篁千鶴は机に突っ伏していた。もう数日、ずっと何も手につかない。
(私が悪かったわよ……)
いくら忙しく、そして気が立っていたとはいえ――罪もない幼い子供を自分の嫌いな人間のところへけしかけるなんて、するべきではなかった。
しかもよりによって自分が好いている人の妹を、だ。
彼女がいるのは定番の居間だった。細々とした作業を言い付けられることの多い千鶴にとって、ここはもはや第二の私室になりつつある――本来与えられている部屋ではあまりに孤独が強調されて、精神的に良くない。
しかし今は自分のやらかしにばかり意識が向いていて、どこにいようがあまり関係がなかった。
ほんと馬鹿。
小さく呟くといよいよ悲しくなってきて、一度顔を上げる。なんだか頭が痛かった。
(あんな手紙)
どうせ無視される手紙であることなんて分かっていた。意味なんてない。適当に郵送して、返事がないなら怒鳴り込む。いつものそんな流れでよかったのだ。
どうかしていた。そう思ったからこそ千鶴は翌日も白蓮が訪ねてこないか待っていた。
だって、怖いことだ。
千鶴だったら――いきなり大人から知らない分家に行ってこいと言われたら、怖くてたまらない。ひどい嫌がらせだと思うし、すぐに行ったりなんてしないだろう。
だから白蓮が来たら、まああの子供のことは苦手なんだけれど、ごめんなさいねくらい言って手紙を回収するつもりでいた。
でも彼女は来なかった。どうなってしまうのかと思いながらも直接訪ねる勇気も持てず、ただ時間だけが過ぎていった。
そしてその結果がこれだ。
(ほんとうに、馬鹿)
千鶴は昨日の信じられないような事態を思い返し、もう一度突っ伏した。
(あんな人の顔を見て、笑うなんて……)
*
「千鶴ちゃん」
実に甘ったるく艶やかな声。千鶴がこの世で一番苦手なものだ。彼女は反射で鳥肌が立つのを感じた。
昨日もその居間にいた千鶴は、背後から聞こえたそんな声をきっと幻のはずと黙殺する。
「あれ? 寝てる?」
そんなわけあるか――千鶴は意地でも振り返るものかと正面の壁を見つめ続ける。
だいたいこの声の持ち主がここを訪ねてくること自体おかしい、ありえないことだ、千鶴が内心で唱えるのを面白がったのも数秒。「彼」はあっさりと千鶴の目の前へ回り込んできた。
ひょい、と。
「起きてるじゃないか。相変わらず冷たいねえ」
「……………………」
目の前に現れた顔は腹立たしいほど整っている。女の自分さえ自信を失いそうな美貌を持つその男を、千鶴は思い切り睨みつけた。
「桐原さん。どうしてあなたがここに?」
刺々しさを隠そうともしない声に黎明は苦笑する。ここまで嫌われるといっそ清々しい。
「桐原さんはいっぱいいるんだよ、千鶴ちゃん。君と僕の仲じゃないか」
「あなた以外の『桐原』はここに来たりしないでしょう。それこそ、あなたの方針で……。それに、あなたと私は、どんな仲でもないわ」
黎明の軽口にいちいちはっきりと言い返してくれるあたりが、もうどうしようもなく真面目である。目力の強さにも黎明が微笑みを崩さない理由のひとつだ。
「いや、そうとも限らないよ」
「は?」
容赦のない視線。その厳しさがわずかでも緩めば、とても綺麗な顔をしているというのに。黎明はそう言おうと思ったが、ろくなことにならないのでやめた。代わりに事実を打ち明ける。
「本家と和解することにしたんだ」
「…………なんですって?」
黎明が告げた後の間の長さといったらなかった。千鶴の表情は固まり、何事かを言おうとして言葉にならず、ようやくその目が大きく見開かれる。
小動物みたいな子だよなあと勝手な感想を抱く黎明とは裏腹に、千鶴は勢いよく立ち上がった。彼女が引っ掛けて倒れた椅子がガンと音を立てたが、構いもしない。
「な……」
「な?」
「なんで!」
「なんでって。僕が本家と和解するなら、千鶴ちゃんにとってはいい知らせだろう?」
あっさりと言う黎明に千鶴はもちろん言い返そうとした。そして言葉に詰まる。
黎明の発言を間に受けてしまったのだ。
「天才」が素直に自分のもとへ来ないことについて、千鶴は高嗣から何度冷めた目線を受けたかわからない。
説得できなかったのか。どう説明したんだ。そんなことを言われたところで、本人に百パーセント来る気がないものを動かせる訳がない。この男の存在は千鶴にとってずっと大きな悩みの種だったのだ。
