「……誰だ? おまえ」
彼の声は思ったより高かった。そして怪訝そうだ。よかった。叫んで人を呼ばれたら嫌だな、と白蓮は思っていたのだ。
二人で話がしたかった。
「白蓮です。私、あの」
白蓮は抱えていた本を思い切り彼に突き出した。彼はついその本が何か確かめてしまい、それが自分もかつて大喜びで見た図録であることを理解した。
「こ、これ。借りたくて。分家にはないの。どうしても、借りたくて……誰かに聞かなきゃと思って」
「……はあ」
少年は何とも間の抜けた声を出す。そして我に返った。軽く首を振って冷静になろうとする。
少年の名前は、篁晴臣。
篁本家当主の嫡男――紛れもない、本家の宝。
当主高嗣がこの世で最も価値のある命と言って憚らない、稀代の天才。晴臣自身も周りからの期待と重圧をよく分かっていて、それに応えなければならないと思っていた。七歳の身に過度なプレッシャーを抱える、ひとりの少年だ。
その少年は考える。誰が相手だろうが、本家の人間として相応しい振る舞いをしなければいけない。呆けている場合ではなかった。
「……とりあえず、襖を閉めてくれ」
同い年の子供が精一杯冷静になろうとしているのが分かって、白蓮はつい笑顔になった。言われた通り襖を閉め、座ったままの彼を見下ろす。
「閉めたよ」
「ああ。で、お前は誰なんだ?」
「だから、白蓮……篁白蓮だよ」
「……分家のほうか」
晴臣は少し考えて頷いた。こんな少女に見覚えはない。
篁にはいくつもの分家があるが、比較的こちらの血筋や思想に近いものは同じ名字を名乗る。敵ではなさそうだ、と彼は判断した。
「本家にはどうして来たんだ」
「あの。本を、えっと。置かせてほしいんだけど」
「あ」
出来るだけ「本家の人間」として振る舞おうとした晴臣だったが、少女の体の半分くらいはありそうな図録が逆に意識から消えていた。苦しそうな声を受けて慌てて彼は立ち上がり、その手から図録を引き取る。
文机に、そっと置く。
「ありがとう」
少女が可愛らしく笑うので、晴臣はなんとなくペースを乱されたように感じた。ああ、うん、と、曖昧な相槌。
勢いで立ち上がってしまった晴臣は、自分だけ座布団に座り直すのがなんとなく気まずくなった。部屋の隅にあった座布団を持ってきて、白蓮に渡す。
また、ありがとう、と言って彼女は自分と向き合って座った。
妙な間があった。上手く話を再開できない晴臣を見て、白蓮は質問の答えから語り出す。
「お父さまについてきたの。高嗣さまとお話があるというから、書庫で待ってて……」
「……おまえの父親は?」
「分家の当主だよ」
「……?」
晴臣はしばらく沈黙した。
分家の篁家のことはもちろん知っている。律己とも、その妹二人の顔ともすぐに結びついた。けれども聡明な彼の記憶をどれだけ探っても、こんな子供のことはわからなかった。
結果として彼は、さらに怪訝な顔をするしかない。
「……本当か? 俺は、おまえのことを知らない」
「そうだと思うよ」
白蓮は。
ひどく――傷ついた顔をした。
子供ながらに晴臣はああまずい、と思った。目の前の少女が今にも泣き出しそうに見えてつい身を乗り出した晴臣に、白蓮は続ける。
「本家には、今日初めて来たの。私に、なんにも才能がないって報告するために」
「は……」
晴臣は言葉を失った。賢い分、彼はだいたいの事情を察することができたのだ。
今の本家の当主、高嗣は分家の才能を拾い上げるのが好きだ。分家としても力を示す契機となるので、才能があると自負する者は進んで挨拶に来たり、定期的に顔を出したりする。
どこの分家も、やはり当主の子は恵まれた才能を持つことが多い。篁分家からも三人が本家へ挨拶に来ているし、晴臣も顔を合わせたことがある。
――その機会が、この子にはなかった。
分家の当主が、挨拶をさせる必要性も感じていなかったということだ。
「……そう、なのか」
本家にいる都合上、晴臣には「才能のない陰陽師」と関わる機会など皆無である。
だからこんなとき、彼にはどうすればいいのか分からない。彼は良くも悪くも箱入りで、「才能のない者」を初めて見たし――どう接すればいいのかも、知らないのだ。