アイシャがアルヴァーノ公爵家に正式に嫁いでから、早々に数日が過ぎていた。結婚式の日、夜会が終わったあとでさえレオンとのまともな会話はほとんどなく、彼は形ばかりの挨拶を交わしただけで早々に自室へと消えてしまった。その翌日からも、夫婦はほとんど顔を合わせない。たとえ廊下で鉢合わせになっても、レオンは苦々しい表情を浮かべるか、もしくは無言で通り過ぎるだけ。アイシャはその冷たい態度に戸惑いつつも、表向きは気丈なふるまいを崩さずに過ごしていた。
しかし、実際には戸惑いどころか、心の底で湧き上がるやりきれない気持ちをどう処理すればいいのかわからない。レオンとはほとんど言葉を交わさず、会話をする必要があるときでさえ執事や侍女を通じて伝言が回ってくる。そんな扱いを受ければ、誰しも「自分は夫にとって不要な存在なのではないか」と感じてしまうものだ。それはかつて、ルメート侯爵家の娘として大事にされてきたアイシャが初めて味わう「冷たい疎外感」だった。
さらに追い打ちをかけるように、レオンの愛人であるエリザベスの存在が公爵邸の中で堂々と認められている現実があった。豪華な衣装を纏い、メイドたちを従えて廊下を闊歩するエリザベスに対し、使用人の誰もが丁重に頭を下げる。まるで正妻であるアイシャよりも、邸の中での発言力や存在感が大きいかのようだった。もちろん、法律上はエリザベスが妻の座を奪っているわけではない。だが、実質的には彼女のほうがレオンの心を掴んでいるのは明らかだ。
アイシャは、その事実を見て見ぬふりをするしかなかった。公爵家という大きな屋敷では、使用人の数も多く、それぞれが微妙な人間関係を保ちながら仕事をしている。誰かを味方につけようとすれば、逆に反感を買うかもしれない。下手をすれば、ルメート侯爵家の面目すら潰しかねない。政略結婚として結ばれたこの婚姻を、少なくとも「外向きには」円満に見せかけることがアイシャの義務だと信じていた。家名を守らなければならない。その一点が、彼女の最後の支えでもある。
けれど、心のどこかでは「こんな結婚に、私が耐える必要は本当にあるのだろうか」と疑問を抱き始めてもいた。冷え切った空気の中で孤立する毎日は、精神的な疲労を蓄積させる。夜になれば広すぎる寝室に一人きり。シルクの寝間着に着替えても、その生地の柔らかさすらどこか他人事のように感じる。結婚したはずの夫は愛人とどこかへ出かけ、あるいは別室で眠っている。アイシャの心は凍る一方で、枕を濡らす涙の温度だけが自分がまだ“生きている”ことを教えてくれるようだった。
そんなある日、アイシャは侍女長のグレイスを通じて、レオンから言伝を受けた。それは「翌日、帝都の貴族連中が集まる夜会に夫婦そろって出席せよ」という一言だった。アイシャが彼に会って直接話がしたいと思ったのも束の間、「旦那様はお忙しくて時間が取れないそうです」と冷ややかに告げられる。まるでアイシャの意向など聞く必要はないとでも言わんばかりだ。
当然、アイシャはその命令に従わざるを得なかった。貴族としての礼儀を知らないと思われるのは避けたいし、何よりレオンの顔を潰すわけにもいかない。新婚夫婦として出席することが求められる場ならなおさらだった。アイシャは専属の侍女たちに手伝ってもらいながら、美しいドレスを選び、髪を結い上げ、化粧を整える。こうした外面を整える作業だけは、幼いころから習い慣れたものだった。
しかし、いざ出発直前になってもレオンの姿は見えない。門のところに待機させた馬車には、アイシャ一人が乗ることになるのか——と思ったその刹那、遅れてやってきたレオンがまるで「渋々」という様子で姿を現した。