だから、黎明の発言に詰まったのは無理もない。だけれどもはいそうですかと言うわけにいかないから、千鶴はどうにか強い視線を保った。
「……信じられないわ。どういう心境の変化なの」
千鶴は黎明より数歳下ではあるが、本家の人間としての矜持と、単純な反発心とで、千鶴はとっくに敬語を使わなくなっていた。
攻撃的な態度に間違いない。けれどそれも黎明にとっては――申し訳ないと思いつつも、子犬が吠えているようなものに見えてしまう。
「やだなあ、千鶴ちゃんのお陰だよ」
「私?」
「璃々様の件、もちろん今回も怒鳴り込んでくる千鶴ちゃんを適当に追い返そうと思っていたんだけど」
「ちょっと待ちなさいよ」
黎明の言葉を思わず遮った直後、千鶴ははっとして気まずそうに首を軽く振った。仕方なく黎明を見てみれば実に穏やかな表情をしていてさらに負けた気分になり、そのまま口を噤む。
「千鶴ちゃん、今回は柄にもなく最初から『使い』を――それもあんな小さい子を、送り込んできたじゃないか」
「…………」
その穏やかな語り口に対しても千鶴が黙り続けたのは、痛いところを突かれたからだ。関わりたくない相手だからと逃げを打った、そう本人に知られるほど情けないことはない。
「これは異常事態だな、と思ってね。送ってきた子も随分意味深なことを言うから、ちょっと反省したんだよ」
「反省?」
あなたが?
さすがにそこまでは言葉を呑み込み、千鶴は何とも言えない表情になった。あの少女のことを思い出したのだ。
篁白蓮。
意味深なことを言う。そんな黎明の言葉だけで彼女の笑顔が思い浮かぶ。まだまだ幼いのにたまに遠い目をしているところ、ずけずけと踏み込んでくるところ、時折妙に穿ったことを言うところ――黎明ほどではないにしたって、苦手な子供だ。
苦手同士が重なって、千鶴はそれ以上考えることも嫌になった。
千鶴の行動がいつもと違うことと、使いとして来た子供の不思議な雰囲気を面白く思って、「気が変わり」、本家の当主と話をしに来た――黎明のふわふわした態度を見続けてきた千鶴にとって、そんなストーリーは十分自然だと流せるものだった。
「そう……なの」
「あの子、行動力がすごいよね。高嗣様と直接話をした方がいいって堂々と言われたら、まあそうかなって思っちゃって。これからは、千鶴ちゃんを困らせるようなことはしないつもりだよ」
千鶴はもう、何から言えばいいか分からなくなっていた。
自分があれほど苦心したのは何だったのか。さっさと突き放しておくのが実は正解だったのか?
もちろん厄介な存在であり続けてほしい訳ではまったくないのだが、あの子が関わった途端にどうしてという暗い気持ちを否定することもできない。
「あ……」
「うん?」
黎明の視線はとても優しげで凪いでいる。
うまく言葉にならない疑問も、整理する時間がある。千鶴は不本意にも場の穏やかな空気に助けられながら、ようやく口を開いた。
「あなたなりの理由があったんじゃないの」
黎明はわずかに首を傾げるようにした。この時の仕草にはなぜか嫌味がないように感じられて、千鶴は自分でもよくわからないうちに先を促される。
「高嗣様に命じられたら、普通、逆らわないわ。そうでしょう? 私はあなたのしてることの意味がずっとわからなかった。……なのにそんな、急に、変えられるものなの」
千鶴は不思議だった。
自分だって好きで、心酔して高嗣に従っているわけではない。だけれども高嗣は本家の全て、本家の意思そのものだ。
黎明の反抗は、彼を嫌う人間からしても不安を煽られるようなものだった。
たとえば危険な遊具で遊ぶ子供を見るような。
たとえば崖に向かって進む人間を見るような、そんな感覚。
必死で、いっそ縋るようでもある千鶴の表情を眺めて黎明は少し切なげな微笑みを浮かべた。それはなんとも形容し難い複雑な表情。
千鶴には読み取ることのできない哀れみがそこにある。
「千鶴ちゃん」
「……何?」
「僕が逆らっていたのは、高嗣様の考えと僕の考えに相容れない部分があるからだ」
言い聞かせるような黎明の言葉にも、千鶴はつい目を泳がせた。誰かに聞かれているとも思わないが、――千鶴は本家にいながらそんな言葉を吐くことなど、とてもできない。
