「高嗣さまと初めて会ったけど、ほとんど何も話せなかった」
白蓮の言葉に、晴臣は何も言えない。才能のない者を前に、興味をまるで示さずに対面を終える――そんな父親の様子がまざまざと想像できたからだ。
「でも、書庫は見ていいって言われたの。私、本が好きだから。本家の書庫はすごいって聞いてたから、楽しみで……この本も、兄さまに聞いてから、見たいってずっと思ってて」
「篁律己、か?」
「うん。そう。だから、貸してもらおうと思ったんだけど」
少女の声は不安に満ちている。やっぱりだめかな。
晴臣は流石に可哀想になってきて、ゆっくりと首を振った。確かに白蓮が持つその本は本家の子供達がこぞって見る図録だが、今のところそれが必要な者は本家にいない。分家の者に少し貸し出すくらい、何の問題もないような気がしたから。
「……俺が、父様に話してみてもいいよ」
「え?」
晴臣の声は、気付いたら出ていた。この哀れな少女に何かしてやりたいと思ったのだ。そうしたらこの子は喜ぶだろうと。当然晴臣はまた彼女が笑顔でありがとうと言うのを期待したのだけれど、現実は違った。
少女はきょとんと首を傾げる。
「父様って?」
「は?」
「お父様が、本の持ち主なの?」
晴臣は、今度こそ頭を殴られたような衝撃を受けた。この子は自分のことを知らない。それこそ本家の宝とちやほやされて育った晴臣は、生まれて初めてこんな反応をされた。
そもそもこの子が晴臣にまるで尊敬した感じもなく、普通に話し掛けてくるのは自分が誰か知らないからなのだ。
「そうだ、ごめん。あなたは誰なの?」
ダメ押しのこんな質問。晴臣は少女に対して怒るほど不遜な子供ではないけれど、さすがに隠しきれないショックを感じた。
それと同時に、少女に対してはお前は誰だなどと聞いたのに、こちらは知られていて当然だと思っていたのは――思えばずいぶん勝手だな、とも気付いた。
きょとんとしている少女につい笑ってしまう。
「篁晴臣だ」
「晴臣?」
晴臣は悲しい事実にも気付く。この少女は父親から、本家の人間についてほとんど聞かされていないのだろう。それが彼女の「才能のなさ」とやらによるものなら――とても冷たいことのように感じられた。
「本家の当主の、息子だよ」
「えっ」
白蓮は驚いたように身を引いた。とはいえそこまでで、それ以上彼女には何もしようがなかった。襖は閉じられているし、この部屋には子供が二人いるだけだ。
そして白蓮はまた笑った。
明るく。嬉しそうに。
「じゃあ、高嗣さまに聞いてくれるのね! それなら、安心だね」
本のこと。
本のことか――と、晴臣は新鮮な気持ちになる。
普段から妙なやっかみや思惑に晒されている晴臣に、この少女はそういったものを向けてこない。
そんなに本が好きか。
晴臣は半ば呆れつつ、ふと疑問に思った。
「……でも、おまえ、才能がない……んだろう? そんな本を読んでどうするんだ」
子供には、言葉の選びようがなかった。それでも白蓮が今度は傷ついた様子を見せなかったのは、晴臣が悪意からではなく純粋に疑問に思ったことを聞いたと分かったからだ。
素直な子だ――と、白蓮は思う。
真っ直ぐな人。
だから白蓮も、真っ直ぐに答える。
「……才能がなくたって、勉強はしてもいいでしょ?」
目が合う。
「……そりゃ、まあ」
「知識があって悪いことなんてないって、兄さまが言ったの。私も、そう思う」
晴臣は素直な少年だ。
だから、少女の――自分のような才能など持っていない子供がそれでも持つ強い意志に、ただ感動した。
自分を恥じた。
才能がないなら何をしても無駄じゃないのか――彼女にそう言ったようなものだと思ったら、自分がとてもひどい人間のように思えた。
「……ごめん」
晴臣は、自分の感じた通りに謝ることにした。突然の謝罪に困ったらしい白蓮に、改めて言う。
「おまえが、この本を持って帰れるように頼んでみるよ。だから、……返しに来てくれ。また、話そう」
また話そう。
その言葉は晴臣の出来る限りの誠意だった。黒い感情や薄汚い目論見とは無縁のものを、少女の意思に感じたからだ。
自分に足りないものを、なにかこの少女が持っているように感じたから。これを最後に二度と会うことがないのは惜しいと、その心に思ったから。
晴臣の願いが届いたのか、少女は笑う。
春の花がゆっくりと綻ぶような微笑み。
「ありがとう、晴臣」