が合っても当主高嗣の表情は特に変わらなかった。その大きく鋭い目が本当に白蓮を捉えているのか、真剣に見るつもりがあるのか、彼女には特に伝わってくるものがない。
「あの……」
白蓮がとりあえず何かしら質問をぶつけてみようとした時、貞明が慌てたように声を被せる。
「生まれてから、特に陰陽師としての才能を感じさせることはありませんでした。式神の使役もイメージが掴めないようで、扱えません」
白蓮はここへ来る前、貞明から言い聞かされていた。
当主は現況を知りたがっているだけだ。お前についても、事実を話さないといけない。
だが、それだけだ。
事実を伝えるだけで、何をされることもない。ただの報告だ――と、言い訳をするように。
白蓮は納得したし、だから貞明の物言いにも傷付くことはない。高嗣はそうかと言って軽く頷いた。
す、と白蓮に視線を向ける。
「好きなことはあるか?」
「本を読むのが好きです。勉強をするのも」
反射的に白蓮は答えた。突然の質問だったし白蓮も即座に答えたので貞明がぎょっとしているが、高嗣は大した反応を見せなかった。
「その歳で勉強が好きか」
「はい!」
「結構。人生には生きる意味がなければならない」
お前は、それを信じて生きていけ。
「……?」
高嗣の言ったことの意味を白蓮はしばらく考えた。彼女が静かに考える間にも、大人達の間で話は進んでいくが。
生きる意味。
陰陽師にとってそれは自らの才能だ。律己がしばしば妹に言い聞かせたように、本家の人間は特に才能に縛られる。認められるため、名を上げるため、鍛錬に命を懸けるような者ばかり。
当主高嗣も、その目で人を量る。
白蓮には「それ」がない。そして高嗣は「それ」がない人間に掛ける言葉を持っていない。
生きる意味。
高嗣にとって白蓮はそれを持たない者であり、彼女を取り立てることは生涯ない代わりに――彼女が大事にしているものを、彼女の生きる意味として「尊重」する。そう表明したのだ。
白蓮が視線を動かすと、貞明も娘のほうを見た。
「そういうことだから、白蓮。少し別の部屋で待っていてくれるね」
「え? あ……はい」
白蓮の呆けた返事にも高嗣は怒らない。突き放された子供が呆然としていたくらいのことで怒鳴りつけるほど彼は狭量ではなかった。
「分家の当主であるお前の父親とは、話すことが色々とあるんだ。茶菓子くらいは出る」
話を聞いていなかった白蓮をフォローする余裕まである。その口調を聞き届けた白蓮は、ぱっと手を上げた。
高く。無邪気に。
「では、本家の書庫を見ていたいです!」
貞明はまた焦って娘を咎めようとしたが、白蓮は高嗣の目を真っ直ぐに見つめる。
「本が好きなのです。兄から、本家の書庫はすばらしいと聞きました」
「……律己か」
高嗣は幼い子供が甲高い声でそんなことを言うのを聞いて、大して迷いもせずに首を振った。こんな子供の願いを聞いても捨て置いても、何も変わらない。そして今の高嗣には比較的心に余裕があった。
「わかった。案内させよう」
「高嗣様」
「どこにいようが同じだろう。……誰か!」
襖が静かに開くと、すぐそこに先程の女性が控えていた。高嗣は二度と会うこともない幼女の些末な願いを叶えてやるように言い、瞬く間に白蓮は部屋から追い出された。
さすがの手際、と思いながら白蓮は夢見心地で部屋を出る。案内役の女性は同情の色濃い視線を白蓮に向けているが、そんなことは気にもならない。
(なんてありがたいこと!)
白蓮にとっては――全てが、ここからである。