かなり濁した言い方にでさえ怯える瞳。
それを見て取った後で、黎明は優しく続けた。
「だから決して。本家に、君に、嫌がらせをしたかった訳じゃない。君には大変な苦労を掛けていたと思うけれど」
優しい声。
「そんなこと……」
「これを機に、謝っておこうと思って。それで来たんだ――今まで申し訳なかったね、千鶴ちゃん」
「……」
千鶴が見返す瞳は、どこまでも優しい。
その静かな目を一度視界に入れてしまったら、いくらでも出てくるはずの毒も、暴言も、何故か姿を潜めてしまった。
(どうして)
千鶴が飲まされた煮湯は一つ二つでは済まない。
黎明以外の当主が全員揃った会議、数々の定例会。
それらの悉くを実のないものと笑顔で切り捨て、無視し、決められた日取りは残酷にも過ぎていった。
当主の不機嫌の煽りを受けてきたのは千鶴だった。
嫌いだ。与えられた職務に相応しい仕事をせずに、軽薄に笑う顔が――正当な訴えに向き合ってくれない姿勢が、嫌いだ。
それなのに彼の声は、どうしてここまで切なそうなのだろう。
どうしてここまで真剣な響きなのだろう。
この男のことを信頼などしていないのに。彼のことなど、なにもわからないのに。
恨みを忘れた訳ではない。無視し、激怒し、何も聞きたくない帰れと言うことは簡単だった。
けれど千鶴にはできなかった。
「千鶴ちゃん?」
沈黙しているところを覗き込まれただけで、勝手に急かされたような気分になる。気付けば口にしていた。
「……もう、いいわ。そう言うからには、もう私を煩わせるようなことはしないで」
それが、精一杯。
どうにか厳しさを保った声に、黎明は頭を下げた。
「ありがとう」
頭を下げられ、微笑まれて。
それを受けて自嘲のように笑ってしまったことを――彼女は、黎明が静かに去ってから自覚した。
(私、あの人のことを許した?)
許したつもりなどなかったのに。
何も碌な言葉が出なかった自分が信じられない。
黎明がいなくなった部屋の静けさは、今までにないほどひどい孤独感を千鶴に与えた。
*
夜になろうとしていた。
千鶴はまだ同じ場所で座ったまま。
怒りと後悔と罪悪感と、そのすべてへの否定。もう同じところを何度も何度も思考が回っている。
今し方割と詳細な記憶の辿り方をしたこともあって、さらに気分が沈んでいた。
障子越しに、陽が落ちていっていることはわかる。まもなく光も差し込まなくなるだろう。
夕食を取る気にもならない。
誰も千鶴に声を掛けたりしない。きっと自分の落ち込みようの酷さに、そっとしておこうと思われているのだ。気を遣ってくれていることに感謝すべきかもしれない。
そこまで考え、また項垂れる。気を遣う、などという言葉からまた桐原黎明の言葉を思い出してしまった。
「逆らっていたのは、本家の当主と相容れないから」。
「君に嫌がらせをしたかった訳じゃない」。
あの時、誠実な響きに惑わされて何も言えなかった――けれど、後から後から怒りと悲しみが湧いてくる。
(つまり、それは)
嫌がらせをしたかった訳ではないけれど、本家の当主に逆らおうという意思の方が強かった。その意思を通すためなら、千鶴が苦しんでもいいと思っていた。
そう言っただけに過ぎないじゃないか?
黎明との関係性において、自分が優先されないことなど百も承知だった。自他共に認める不仲である。
だけど――いや、だからこそ思う。あんなフォローに意味なんてなかったと。
ただの優先順位の発表会。自分の気が変わったからとりあえず謝罪されただけ。つまり結局はあの何を考えているかわからない男に、いいように誤魔化されただけなのだ。
でも、こんなことは言われた瞬間に気付かなければ意味がない。後から怒りをぶつけようものなら、おかしいのは千鶴のほうだ。
(許してしまった。和解してしまった……)
もういい、と、確かに言った。
ありがとうと黎明は答えた。その後に揉めることもなかった。だから二人の間で和解は成立してしまった。
(もう、ひっくり返しちゃいけない)
謝罪を受け入れた人間の振る舞いをしなければいけない。頭で理解するところまでは行けても、先へ進めない。
いつも一人になってから腹が立って、その時にはどうしようもなくなっている。そんなことがもう何度あった?
