色々と諦めた晴臣から部屋の場所を聞き出した白蓮は、ふと気が付いた。
そういえば律己が待っているのだ。あんまり遅くなると帰らなければいけなくなる。
そう思って書庫へ戻ると、今度は律己が高嗣に捕まったと聞かされた。使用人の話によれば、しばらく戻りそうもないらしい。
白蓮の目が輝く。一方で、晴臣には嫌な予感しかない。
「……お前、まさか」
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
身を翻そうとした時に待て待て、と袖を掴まれて白蓮はつんのめりそうになった。
「な、なに。駄目なの?」
「駄目もなにも、さっきあいつ逃げてったばっかだろ」
「理由になってないよ」
あっさり言い切られて、晴臣は言葉に詰まる。……理由になってない? 本当に?
「友達からなら逃げないと思うよ」
いやそれは順番が逆じゃないか、と疑問に思う間に、白蓮の小さな身体はぱたぱたと廊下の向こうへ駆けていってしまった。
「あいつ……」
言葉にほとんど聞く耳を持たないのも、あまつさえ軽く言い返して自分を置きざりにしていくのも。
彼女の行動のすべてが目新しい。晴臣はもはや小さな息を吐くしかなかった。
そんな風に白蓮に振り回されるのは、朔也にも待っていた運命だ。
けれどもまだそれを知らない彼は、先ほど目にした光景に動揺したまま部屋の隅で蹲っている。
「もう、駄目なんだ……」
ぽつりと呟く声は、それ自体が楽器のように澄んで透明感がある。
この家に来てから父に髪のことを煩く言われることもなくなった。
それをいいことに、銀糸のような髪も伸びるがままにさせている。後ろで一つに縛っていた髪を朔也はするりと解く――ばらけた髪で、もう自分の視界のすべてを塞いでしまいたかったのだ。
そうしていると、傍目にはただの少女にしか見えないほどだ。
与えられた部屋は屋敷全体を見れば小さなものだが、幼い朔也には広すぎる。思い切り持て余した空間を埋めるように、頼りない左手が形代に触れた。
「……」
音もなく、狼が一体現れる。さすがに四体すべては出せないのだが、朔也は空いた時間でそれぞれの狼を側に置くようにしていた。
なにかの贖罪のように。
「……ごめん」
とはいえ、喚ばれた狼は何も言わない。四体いずれを喚ぼうと、吠えることも小さく鳴くこともない。
ただ側にいて、朔也をじっと見詰めるだけだ。
なにかを――物言いたげに。
その真っ直ぐに自分を見る瞳を見返していると、つい朔也は謝ってしまうのだった。
狼は、謝罪にももちろんなにも応えない。
「きっとじきに、僕は家へ帰ることになるよ」
朔也は返事がないのを分かっていて、そんな風に言った。
さきほど書庫で見たのは、自分と同じくらいの女の子の姿だ。当主の子である晴臣と二人で一緒にいたし、楽しそうに話をしていた。
賢そうな子だ。朔也のことにもいち早く気付いた。
――きっとあの子が自分の代わりなんだ。
朔也にはもう分かっていた。式神を自在に操ることもできない自分には、もう何の価値もない。自分だけが本家付きの子供だという事実がなんとなく彼の心の拠り所となっていたが、今日たまたま見かけたあの子を見てそんなものがただの幻だったことに気付かされた。
あの子はどんな才能があるんだろう。
横目で見ただけでも、太陽のような笑顔を浮かべていた。自信に満ちた、可愛らしい笑顔だ。
自分には、あんな顔はとてもできない……。
俯いたまま深い物思いに沈んでいた朔也は、襖の外から声を掛けられていることに気付かなかった。本家付きの使用人が毎日声を掛けてくるタイミングではないから、まったく気を払っていなかったのだ。
そして、声の主の少女は痺れを切らす。
声は掛けた。返事がない。心配だ。そんな大義名分を大切に抱え、ふたたびの無礼をやらかす――襖を思い切り開け放したのだ。
そして、当然驚きの声を上げた。
「う――うわあっ!」