本家を壊す。
無邪気なトーンで発せられた言葉は、確かにそう言ったように聞こえた。
黎明は流石にすぐには反応しない。動揺するにも足らないほど白蓮の声は明るく、そして内容は理解不能だったからだ。
「聞き間違いかな?」
「本家を壊そうと思っているんです!」
もう一度言われてしまった。はきはきと語る声は突き抜けて明るい。使っている言語が違うのかと一瞬思ってしまうほどだ。さっきまで饅頭を食べていた口で、いったい何を言う?
「……どうして?」
黎明は言葉少なに聞き返す。白蓮は自分に向けられる目から感情を読み取ろうとしたが、よくわからなかった。
よくわからなかったということは――彼が意図的に自分の感情を隠そうとしているということだろう。白蓮はそう信じる。
子供は真っ直ぐ話すことしかできない。そしてそうすれば、驚いて耳を傾けてくれる人が時折現れる――白蓮は黎明もそのひとりであることを真摯に願った。
「黎明さんは、本家で過ごしたことはありますか?」
「ないよ。君だって分家の子だろう」
「はい。でも……私は晴臣と同い年なので、えっと、友達で。よく本家に遊びに行かせてもらっているんです」
晴臣。高嗣の息子。
一対一で話したことはないが、形式的な集まりをよく欠席する黎明はたぶん嫌われているだろう。その背に随分と色々なものを負った、年に似合わぬ本家の跡取りである。
平然とそれを呼び捨てにする白蓮の様子には何の違和感もない。才能がなくとも、血筋の近さと年齢だけで友達になるよう言われたのか――黎明は同情半分に理解した。
「そう」
「はい。なので、本家の空気も分かります。その上で言うんですけど、うーん……高嗣様は、すごく視野の狭いかたなんです」
「……」
黎明は、にこ、と優しい笑顔のまま。
本家で言ったら殺されるだろうなあとぼんやり思い、そして白蓮の度胸に少しだけ敬意を持った。彼女は、黎明が自分の発言を咎めないことを確信しているのだ。
黎明の悪評を本家で聞いていたとしても、本家に近い場所に生きる娘が仮にも「分家当主」の前でそんな発言をするのは――躊躇われるはずなのに。
(よく見ているな)
「黎明さんが言う通り、私には才能がないんです。それでも分家当主の娘なので、挨拶に来るよう言われました。だけどそこでも――高嗣様は、私自身とは目も合わせてくれなくて。話もほとんどできませんでした」
「……うん」
「それでも晴臣とは友達になれたので、本家の人たちのことも見ています。みんな高嗣様にひとことでも声を掛けられたくて、気に入られたくて。必死です」
白蓮は、嘘は言っていない。
篁は才能主義、そして実力主義。「本家付き」の者たちは日々修行に励むし、成果に興味を持った高嗣から声を掛けられることは名誉だ。
とはいえ本家の空気がそこまで病的なものだとは白蓮は思っていないが、そのあたりは言葉の未熟な子供としてうまく誤魔化したいのだった。
誤魔化す。
そう――自分の家の陰陽師を守るために「本家付き」を作らず、本家もろくに訪ねず、他の分家とも距離を取る黎明。
彼には白蓮の話の精度などわからない。
幼い子供が淡々と語るのでそこに一定の信用を置き、黎明は尋ねる。
「千鶴ちゃんも?」
「よく仕事を押し付けられて、悲しそうにしてます」
白蓮はそれから千鶴のことを思い浮かべたのか、わずかに笑顔となった。姉を慕うような幼い微笑みだ。
「千鶴さんは、私が初めて本家に来た時、案内してくれた人なんです。高嗣様に冷たくされた後の私を慰めてくれて。最初にお世話になった人です」
「……なるほどねえ」
黎明の頭では簡単な想像だった。才能のない、しかし分家当主の娘。初めて本家に来た彼女を案内させるのに使用人では格が足りないと考えられたとき、同じく「才能のないほう」である千鶴が駆り出されるのはいかにもありそうな話だ。
根が真面目であろう彼女が、才能のなさゆえに悲しげにする幼い子供にいくらか優しい言葉を掛けてやったというのも――まあ、あるかもしれない。
「それからの付き合いなんだね」
「はい」
白蓮は信じる。無駄なことなんてない。
どんな人との出会いも、どんな出来事も、後からなにかに有効活用できるものだ。
「私は千鶴さんが好きです。高嗣様のご機嫌に皆が振り回されているのはおかしいと思っています――黎明さんも、そうですか? だから、本家では黎明さんの悪い噂が立っているんですか?」
真っ直ぐな問いには躊躇いがない。
知りたいから聞いている。黎明の協力があれば、白蓮の世界はさらに広がる。だからこそ――聞いている。
黎明は少女の純粋に光る目を見て、つい苦笑した。大人が顔を突き合わせてしまっては、きっとできない質問だろうと思ったのだ。千鶴の采配は正解だったのかもしれない。
「千鶴ちゃんと何があったのかって、さっき言ったね。その『悪い噂』ってのは、千鶴ちゃんに聞いたんじゃないのかい?」
「いいえ、噂のことは、高嗣様がお気に入りの『本家付き』から聞きました。千鶴さんは、私には黎明さんの悪口なんて言ってません」
正直に話す。それが白蓮の信条だった。
嘘を言うと誤魔化せなくなる、だから事実だけを選んで話す。そして白蓮が提示した事実から、黎明には――千鶴が元来持つ誠実さへの実感と、「本家付き」への失望だけが導かれた。
千鶴がどうして白蓮を自分の元へ送ったのか。出来がいいぶん、黎明の頭は勝手に「深読み」まですることができてしまう。
少しの沈黙。
「……とりあえず、千鶴ちゃんとのことを話そうか?」
そんな言葉が聞こえたので、白蓮はわずかに笑みを深めた。
彼女の大好物、他人の自己開示である。