自己嫌悪にもいい加減に耐えられなくなって、でもこの場から離れようという気にもなれなくて――また突っ伏そうとした千鶴に、また背後から声を掛けようとするものがあった。
神経が過敏になっていた分、千鶴も気配にすぐ気付いた。彼女が勢いよく振り向いたので、「彼」もさすがに驚いたようだった。表情はさほど変わらなくとも、わずかに見開かれる目。
もっとも、千鶴ほどではないけれど。
「……千鶴さん」
「り」
律己様。そう呼んだ声が、少し掠れた。
「大丈夫ですか?」
篁律己は、千鶴がひそかに恋い続ける分家の男性だ。
高い身長、厳格な印象はあるけれど整った顔立ち、無駄に笑ったりしない寡黙で誠実な人。
彼はいまいち感情のこもらない声で、それでも千鶴のことを見ながら尋ねる。
格好良いな――千鶴は最悪な精神状態でもそう思う自分にいっそ笑えてきた。
千鶴はあれだけ重く感じた足の重さが嘘のように慌てて立ち上がり、律己と向き合う。だらだらと過ごしていたせいで適当すぎる自分の身なりのことはあまり考えたくなかった。
「どうして……ああ、高嗣様ですか?」
とりあえずと口にした問い。本家で律己とすれ違ったとき、百パーセント千鶴が口にする第一声だった。間違いなく頷いてくれるから、話の取っ掛かりになる。
しかし今日は違っていた。律己は首を横に振ったのだ。
「え?」
「あなたに謝罪をしようと思って」
座ってもいいか、と尋ねられて千鶴はパニックになりかけた。確かに彼は穏やかで優しい人で、本家に来た時は動揺を隠しながらも世間話をする仲だ。
けれどもどうしたって淡々としている人でもある。二人でゆっくり話をしたことなど数えるほどしかない。
それも全部、律己が本家へ来たのに高嗣に待たされることになった時――彼がそうせざるを得なかったであろう状況下でのこと。
要は暇を持て余していたのだ。千鶴も暇であるかのように装って、彼と並んで座っていただけ。なんの色気もない。
だけれど、律己は誠実で優しい。饒舌ではなくとも論理的だし、千鶴のたわいもない話にも耳を傾けてくれる。
とはいえ。
(二人きり?)
あまりに急なことだった。千鶴は先ほどまで考えていた黎明の軽薄な笑顔のことなど、この時にはもう頭から吹き飛んでいた。
動揺を隠すので精一杯の千鶴の前に、律己は大して躊躇わずに腰を下ろした。
「しゃ――謝罪だなんて」
裏返りかけた千鶴の声にも、律己の表情はまったく変わらない。何ともいたたまれない気持ちになりながら、千鶴は疑問を投げ返す。
「律己様が、なんの……」
いかにも心細い問い掛けだった。律己はそれに対しても特段の反応を見せないまま、淡々と答える。
「妹が、ずいぶん迷惑を掛けたようですから」
「めっ」
今度こそ声が裏返った。律己がさすがに少しだけ首を傾げたので千鶴は勢いよく首を振ったが、誤魔化せるわけがない。
「あの子が、黎明さんに会ってきたと言うので。話を聞きました」
――終わった。
いや、終わった、のだろうか?
(どこまで話した。どこまで聞いた……?)
自己保身が最初に来る自分の駄目さは今はどうしようもない。
千鶴が気にしたのは、白蓮がどこまで話したか――桐原黎明を巡る一連の出来事を兄にどう伝えたか、ということだった。
律己に嫌われていないかが怖かった。確かめたいと思いながら怖くて口にできない。
(だけど、彼は謝罪をしたいって)
千鶴が言葉を選ぶために黙っているのを、律己は自分の説明不足と感じたらしかった。彼の話は、千鶴を半ば置き去りにするように続けられる。
「知り合いを増やしたいと考えていたところに、分家との連絡にかかる仕事をしていたあなたを見た――どこか分家へ行ってみたいと、随分無理を言ったそうですね」
律己の声に、怒りはなかった。
千鶴は曖昧に首を傾げながら今聞いた言葉を反芻する。かなり配慮がされた言い方だ。
(私が、半ば押し付けるみたいにしたはずなのに)
あの無邪気な子供の笑顔が脳裏に甦る。
千鶴は狡い自分を自覚しながら、律己をそっと見返した。
「桐原さんはあの通りの方ですから、その……心配していました」
嘘じゃない、と自分に言い聞かせる。
嘘じゃない。心配していたのは本当だ。あの厄介者のところへ送られた白蓮を。そして妹が悪名高い男の元へ使いにやられたと知った律己の心の動きを。
「律己様も、あの、怒っていらっしゃるのではないかと」
保身から来る言葉に律己が首を横に振ったのを見て、千鶴は思わず息を吐く。
「本家にまず来ないような相手がいい――あの子はそう言ったと白状しました。黎明さんを紹介せざるを得なかったあなたの心情はよく分かります」
「えっと……」
怒っていないことは、分かった。
ただ千鶴は首を傾げそうになる。忙しい時、そして苛ついていた時に白蓮が来て、分家と関わるのが羨ましいなどと言ったから八つ当たりをしてしまった。それが彼女の自己認識だ。
紹介しろ、ああいう人がいいこういう人は駄目だなどと言われた記憶はない。
(……律己様が、誤解しているのかしら)
今の言い方では、白蓮の我儘を千鶴がなんとか聞いてやったような印象を受ける。白状などと言うからには、白蓮のことを叱りでもしたのかもしれない。
言わないといけない。
自分が桐原黎明に会いたくなかっただけだと、真実を。彼女は確かに存在した正義感から顔を上げようとした。
「律己様」
そのとき。
「白蓮の扱い方は、慣れないと難しいものです。あっさり帰ってきましたので問題はありませんが――きっとあなたは自分を責めているのではないかと思って。すみませんでした」
千鶴の世界は、時間を止めた。
今の言葉はなんだ。
「自分を責めているのではないかと思って」?
