まずい、と朔也が思ったときには全てが遅かった。
廊下に幸い誰の姿もなかったのが救いだったが、白蓮はすでに部屋に入り、ご丁寧にも襖を閉めてしまっていた。
いつかの教訓を活かしたつもりのようだ。
「き、きみ……」
「…………!!」
まずいのは分かっているけれど、朔也は咄嗟に強い言葉で制することができない。頭が真っ白になりかけながらも彼が危機感を持てたのは、もちろんその少女の目が自分の式神――銀の毛並みを持つ狼に釘付けになっているからだった。
普通の子供なら、まず目にする機会のないものである。朔也に従わないとはいえ、その姿形の格別な美しさは健在なのだ。朔也の目は白蓮の唇がスローモーションのようにぱくぱくと動くのを確かに見た。
か、わ、い、い。
(これは)
今にも飛びついてきそうだ。どうしようと一瞬で考えて朔也はこの後起こるだろう惨劇に気を失いそうになったが、――そうはならなかった。
白蓮は。
部屋の真ん中に堂々と構えるその銀狼に数秒は確かに心を奪われたが、それからはっと何かに気付いた。
直立。
それから彼女は静かに身を折る。
「失礼いたしました」
小さな咳払いの後で、静かな声が響く。朔也が思わず狼の様子を窺うと、変わらずそこに座したまま。白蓮を一瞥しても姿を消さないのは、気を悪くしなかった証左と言えるのだろうか。
静けさの戻った部屋の中、少女は自然にそこにいた。朔也はようやく声を上げる。
「……この子が、何かわかってる?」
「式神でしょう? 式神は鬼神、なんだよね。神様ではないけど、霊的な力を持つもの。敬意を持って接するべきだって、『式神図譜』で読んだよ」
飛びつきたかったけど、そんなわけにいかないよね。少女は無邪気に笑った。
ここでやっと朔也は、書庫で見た少女と今目の前にいる少女の顔が一致した。あの子だ。何故ここに。
「きみも、式神を?」
「まさか」
少女の雰囲気にあてられてなんとなく質問した朔也に、白蓮は首を横に振って、……ひどく悲しそうな顔をした。朔也はその理由がわからずに戸惑う。
続いた言葉は、彼にとって予想外のものだった。
「見えるだけでも、驚いてるよ」
「……えっ?」
朔也は決して馬鹿という訳ではなかった。
普通の人間には式神を見ることはできない。彼が白蓮の言葉から理解できたのは、彼女にはどうやら式神の適性がないらしいという事実だ。
適性がない?
彼女のことを自分に代わって本家に来る少女だと思い込んでいた朔也は、つい意外に思ってしまう。
「私は、篁白蓮。分家のほうだけど」
白蓮は少し憂いのある表情のまま、朔也の目を真っ直ぐに見てきた。
「本家付きの凄い子がいるって聞いて、どうしても話がしたかったの。座っても、いいかな?」
なんとも求心力のある不思議な瞳。
年に似合わぬ、鬼神を尊重してみせた態度。
――目が離せなくなっている。まるで何かに引き寄せられるように、朔也は頷いていた。