帝都の中心から少し離れた高台に、ルメート侯爵家の荘厳な屋敷はそびえ立っている。その白亜の外壁は遠目にも目を奪うような美しさで、貴族社会において名門と呼ばれるにふさわしい威容を誇っていた。大きく弧を描く石造りの階段、手入れの行き届いた庭園、噴水から湧き出る清廉な水の音。門をくぐり、長い並木道を進むだけで、人々は「ここに住む者こそが優れた血統を継ぐ者なのだ」と自然に感じてしまうほどの格式を漂わせている。
そして、そんな名門ルメート侯爵家の令嬢であるアイシャ・ルメートもまた、その家名に相応しいほどの気品をまとっていた。幼い頃から厳しい礼儀作法や言語教育を叩き込まれ、どのような場においても堂々とした振る舞いができる。加えて、金色がかった淡いブラウンの髪と、優しげな印象を与える大きな瞳は多くの人々を惹きつけ、貴族の娘として申し分ない“外見的美”をも兼ね備えている。その容姿や評判は、帝都の貴族社会において話題に事欠かず、ほかの若い令嬢たちから少なからず羨望の眼差しを向けられているほどだ。
もっとも、名門に生まれたということは、同時に大きな責任や義務を背負うことでもある。特に侯爵家以上の高位貴族の家系では、血統を守るための「政略結婚」は日常茶飯事。実際、アイシャがまだ幼いころから、両親は「いつかは有力な家門の跡取りと婚姻を結ばせたい」と考え、彼女を飾り立てるように育ててきた。いわば、アイシャの将来はルメート家の富と名声をさらに高めるための“道具”として位置づけられていたのである。
アイシャ自身も、その運命をある程度受け入れていた。貴族令嬢として産まれた以上、恋愛結婚など夢物語にすぎない、というのが彼女の考えだった。周囲を見渡せば、幸せな夫婦関係を築いている貴族もいなくはないが、その多くは政略結婚を前提として「幸運にも気が合った」場合であって、最初から愛を求めるものではない。だがアイシャはまだ若かったこともあり、「いずれ自分にもそれなりに好意を持てる相手が現れるかもしれない」という淡い期待を心のどこかで抱いていた。
しかし、その淡い望みは突然の“政略結婚”の通告によって一瞬で打ち砕かれることになる。ある日、アイシャの両親は彼女を応接室へ呼び出した。母はやや浮かれた調子で微笑み、父は珍しく背筋を張っている。何かを隠しているのは明白で、アイシャの胸に嫌な予感がよぎった。
「アイシャ、あなたももうすぐ十八。いつまでも子どもでいるわけにはいかないわね」
母はそう言って、上機嫌そうに金色の扇で口元を覆う。アイシャは立ったまま頭を下げ、「はい、仰せのとおりです」と返事した。母の態度や表情が見慣れぬほどに明るいのは、この場における話題がきっと喜ばしい内容だからだろう。だがアイシャにとって、喜ばしいこととは限らない。むしろ、不安ばかりが募っていく。
そして父が厳かな声で一言、「実は、おまえに縁談が決まった」と告げたとき、アイシャの胸はひどくざわめいた。どこかで「ついに来てしまったか」と頭では理解していても、実際にその言葉を聞かされると逃げ出したくなる。視線をテーブルに落としながら言葉を失った彼女に、父は続ける。
「先方はアルヴァーノ公爵家だ。帝都でも有数の権勢を誇る一家で、今の公爵は大変優秀だと評判も高い。しかし、大変残念ながら……」 「残念、とは……?」 「子息であるレオン・アルヴァーノ公爵は、少々人付き合いが悪いようだ。冷酷な噂もある。ただ、力量は間違いないと聞く。まだ若いが、すでに政治や軍事に通じており、王城でも指折りの存在だそうだ」
そのとき、アイシャの心の中には「冷酷」「野心家」という負の印象がはっきりと刻まれた。その名を聞いたことがまったくないわけではない。貴族たちの噂話の端々に「アルヴァーノ家の跡取りは冷血で、自分の目的のためなら手段を選ばない」という話が囁かれていたのを覚えている。それが誇張された噂にすぎない可能性もあるが、何もかもが根も葉もないわけではないはずだ。
母はそれでも嬉々として言葉を継ぐ。 「でもアイシャ、あのアルヴァーノ公爵の妻になるのよ? 格式や地位も申し分ないわ。これ以上ない縁談だと思わない?」 「……わたくしの意見は、聞いていただけないのでしょうか」