(私が?)
だから、――様子を見に来てくれたというのか。
謝りに行こうと思ってくれたと、そういうことか。
(この人、が?)
無駄なことを言わず、いつも理性的で淡々としている。そんな律己が自分のことを気にかけ行動してくれたというだけで、彼女の心臓の鼓動は速くなった。
「それだけのために、わざわざ?」
「それだけということもないでしょう。何年もあの子に親切にしてくださっていることは、本人から聞いています」
表情。
変わらない表情の中に、千鶴は確かに優しい色を見た。
何とも思われていないと思っていた。それでも元々感情が読めない人だというだけで、彼の中では千鶴はちゃんと存在感を持てていたのかもしれない。
彼も――少しくらいは、千鶴と親しいと思ってくれているのだろうか。
今まで思い悩んでいた罪悪感が、消えていく。
彼女はこのとき、真実を話すことをやめた。都合の良い、甘く歪められた言葉を事実と考えることにしたのだ。
たとえ叱られてでも、全面的に千鶴に寄った話をしておけば――律己からそれを聞いた千鶴は、きっと自分が悪者になるような訂正はできない。
そう見込まれた通りに。
認められている。
そんな感覚になった千鶴は、少しだけ積極的な気持ちになれた。輝きが戻りつつある瞳が律己に向く。
「あの……嬉しいです。遅い時間なのに寄っていただいて」
律己はその瞳を見てから、わずかに首を振る。
「用事があって来るのが遅くなりました」
夕餉時に申し訳ありませんでした。そう言葉が続いたことで、彼が帰ろうとしているのだと千鶴は悟った。
思わず、その言葉に追い縋るように声を出す。
「ゆ……」
「はい?」
「律己様は、どうされるのですか? お食事は」
「妙な時間になってしまいましたが、適当に済ませます。あなたは?」
カウンターが来てしまった。迷いながらも結局、何も食べていないんですと答えると――理知的な目が驚いたように千鶴に向く。
「何故?」
「……。……いえ、あの。心配で……」
千鶴の言葉は事実ではあった。ただ、さまざまな言葉が省略されているだけで。
けれども律己は当然、自分の妹のことだと解釈した。
「食事も喉を通らないほど、ですか?」
淡々とした口調。千鶴が言葉選びを間違えたかと慌てて顔を上げると――少しだが、律己が微笑んでいる。
「不器用なかただ」
その言い方は、今まで千鶴が耳にした中でもっとも優しい響きを持っていた。
甘く、彼女の心を捉える呟き。
彼女がぐるぐると抱え続けたものを、彼はまるで愛しいものでも見るように肯定する。
「……どこかへ、食べに行きますか」
「え?」
立ち上がった律己の言葉に、千鶴は固まる。何を言われたのか飲み込めないうち、手が差し出される。
「心配は晴れたでしょう。私からの迷惑料と思っていただけると」
(あ)
千鶴はそんな言葉で理解した。
律己は言葉少なではあるけれど、千鶴のように不器用な人間というわけではない。今のは建前だ――千鶴が罪悪感なく食事を取れるように、そう言ってくれたのだ。
彼女にも、それが分かった。
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。何が好きですか」
差し出された手は、ただのエスコートのためのものだ。
だから大丈夫。そう思って、千鶴も手を伸ばした。
――あなたが好きです。
まだ言えるはずもない言葉を飲み込んで、千鶴は答えを考える。
立ち上がった途端、胸の奥に張り詰めていたものがほどけた。
やっと深く息が吸えるような気がした。