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第6話

 この人は誰なのだろう。

 目的地はもう決まっている。だから廊下をゆっくりと進む女性についていくだけの白蓮は間もなくそんなことを思った。

 地味な若草色の着物、細い手足。年は成人に満たないほど。

 兄さまと同じくらいだな、と白蓮はぼんやり考える。そして尋ねた。

「陰陽師のかたですか?」

 屋敷には陰陽師と使用人との両方がいる。屋敷にいる者は基本的に和装だし、白蓮にはまだここで出会った人間がどちらなのかを判別できない。大した質問でもないはずと声を上げた白蓮を、彼女は意外そうに見下ろした。

「……」

 白蓮もその視線を見返す。無言で歩いていたので二人の間には妙な緊張感があったのだが、立ち止まって目が合うと、白蓮は自分の持っていた印象を少し変えた。

 目線はどことなく厳しく表情も硬い。それでも綺麗な人だと思ったのだ。

 そしてその顔は、よく見ればなんだか悲しそうにも見えた。何を言うか迷った後で、形の良い唇が動く。

 口調はゆったりとしていた。まるで何かを確かめるように。

「陰陽師に、見える? 私が」

「はい。だって、本家にいらっしゃるから」

「使用人かもしれないわよ」

「……ってことは、陰陽師のかた、ですよね?」

 幼い白蓮にも、彼女の言葉は引っかかった。何故そんな言い方をするのだろう? 白蓮が首を傾げると、彼女は少しだけ目を伏せた。気まずそうに。

「ごめんなさい。何でもない」

 白蓮は本家の当主はともかく、自分に敬語を使わないこの女性のことをなんとなく不思議に思った。そして本家のひとだからか、と納得する。

 本家の立場の強さは、どんな子供であっても肌で理解できる環境だ。

「お姉さんのお名前は、何て言うんですか?」

 目を丸くしたままの子供の問いかけに、彼女のほうこそ驚いた。とはいえそれほど奇特な問いというわけでもない、彼女はつられて答える。

「千鶴」

「千鶴さま!」

 白蓮は声を上げる。

「千鶴さまだったのですね。お名前、律己兄さまから聞いたことがあります!」

「……え?」

 彼女――千鶴の表情が明らかに変わるのを見て、白蓮はにっこりと笑った。天使のような笑顔。

 何をどんなふうに聞いたの――千鶴は思わず前のめりになりかけた。しかし、はっとして自分を制す。こんな年下の少女を問い詰めてどうする。子供の一言に夢中になるなど、あってはならない。

 千鶴は心を落ち着かせ、平静を保った。花が咲いたような笑みから目を逸らし、行きましょうと言って前を向く。歩く。少女は黙ってついてくる。

(律己様の、妹)

 数分前までと変わらない沈黙。ただし決定的に違うことがある。

 彼女の心の中には本家にたまに訪れる青年の姿がはっきりと現れてしまった。いつも淡々とした冷静な瞳。本家も惚れ込む才能。あの凛とした佇まい……。

 一度思い浮かべてしまった姿は、しばらく消えることはなさそうだ。


 書庫は、それと言われずとも白蓮には分かった。重厚な扉で護られているのは分家と同じだったのだ――白蓮は前にいた千鶴を思わず追い越し、その黒金の扉の前へ飛び出した。扉には錆びかけた大きなハンドルがついていたが、どうやら飾りのようだ――そのせいで、ずいぶんと物々しい。

「これが……!」

 本家そのものを見た時よりも彼女は感動していた。千鶴はというと、幼いのによくこんな興味を示すものだと軽く引いている。

「入ってもいいのですか!」

「え、ええ。鍵をかけてる訳じゃないから。高嗣様のお話が終わったら迎えに来るわ。書庫は広いけど声も響くでしょうから、呼ばれたらすぐに戻ってきて」

「はい! ありがとうございます!」

 白蓮の目ははっきりと輝いていて、それほどきらきらしいと何だかいたたまれない気にもさせられる。

(可哀想な子)

 千鶴は本家出身だ。自分の才能を誇りにしていた時期もあったが、分家の優秀な者を進んで取り立てて競わせる当主のやり方には辟易している。

 要は、彼女は埋もれているのだ。

 分家から来て未来の担い手であるかのような顔をする人間は気に食わない。本当に尊敬できる一部を除いて、彼女は分家の人間のことが基本的に嫌いだった。

 そんな人間を案内するなどという雑用を言いつけられるのも嫌だった。でも襖のこちら側で話を聞いていれば、なんとこの娘には陰陽師としての才能が微塵もないという。

 流石に哀れみを誘った。

 才能がないのに、本が好きだと言って――陰陽道の本に溢れた書庫を見て、これほど嬉しそうにする。きっとまだ絶望を知らないのだ。

 この家系に生まれて陰陽師としての才能がないということがどういう意味を持つのか。自分がどんな針の筵で生きていくことになるのか。

(本当に、可哀想)

 憎む気にもならない。明るく案内の礼を言ってくる白蓮に、千鶴はただ黙って頷いた。

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