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第10話

 高嗣と分家当主の話が終わり、千鶴はまた呼び出された。あの哀れな娘を呼んできてやれとの指示。

 千鶴は嘆息しながら書庫へ向かい、――その扉を押し開けようとして、手前の部屋から漏れ聞こえる楽しげな声にぎょっとした。

 幼い声が、ふたつ。

(え?)

 千鶴は戦慄した。そこにいるのは、勉強したいからとこの書庫の近くに部屋を構えた――本家の嫡男のはずだ。

 本家の嫡男。当主の、今のところただひとりの愛息。

 千鶴でさえ気軽に声を掛けられるような存在ではない。

 若手陰陽師たち、権力ある大人たち、誰もが皆気を遣って接してその機嫌を窺うような相手。

 厳重な作りというほどでもないし、書庫のすぐ手前なんて位置にある。それでも誰も迂闊に近付けない。その部屋に、当たり前かのように入り込んでいる子供がいる。その子供が誰なのか一瞬で察した千鶴は、血の気が引くような思いで襖を開けていた。

「は、晴臣様!」

 千鶴が見たのは、本家の人間が全員伏して従うような少年が――あの少女とすぐ近くで向かい合って、自然な笑顔を浮かべているという信じがたい光景だった。

 またしても急に開いた襖。こちらにぱっと視線を移して笑ったのは白蓮が先だった。

「千鶴さま」

 彼女はその蜜のような笑みに本能で恐怖を感じた。何故この娘がここに。それに、白蓮は座布団まで与えられて晴臣の正面にちょこんと座っていた。まるで何でもないことのように。

 千鶴だって――そんなことは、ただの一度も許された記憶がない。

「あ、あなた……どうしてここに?」

「本を貸すことにしたんです」

 続けて晴臣がすいと立ち上がり、文机に乗っていた大判の本を持ち上げた。晴臣が千鶴を見る目は、いつものそれに戻っていた。

 当主の息子として。本家の人間として。

 自分を律する、とても子供らしからぬ目。

 まだ七歳の晴臣自身が本家の人間に厳しく当たることはないが、彼になにか無礼な態度をとれば高嗣がすぐに見咎める。その後の扱いは言わずもがなだ。本家の人間は誰も彼に対して強く出ることなどできないし、腫れ物に触るような扱いをする。千鶴もその一人だ。

 子供なのに、さぞ心休まらないだろうとも思う。

 でも、どうしようもなく羨ましくもあるのだ――永遠の庇護が、強者であることが決まっているその身のことを。

「千鶴さん、ありがとうございます。父に話があるので、俺がこのまま案内します」

「そ……」

 千鶴は思ってもいなかった事態に困惑した。

 篁晴臣は年齢からは考えられないほどしっかりしている。彼は本家付きの陰陽師のことも、挨拶に来て顔を合わせた分家の人間のことも、その力量なども含めてすべて覚えているらしいのだ――いくらずっと本家にいるとはいえ、とんでもないことだと思う。

 その彼が「行くぞ、白蓮」と少女に呼び掛けた。普通に、それが当然であるかのように。

 呼ばれた本人も、「ありがとう、晴臣」などと言うものだから千鶴は言葉を失った。小さな体躯が自分の横をすり抜けようとした時、ようやく我に返ってその肩に手を伸ばす。

「あ、あなた」

「――な、何でしょう?」

 弾かれたように顔を上げた白蓮の表情は子供そのものだ。何ら特別なことも、異質なところもない。

 それなのに。

「晴臣様を、呼び捨てになんてしたら駄目。ちゃんと身の程を弁えて……」

「千鶴さん」

 幼い声。

 それでも自分などより、ずっと凄まじい才能を持つ天才の――声。

 晴臣はその目で静かに千鶴を見て、首を振った。

「いいんです。気にしないでください」

 何も言い返せず、千鶴の手が白蓮の肩から離れる。白蓮は何となく気まずそうな顔をしながらぺこりと頭を下げ、廊下を進んでいく晴臣の後に続いた。

「どういうこと……?」

 小さな二つの背中が遠ざかっていく。

 何が起こったのかまったく理解できないまま、千鶴は視線の先をしばらく呆然と見つめていた。

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