控えめな声でそう問うと、母はさも驚いたように目を瞬いた。 「まあ、アイシャ。意見も何も、これはあなたのためでもあるのよ? ルメート家とアルヴァーノ家が繋がれば、あなたがどんなに豊かな暮らしを保障されるか。将来の安泰は約束されたようなものだわ」 「そうですわね……」
形式的な相槌しか打てないアイシャ。だが心の中では疑問が湧き上がる。母の口から出る「あなたのため」という言葉は本当に彼女自身の幸せを願ってのものだろうか。結局、両親はルメート家の体面や地位を最優先しているにすぎず、アイシャの人間的な感情は二の次なのではないか。
かといって、ここで婚約を拒否したらどうなるか。ルメート家の信用に傷がつき、周囲から「親不孝な娘」として糾弾される可能性が高い。何より、両親から受けてきた厳しい教育の元で培われた「貴族としての義務感」が、アイシャを強く束縛していた。自らの一存で家の決定を覆してはならない、と幼いころから刷り込まれてきたのだ。
こうしてアイシャは、ほとんど流されるままにアルヴァーノ公爵との縁談を承諾させられた。もちろん「幸せになれそうだ」という確信など一切ない。むしろ、不安のほうが大きかった。しかし、華やかに開催された婚約式や顔合わせの場では、多くの貴族たちの祝福を受け、そのどれもが「これは名門同士に相応しい素晴らしい結び付きだ」と讃える。華やかなドレスに身を包み、最良の笑顔を作り、舞台の上に飾られるように佇むアイシャは、そのときほど「虚ろな人形」に近い気分を味わったことはなかった。
レオン・アルヴァーノ公爵も、その場では必要最低限の挨拶や礼儀を守りつつ、しかしどこか冷たい眼差しを保っていた。アイシャが視線を合わせようとしても、わずかに口元を動かすだけで、軽く一礼するのみ。そこに温かみや好意など感じられない。どちらかというと「政略の成果としての婚約式を無事に済ませた」というビジネスライクな態度だった。それを間近で目の当たりにしたアイシャは、かすかに寒気を覚えると同時に、彼が“冷酷”と噂されるのも無理はないと納得してしまう。いや、むしろ思ったよりも上品に振る舞える男性なのかもしれないが、いずれにせよ自分に対して好意を抱いているような素振りは皆無に近かった。
婚約式が終わると同時に、日取りの定まった挙式へ向け、さまざまな準備が急ピッチで進められていく。ルメート家の使用人たちは忙しなく駆け回り、アルヴァーノ家でも式の手筈を整えるための会議が連日開かれたという。そんな中、アイシャに求められるのはただひたすら「優雅で清楚な花嫁」を演じ続けること。式のドレス選びや、引き出物、披露宴の席次など、細かな事柄の多くは母が主導権を握ってしまい、アイシャ自身の意思など関係がないに等しかった。
そして結婚式当日。帝都の大聖堂には、華美な装飾と共に多くの貴族や王宮関係者が集まり、二つの名門家の結びつきを祝福する。純白のドレスに身を包んだアイシャがゆっくりとバージンロードを進むと、待ち受けるレオンは形式上の笑みを浮かべていた。鐘の音が響き渡る中、聖職者の前で誓いの言葉を交わし、指輪を交換する儀式は、外から見れば非常に厳かで美しいものだったに違いない。
しかし当のアイシャは、誓いの言葉を口にする瞬間、胸の奥底がひどく冷え込むのを感じていた。「愛を誓います」「生涯あなたを支えます」という言葉がまるで嘘のように思えてならない。一方のレオンも同じなのだろう。まるで魂のこもっていない視線で、ただ淡々と儀式を進めるだけ。まるで「これで自分の地位とアルヴァーノ家の安泰は約束された」とでも言いたげに見える。
式後の祝宴では、多くの招待客が新郎新婦に祝辞を述べ、「お二人はなんとお似合いなのでしょう」「これで貴族社会はさらに安定いたします」と口々に賛美する。そのたびにアイシャは笑みを貼り付け、「ありがとうございます。皆様のおかげで幸せですわ」と繰り返すしかない。そうする以外に、どうやってこの空虚な時間に対処すればいいかわからなかったからだ。
こうして、形式上は何も問題のない“華麗なる結婚式”は幕を閉じる。だがその裏には、すでに「白い結婚」の始まりを告げる冷徹な空気が漂っていた。挙式の翌日、ルメート家からアルヴァーノ家へ移り住んだアイシャを出迎えたのは、壮大な邸宅や数えきれない使用人だけではない。廊下の隅々まで行き渡る緊張感と、どこか殺伐とした雰囲気だった。
