晴臣はこのところ――産後である母に付き添うか父である高嗣と話をするか、そのどちらかに自分の持つほとんどの時間を使っていた。
本家当主の娘である璃々が生まれ、高嗣は上機嫌だった。璃々にどんな才能があるか、どう育てるか。妻、そして篁の未来である晴臣とともに璃々について考える時間が今の高嗣にとってもっとも有意義なようだった。
晴臣ももちろん妹の存在が可愛かったし、そんな日々も当主の息子として当然のことと受け入れている。だから不満はないのだが、最近まったく会っていない友人のことをたまには思い出す。
(白蓮は、……)
とても白蓮と遊んでいられそうな空気ではなかったので、本人にもそう言った。彼女は意外にも素直に頷き、あっさりと姿を見せなくなった――晴臣は後になって白蓮と「遊んだ」誰かからその来訪を伝え聞くばかりだった。
(何してるんだろう、あいつ)
晴臣自身が確かに来るなと言ったのだが、まったく会わずにいるとそれはそれで気になる。実に厄介なことだ。
「晴臣」
「……、あ、はい。父様」
父と二人きりの和室。向かい合って真面目な話をしているうちに晴臣の集中力がわずかに途切れたのを、高嗣は見逃さなかった。晴臣は慌てて姿勢を正し、父が先程言ったことを繰り返す。
「璃々への挨拶のために、分家の当主が来るという……」
「そうだ。お前はもちろん、本家付きの中でも優秀な者はその時に顔見せをさせようと思っている」
高嗣の表情は厳しい。彼がこんな時に苦い顔をする心当たりは、晴臣には一つしかなかった。「挨拶」だとか、「顔見せ」だとか――そういった厳かな場への呼び出しをのらりくらりと交わし続ける軽薄な男。
「分家への通知は千鶴にさせているところだ。今回ぐらいは万全に終えたいのだが」
なんとなく怒りのこもった声に共感はあっても、晴臣には上手い返事ができない。あのヘラヘラとした笑顔は本家重鎮たちの大きな悩みの種なのだ。
解決しようのないことに晴臣が相槌を打とうとした時、急にバタバタと足音が響いてきた。廊下を全力疾走でもしているのか? 晴臣と高嗣が揃って音のする方を見た時――和室の障子が、断りもなく開いた。
「は……晴臣!」
「朔也?」
そこにいたのは息を切らした朔也である。驚いたのは晴臣の方だ、彼は廊下を駆け抜けてくるようなタイプでは決してない。まして晴臣と当主が話しているようなところへ。
只事ではない、そんな直感が晴臣を焦らせた。注意することも忘れて朔也に駆け寄る。どうしたと尋ねるまでもなく朔也は勢いに任せて続けた。
「式神……」
「は?」
「貸した式神が、戦ってるんだ。白蓮が――白蓮が、黎明さんに襲われてる!」
*
白蓮に配慮した上で一度だけ攻撃する。
黎明はもちろんそうするつもりでいた。攻撃に備えて白蓮はぱっと飛び退いたようだし――これでいいかと思った黎明は、強く地面を打って上がった土煙の中に揺らめく巨大な影を見た。
「……これは」
狼。
一瞬本物かと思うほど見事な狼が、煙を割って顕現していた。
黎明の術に反応して出てきたのだろう。陰陽師の力量によっては、事前に有り余る霊力を形代へ込めておくことで「こういうこと」ができる。それにしても、と黎明は内心口笛を吹きたいような気分になった。
思っていた以上――だったのだ。
(なんて力だ。それに賢い)
それ自体が意思を持つのだろうか?
銀の海のような美しい毛並。なにもかもを穿つような鋭い瞳と牙。
顕現の瞬間は獰猛な獣のように飛び出してきたというのに――次の瞬間、それは周囲で湧き立つギャラリーと、輝くような笑顔の白蓮を見て、動きを止めた。
「ん?」
状況が呑み込めずに首を傾げているような気さえする。疑問符が浮かんでいるような、かなり素直な反応だ。
思わず黎明は口元を緩める。なんとも愛嬌がある姿からは、この式神の主人の実直さが見えるようだった。
「大青〜!」
白蓮は呑気な声を上げて狼に駆け寄った。式神「大青」は、少女の遠慮のない抱きつきにも抗わず彼女に寄り添うようにした。
(借り物だと言っていたが、ずいぶん慣れているらしい)
相対するだけで恐ろしい力を持つとわかる式神が、主人でもない小さな子供に心を許しているのは実に奇妙な光景だった。
才能のないことが悪いとは、黎明は言わない。けれども何があったらこんなことになるのかという疑問は抱かざるを得ないだろう。
「大青、驚かせてごめんね。ちょっと、ここにいる黎明さんと……えっと、戦ってくれないかな? 倒したいわけじゃないんだけどね」
「……」
白蓮は大青をぽんぽん気安く撫でながらそんなことを言った。言葉は拙いがざわつくギャラリーを他所に黎明は苦笑する。
彼女はどこまで気付いている?
こんな子供に、自分が捨ててきた幼心を見抜かれたというのだろうか。黎明は初めて目にする強大な式神と模擬戦ができるという事実へ、確かな高揚を感じていた。
白蓮の提案に踊らされている。
彼女の言葉に。
『式神が戦えば、きっと主人に伝わるはずなんです。私の信じる本家の陰陽師に……それから、晴臣に』
『そんな事態を私の危機と思って、晴臣がすぐに駆けつけてきてくれたら――それは、担保になりますか?』