誰の反応も、朔也は見ていない。
人集りを抜けるざわめきも、観客たちが一歩後退るのも、――それが二歩三歩と広がるのにも。
観客たちの紛れもない畏怖が場に広がってゆくのも、朔也にとってはどうでもいいことだった。
彼が今や取り戻したいただ一つの信頼は、人から得るようなものではないのだから。
「天狼」
「……」
「大青。南天。燎火」
一体ずつ名を呼ばれた式神が、一体ずつ朔也に目を向けた。その物言わぬ視線に晒されながら朔也は静かに膝を折る。
「ごめん」
正装がどうなろうと知ったことかと――そのまま深々と首を垂れる朔也から、誰も目を離せなくなっていた。
「僕が間違っていた」
朔也は思っていることを、今までずっと思ってきたことを隠さず話す。彼のすぐ目の前は冷たい地面である――式神が聞いてくれているのかも確認できないけれど、信じるしかないと思いながら。
「ちゃんと名付けるべきだった。言葉を知らない、思いつかないというのは甘えだった。父さんがこんなに言うんだからという甘えが、あった」
「僕が愚かだった。主人としてのふるまいじゃなかった」
「どうか」
「……考えたんだ。たくさん協力してもらったけれど、……僕が、自分で決めた。だからどうか」
どうか。
返事をしてくれないか。
主人と――認めてくれないか。
そんな囁きまでは、観客たちの耳にはきっと届かなかった。ただ彼の一番近くにいた白蓮だけがそれを聞いた。
人間としては。
(朔也)
何もかもが凍り付いてしまいそうな静寂の中、白蓮が不意に視線を動かす。彼女はそこに期待していた人影を見つけ出した。
少し離れた縁側。
晴臣と、彼が連れ出してきたのだろう当主高嗣の姿。
その眼差し。
(朔也を見ている。きっと記憶に焼き付く)
白蓮のことなど、誰も見ていない。それを一番よく分かっている彼女自身が小さく頷いたときだった。
――四つの咆哮が、空を切り裂いた。
天を衝く、とはまさにこのことを言う。
四体の狼が一斉に空を仰ぎ、続いた咆哮。白蓮はその光景に目を輝かせた。
轟音が耳を劈くようでいて決して不快でないのは、それが主人への誠実な誓いであることが誰にとっても明白だからなのか?
ともかく、壮観である――今まで庭で鍛錬していた者たちは、我が目を疑いながらも凝視する。
呟く。神の子だ。
朔也がかつて手にしていた呼び名。それさえも今彼の手に戻ろうとしていた。
咆哮を終えた狼たちは、統制の取れた動きでゆっくりと歩き出し――再びその体躯をもって、主人に寄り添った。
諦めていた変化を目の当たりにした朔也は、泣きそうになるのを堪えるのがやっとだ。立ち上がることもできそうにない。
(夢にまで見た)
朔也が呆然としている間、白蓮はその表情をじっと眺めていた。やがてその静かな視線に気付いた彼が慌てて手をばたつかせる。
「び、びっくりした。白蓮。ごめん」
「謝ることないよ」
白蓮は可笑しそうにしながら手を差し出す。朔也がその手を取り、なんとか立ち上がる。
「ほんとに、うまくいくなんて……」
「朔也が頑張ったからでしょ?」
白蓮は返事をしながら、再び晴臣の方を見た。高嗣と話をしているようだ。晴臣も朔也の努力を評価してほしいと考えたのだろうか。そうでなければ、父親を引っ張り出してきたりしないだろう。
まさに晴臣にしか出来ないことだなあ、と白蓮は内心微笑ましくなった。
だからその声も、緩やかに彼女の心に届いた。
「白蓮のお陰だよ」
「うん?」
「君がいなかったら、無理だった。名付け直せないかって、何度も思ってたんだ。でも、とても……一人では動けなかった。君が、……」
「朔也の部屋に、勝手に飛び込んだから」
言葉を受けた白蓮に、朔也は笑った。それは本当に心を許したような眩しい微笑みだ。
その微笑みが静かに狼たちを見下ろした。自分に寄り添うそれらのうち一体の背を撫でながら、朔也は白蓮に向き直る。
「白蓮。式神を使えないって言ってたね」
「うん」
「今度は僕が君の助けになりたい。……この子たちだって、喜んで力を貸すよ」
「……朔也」
言われたことの意味を呑み込むのに、白蓮にもわずかな時間が必要だった。ぽかんとする彼女に、朔也からの目配せを受けた狼が体を起こし――そっと寄り添う。
主人の言葉を肯定するように。
「わあ」
「この子たちは、君が必要な時に必ず指示に従う。約束する」
白蓮が目を合わせた狼は、静かに彼女のことを見た。
(高度な式神は確かな自我と、高い知能を持つという)
きっと名付け直しを白蓮が提案したことを、式神たちは理解している。そして正当かつ誠実な名付けが行われたことを以て、白蓮のことも評価してくれている。
白蓮は――しっかりと式神たちと目を合わせてから、その手を伸ばす。
本物の狼に触れたことはまだないから、比べられない。わからない。でも、静かに触れたその肌は確かに息づく生命のもののようだった。
「ふわふわだね。……生きてるんだね」
朔也が白蓮の呟きを聞いて、その無邪気さに頬を緩めた。
美しい銀の毛並みは、白蓮の細く小さな手もやわらかく包んだ。逆らわない。されるがままになっている。子供のすることと、大目に見てくれているのかもしれない。
やはり開花した朔也。天才の格別な才能。
その天才の力が、有事の時は自分に従うという。
(なんて素晴らしいことだろう?)
白蓮は――笑う。