レオンは新妻にわざわざ挨拶をすることもなく、開口一番「今日からアルヴァーノ家の主婦として、礼儀だけはしっかり守ってもらう」と淡々と述べるだけ。どうやら一般的な「夫婦の会話」というものを期待してはいけないらしい。婚礼当日にすら、彼はほとんど自分を顧みなかったのだ。アイシャは、自分が正式に嫁いだはずなのに「これが私の新しい家庭なのだろうか」と途方に暮れるばかりだった。
そもそも、レオンがアイシャを求めたのは「ルメート侯爵家との同盟」と「形だけの妻」がほしかったからだという話を、ちらりと耳にしていた。アルヴァーノ家の内情をよく知る使用人からは、「ご主人様は家柄にふさわしい夫人を迎え、跡継ぎ問題を回避したかっただけです」と耳打ちされることもある。それはおそらく事実なのだろう。レオン本人も、アイシャと親しくなろうという気配を微塵も見せないのだから。
にもかかわらず、レオンが外面だけは整えるよう指示したのは、やはりアルヴァーノ家の名誉や世間体を保ちたいからに違いない。宴や式典では「公爵夫人」として美しく立ち居振る舞い、家の株を上げてほしい。だが私的な空間では、夫婦らしい交流など不要。それがレオンの考え方なのだろう。ある夜、アイシャが勇気を振り絞って「少しお話をしませんか」と声をかけても、彼は眉をひそめて「必要なことは執事を通せ」と言い捨てるだけだった。
アイシャは、胸にポッカリと穴が開いたような虚しさを抱えつつも、取り繕うしかなかった。何しろ、こうして嫁いできたからには、ルメート家を裏切るわけにはいかない。結婚を破棄すれば、両家の関係は冷え込み、両親の顔に泥を塗ることになる。さらに、自分にも世間の厳しい非難が降りかかるだろう。結婚はあくまで当人同士の契りではあるが、貴族にとっては「家と家の結びつき」であり、「政治の一端」でもあるのだ。
そんなある日、アイシャはアルヴァーノ家の廊下で、レオンの“愛人”らしき女性と鉢合わせした。名をエリザベスといい、艶やかな黒髪と挑発的な微笑みが印象的な美女である。彼女はまるで勝ち誇ったようにアイシャを睨みつけ、「あら、公爵夫人。こんなところで何をしているのかしら?」と声をかけてきた。
「……庭を散歩しようと思っていました」
アイシャは動揺を抑えつつ答える。エリザベスの存在は以前から噂で知っていたが、こうして堂々と目の前に現れるとは思っていなかった。
「そう。わたしは今からレオン様とお出かけするの。悪いけど、あなたの立場はわたしの邪魔にならないでちょうだい?」
まるで挑発するかのように、エリザベスは公爵令嬢を鼻で笑う。その態度にアイシャの心は乱れたが、表情には出さず、「ご自由にどうぞ」とだけ返してその場をやりすごした。しかし、胸の奥には嫌悪感と悲しみが滲む。形式的な結婚とは言え、夫がこうも露骨に愛人を連れ歩き、あまつさえ屋敷に上げるなど、あまりにも冷酷ではないか。アイシャがそのことを問い質そうとしても、レオンは「口を挟むな。お前には関係のないことだ」と言葉少なに切り捨てるだけ。愛人の存在を否定するどころか、隠しもしないのだ。
表向き、アルヴァーノ家の人々や一部の貴族たちは、公爵夫人であるアイシャを敬うように振る舞う。だが実際には、レオンがどれだけ彼女に冷淡であっても、だれもそこに口出しをしない。むしろ、「政略結婚なんだから、お飾りの夫人でいいじゃないか」と言わんばかりの態度だ。アイシャはまるで透明人間のように扱われることもしばしばで、心が折れそうになる。
それでも、貴族社会の掟に従い、アイシャは外面を保ち続けるしかなかった。公爵夫人として社交界の集いに出席すれば、誰もが彼女を賞賛する。「さすが名門ルメートの出」「優雅で美しい公爵夫人」と。その一方で、「でも実際のところ、あの夫婦はどうなのかしら?」と陰で囁かれているのも知っている。何より、冷え切った夫婦関係など当の本人が一番よくわかっていた。
夜になると、大きな寝室に一人きりで眠りにつく。レオンには別の部屋が与えられていて、夫婦の関係を築く気がないことは明らかだ。あるいは、愛人エリザベスがいる部屋に入り浸っているかもしれない。アイシャは一度だけ、意を決してレオンの私室を訪ねたことがある。そこにエリザベスと二人きりでいるところを見てしまったが、レオンは慌てる様子もなく、「何か用か?」と冷淡に問いかける。まるで、夫人が自分を訪ねること自体がおかしいと言わんばかりの態度だった。
