「こんにちは! 朔也! 白蓮だよ」
そして朔也も卒倒したくなった。
昨日は精神的に疲れ切って眠った。それなのに一日も空けず、あの悪夢が現実になったような少女が再び押し掛けてきたのだ。
「朔也ー! 開けてくれないかな?」
朔也はもう自分が呼び捨てられたことを疑問に感じる余裕もない。いつまでもこうして呼ばれ続けることは想像に難くなかった――もはやこれまでと思ってよろよろと開けた襖の向こうに、眩しい笑顔の白蓮の姿。
しかもその背後には当主の息子までいる。ものすごく怪訝な表情をしながら。
「あ……ああ……」
「そんな嫌そうな顔しなくたって」
白蓮はにっこりと笑って言うと、部屋の中へ入った。晴臣もしれっと白蓮に続きながら、自分のものよりずっと狭いその部屋をなんとなく見回した。
あの日から結局、晴臣と朔也は何の会話も交わしていない。実に気まずい対面だった。
「な……何を、しにきたの」
朔也はようやく言った。弱々しい声だが、それは紛れもない抗議だった。彼はこれ以上自分の世界を侵される訳にはいかなかったのだ。
それでも白蓮はその世界自体を壊そうとしているから、止まらない。
「昔の手記を読んだの。式神は霊的存在。敬意を払うべき。本当のことだった」
晴臣も、朔也も、彼女のほうへ視線を向ける。
「ある陰陽師が一度付けた名前を、親が聞き咎めた。由緒ある名前を再び与えるよう言いつけた――その通りにした陰陽師の言葉を、式神は聞かなくなった」
自分の定義を否定されたから。
自分を喚んだ主人が、他人の言葉に流されたから。
「……!」
朔也の目が見開かれる。
なんだそれ、と晴臣の方が戸惑う。そんな俗っぽい話が名著に載る訳もない、だから晴臣でさえ初耳だった。
白蓮のように書庫で出典も何も構わず本を読み漁っているとこんなことがあるのか、とつい驚かされる。
式神の名は、陰陽師にとっても――式神にとっても拠り所であり宝なのだ。
「ねえ、朔也。あなたの式神は動いてくれないんだよね。でも呼ばれたら姿を現すし、そばにいる。離れる気はないけれど――その子は、拗ねているんだよ」
拗ねている。
それは実に子どもっぽい言葉の選び方だった。
儚げな少年に、世にも美しい狼。それにあんな不釣り合いな名前。
その少年と狼に誰よりも強くあってほしいと願った者が、きっと全ての原因だろうと白蓮は思っている。
「誰かが、その狼の名前を勝手に決めた。違う?」
全てに恐怖しているように見えていた少年の目が、確かな動揺に揺れる。――晴臣はこの時になって、彼の瞳に宿るものが後悔ではないかという考えに至った。