「何をしに来たの?」
飛んできたのは、感情を押し殺すような声だった。
白蓮でもさすがに一瞬心臓が冷えるような感覚になった――とはいえ彼女はめげずに、やってきた部屋を改めて見回す。
よく姉が白蓮に付き添ってくれたときに使っている、居間のような部屋である。屋敷の空気になじむ和風作りではあるがそこそこしっかりとしたテーブルと椅子が何組かあり、何か作業をするのにも向いている。
普段からちらほらと人がいる部屋なのだが、今は千鶴その人が端のテーブルに一人ついているだけだった。
その理由は、嫌でも分かる。
彼女からはものすごい負のオーラが放たれていた。彼女の横に積まれた紙の束と、おそらくは書き損じたち。固く握られた筆。光のない目。
「近付くな」「話しかけるな」。言外に伝わってくる。
「こんにちは、千鶴さん」
「……白蓮ちゃん。私、今ね、すごく忙しいの」
顔を上げた千鶴の表情にははっきり言って生気がない。今白蓮を視界に入れたことでさらになくなった気もする。
せっかくの美しさも目減りしてしまう――白蓮はとりあえず千鶴に近付き、目の前に座った。
「晴臣様なら見てないわよ。事情は知ってるでしょう?」
「はい。その紙、何ですか?」
「白蓮ちゃん。書庫ならあっちよ」
分かりきったことを言われても白蓮は首を横に振って答えに替えた。憔悴した様子のまま追い出そうとしても彼女には逆効果である。
「兄が千鶴さんのことを心配してました。今日は行けないけど、様子を見てきてほしいって……」
嘘ではない。はずである。
律己は結局本家に行くと言う白蓮を止めなかった。千鶴に関して何か否定するようなこともない。つまりは「そういうこと」だろうと彼女は勝手に解釈している。
千鶴はというとやはり数秒の間が生まれて、動揺がありありと伝わってくる。
可愛い人なんだよなあ、と白蓮は思う。
「……。律己様は、元気にしてるの?」
「はい。でも今は本家が大変そうだし、高嗣様からの呼び出しも全然ないって」
「そうでしょうね。おめでたいことだものね……」
動揺も束の間、力なく頷く千鶴の目は完全に死んでいる。その隙に白蓮はすっと身を乗り出し、千鶴の手元を覗き込んだ。
「あっ、こら!」
「璃々さまのことでしたか!」
その名前さえ見えれば充分だった。明るい声を上げた白蓮にうんざりした顔をしてからは、もはや千鶴は白蓮が抜き出したその一枚を取り返そうともしない。
「千鶴さん、字が綺麗ですね」
「いいように使われるんじゃ意味ないけどね……」
荒んでいる。しかしどうやら作業をする気はなくなったようなので、白蓮はとりあえずここにいても良さそうだと判断した。ありがたく中身を読ませてもらう。
――とはいえ、やけに古めかしい言葉を使って書かれた手紙は読みにくくて仕方なかった。手紙は見事な達筆で書かれていたが、長い上に回りくどい。
とりあえず言葉の感じから、璃々の誕生を報告するものであることは分かったが。
千鶴はすぐに内容を解説するようなことはしてくれなかった。白蓮は力ずくで追い出されないのをいいことに、そのやたらと手触りの良い紙をしげしげと眺める。
直接の命令が書いてある訳ではなかったが、白蓮はそこに何となく圧力を感じた。やがて顔を上げる。
「……えっと、……本家に来い、っていうお手紙ですか?」
「『来い』とは、一言も書いてないけどね」
千鶴は頬杖をつきながら白蓮の様子を見ていたが、やがて自嘲気味に言う。
「でもそう読み取れるんなら、あなたも篁の子よね」
「どういう意味でしょうか?」
「知らなくてもいいようなことよ。今はね」
面倒そうな受け答えを聞いて、白蓮はきょとんとして固まる。疑問符がその頭の上に見えるような表情のまま動く様子がない。千鶴は溜息を吐いた。
「これからもっと忙しくなるわ。これを受け取った分家たちが慌ててご機嫌伺いに来るからね」
「ご機嫌伺い」
とりあえず頷く白蓮。
篁本家の地位と権力は絶対だ。
白蓮は次々と訪問してくる分家の者たちの祝いの言葉を厳格な態度で聞く高嗣の姿を思い浮かべてみた。
なるほど、本家からの「お達し」を受けた分家は、璃々さまのご誕生まことにおめでとうございますと言いに来なければならないのだろう――納得しつつ、白蓮は紙の束を改めて見た。