アイシャはその瞬間、はっきりと悟った。「こんな結婚に未来はない」と。政治的にも社会的にも結びつきは強固かもしれないが、夫婦としての情などかけらもない。かつて「いつか少しでも好意を持てる相手に出会えたら……」と淡い期待を抱いた自分が、いかに naïve(ナイーヴ)だったかを思い知らされる。挙式後わずか数週間で、夫婦関係は完全に形骸化していた。
それでも、アイシャが今さら離婚を望めば、両家に大きな波紋が広がり、自らが“わがままな妻”として社会的にも糾弾されるだろう。そうわかっているからこそ、彼女は感情を押し殺し、「仕方がない」と言い聞かせながら日々を送るしかない。けれど、一人きりで寝室の窓辺に座り、夜の闇を見つめるとき、自然と涙が溢れることがある。豪華なカーテン、高価な調度品、広々とした部屋……どれをとっても羨ましがられるほど贅沢な環境に包まれているのに、心はひどく冷え切っている。それはまるで、「冷たい籠の中に取り残されている」ような感覚だった。
こうして始まったアイシャとレオンの新婚生活は、外から見れば順調そのものに映るだろう。形式的な夫婦としての立場を守ることで、お互いの家名を傷つけずにいるからだ。だがアイシャ自身の心は、日を追うごとに萎れていく。いつしか、彼女は心の中で何度も呟くようになった。「こんな結婚、早く終わらせたい」「だけど終わらせられない。どうすればいいの……?」
外面を繕い、仮面の笑顔で貴族の社交界を渡り歩くたび、アイシャは自分がどんどん“自分らしさ”を失っていくのを感じていた。もともと穏やかで優しい性格だったアイシャは、「少なくとも相手を思いやる気持ちは忘れたくない」と思ってきたはずなのに、今の夫にはその想いを注ぐ余地すら見当たらない。レオンが望むのは「黙って従う都合のいい妻」でしかなかったし、エリザベスが望むのは「邪魔にならない公爵夫人」という立場。どちらにしても、アイシャの意思や感情などどうでもよいのだ。
そのような状況に、アイシャが限界を覚える日が来るのは時間の問題だった。「白い結婚」と揶揄される形式的な関係は、このまま続けば彼女の心まで凍りつかせるに違いない。けれど、まだアイシャは自分がこの“冷たい檻”から抜け出すすべを知らなかった。両親の期待、侯爵家と公爵家という名門同士の結びつき、そして貴族社会の鋭い視線。その全てが、彼女の行動を縛り続ける。一体どこに、本当の「自由」や「幸福」があるのだろうか——そんな問いに答えを見いだせないまま、彼女は今日もまた、夫の部屋とは別の寝室の寝台で孤独に震えるのである。
こうしてアイシャは、レオン・アルヴァーノという冷酷な公爵のもとへ嫁ぎ、「白い結婚」と呼ばれる冷え切った新婚生活を余儀なくされた。だが、彼女の中にはかすかながら「こんな状況に甘んじたくない」という強い意志が芽生えつつあったのも事実だ。口には出せないが、心の奥底でくすぶっている「いつか、この偽りの結婚関係を終わらせるか、もしくは自分自身の力で変えてみせる」という願い。この物語は、アイシャが苦しみの中でどうにか立ち上がり、やがて自分なりの幸せを掴むまでの長い道のりの幕開けでもある。
両親の決断に逆らうことなど許されず、夫の愛情も得られないまま、名ばかりの「公爵夫人」として振る舞わねばならない日々。周囲にとっては“完璧な政略結婚”と称えられても、当人からすればこれほど虚しいものはない。こうして始まった偽りの生活こそが、これから語られる波乱の物語の導入なのだ。アイシャは知らない。これから待ち受ける様々な試練や陰謀、そしてやがて訪れる“ざまぁ”な逆転劇を——。しかし今はまだ、夜毎に寒さをこらえながら想うばかり。「こんな結婚に、幸福などあるのだろうか」と。
それでも、彼女はこの冷たい結婚生活のただ中で、何がしかの光を見つけ出すことになる。その光はまだ見えない。希望というにはあまりにも遠く小さな輝きだ。だが、それさえあれば、アイシャは自分の尊厳を見失わずにいられるだろう。すべてが偽りで塗り固められた世界に囚われながらも、彼女の物語はこれからようやく動き始める。白い檻の中で静かに凍えていた令嬢が、自らの手で運命を切り拓く——その先にこそ、ほんのわずかでも、本当の笑顔を取り戻せる未来があると信じて。