「……待たせたな」
「いいえ」
一応の謝罪らしき言葉を口にしたレオンだが、その顔には愛想など微塵もない。アイシャは黙って馬車に乗り込み、向かい合うように席につく。だが、会話はまったくない。彼は窓の外に視線をやり続け、わざわざ妻に何かを話しかけようとはしなかった。
馬車のきしむ音が耳障りなほど響く中で、アイシャは沈黙の重さに耐えかねそうになる。もう少し夫婦らしい会話があってもいいのではないかと思うが、レオンの横顔を盗み見ると、その冷ややかな表情はどこかイライラを隠し切れない様子でもあった。まるで「仕方なく出席している」とでも言いたげだ。そんな姿に、アイシャはうっすらと自己嫌悪を覚える。この結婚はやはり、彼にとっても何の喜びもないものなのだろうか、と。
やがて馬車が夜会の会場である豪邸に到着すると、レオンはさっさと降りてアイシャに手を貸すでもなく、一人で先に玄関へ向かい始めた。さすがに侍従が気を利かせてアイシャをエスコートしてくれたが、その様子を見た周囲の招待客たちは、少なからず奇妙に思ったことだろう。「新婚のはずなのに、夫が妻を無視するような態度を取るなんて」。だが、それを口にする者はいない。貴族社会では「それぞれの事情」があるのが当然であり、余計な詮索は不作法とされるからだ。
夜会の場では、アイシャの美しさと血統が称賛の的になった。「まぁ、なんと麗しい……さすがルメート侯爵家のご令嬢」「公爵様はこんなにも美しい方を奥方に迎えられてお幸せですね」——そんな言葉が惜しみなく飛び交い、そのたびにアイシャは優雅な微笑みを返す。しかし、その一方で肝心の公爵であるレオンは客たちと政治談義を交わしたり、あるいはワインを口に運んだりしながら、アイシャのもとにはほとんど近寄ろうとしない。まるで「僕の妻など、ここには存在しないも同然だ」と言わんばかりの振る舞いである。
アイシャは慣れた手つきでグラスを持ち、テーブルに陳列された料理を目で追いながら、辛うじて己の動揺を押し隠した。多少は視線を感じ、周囲の貴族たちが「公爵夫妻」の様子をうかがっているのがわかる。たとえ表立って指摘されなくとも、夫婦の不仲は次第に噂として広まっていくだろう。そのことがルメート家の恥となるのではないか。彼女の胸にそんな不安が募る。
しかし、不安に押し潰されながらも、社交の場では毅然とした態度を取り続けなくてはならない。アイシャは可憐な微笑を絶やさず、貴族たちの会話に上品に相づちを打つ。育ちの良さを示すための優雅な所作、穏やかな声色、少しも乱れを見せない姿勢。どれもこれも、幼い頃から刷り込まれてきた“侯爵令嬢”としての振る舞いだ。それが今のアイシャにとっては、いわば「自分を守る鎧」になっている。そうでもしなければ、いつ彼女の心が折れてしまうかわからないからだ。
会場にいる他の貴族令嬢たちの視線は、ある種の好奇心も含んでいた。特に結婚適齢期の娘たちにとって、名門アルヴァーノ公爵家の動向は見逃せない話題である。レオンが「どうしてルメート家の令嬢を選んだのか」「あの美しくも儚げな公爵夫人とはどんな関係性を築いているのか」——そんな噂を立ち聞きしながら、自分のほうがレオンの心を射止められたのではないか、などと空想を巡らせる者までいる。
アイシャはそうした視線を感じながら、ただ耐えるしかなかった。夫のレオンが彼女に興味を示さないことは、外から見ても明白に映るだろう。それでも彼女は表面的な失態を避けるため、ひたすら美しく、柔らかに、そして礼儀正しい公爵夫人の役割を全うする。
夜会が終わる頃、レオンはさっさと退出しようとした。アイシャはそれに気づき、急ぎ足で追いかける。「一緒に帰らなくては」と思ったのだ。だが彼は振り向きもせず、「馬車はお前一人で使え」と言い捨てて、どこかへ消えてしまった。これには周囲の者も驚いたが、誰も何も言わない。かろうじてアイシャのそばにいた女中が「公爵様は急用ができたそうです」と取り繕うだけである。
アイシャは視線を落とし、か細くため息をつく。こうしてまた、夫婦としての体裁すら保っていない姿を公衆の面前でさらしてしまった。帰りの馬車の中では、誰も彼女に声をかける者はいない。車窓から覗く夜の帝都の街並みは美しいが、その景色さえも彼女の胸には冷え冷えとしか響かなかった。
だが、そんなアイシャにも、わずかな慰めの時間は存在している。夜会の翌日に、アルヴァーノ家の侍女長グレイスがひっそりと部屋を訪れ、「奥様、ご無事で何よりでした」と声をかけてくれるのだ。グレイスは年配の女性で、この邸に古くから仕えている。使用人でありながらも、レオンの父母が健在だった頃から家の内情をよく知っているらしい。そのためか、彼女はアイシャに何かと気を配ってくれていた。
「レオン様があのような態度を取るのは、奥様のせいではございません。ご安心くださいませ。もともと公爵様は……その、非常に頑なな性格でいらっしゃいますから」
グレイスは遠慮がちに言葉を選びながら、なんとかアイシャを励まそうとする。アイシャも薄々感じていたが、レオンはとにかく“人を寄せ付けない”。それが公の場であろうと身内だけの場であろうと変わらないという意味では、公平と言えなくもない。だが、だからといって妻である自分まで排除されるのは、あまりにも空しいものだ。
「……ええ、わかっています。グレイス、あなたの心遣いには感謝しています」
アイシャはそう答えながら、わずかに微笑みを返した。そこに偽りはないが、この笑顔を絶やさずにいることが、今のアイシャにとっては唯一の「自分らしさ」の保ち方でもあった。周囲を敵に回さぬよう、また自分の心を守るよう、彼女は「優しい公爵夫人」を演じ続けるしかないのだ。
しかし、冷えきった結婚生活は、時に残酷なまでにアイシャの心を抉ってくる。ある晩、ふとしたことで夜更けに目を覚ましたアイシャは、廊下のほうから聞こえる微かな笑い声に耳をそばだてた。男と女の含み笑い。それが誰であるかは、すぐに想像がつく。レオンと、エリザベスだ。
普段から公然と邸内を出入りしているエリザベスのことだから、今さら驚くべきことではない。しかし、アイシャは分かっていながらもどうしてもその笑い声に敏感になってしまう。まるで「ここは私たちの場所。あなたなんて関係ない」と嘲笑されているようにすら感じるのだ。おそらく二人は、邸の一室に篭って夜を明かすのだろう。正式な妻である自分は、今日もまた独りで広い寝台に横たわり、冷えた夜を耐え忍ぶしかない。
やりきれない思いを抱えたまま、瞼を閉じるアイシャ。けれど心はささくれ立つばかりで、身体を横たえても安らぎは訪れない。夜会から帰ってきたときに浴びた鋭い視線や、レオンから向けられた険悪な態度を思い返すと、今すぐにでも声をあげて泣きたくなる衝動に駆られる。だが「ルメート家の面子を潰すわけにはいかない」と思うと、頬を濡らす涙を堪えざるを得ないのだった。
それでも、昼間は「公爵夫人」として邸内を見回り、使用人たちの仕事ぶりに目を配り、ときには窓辺で作業に勤しむ侍女とお茶を飲む。社交の場では完璧な貴婦人を演じ、料理をふるまう際の礼儀作法なども、自らが率先して確認する。こうした勤勉さや礼儀正しさは、彼女の生来の素養でもあるし、「少なくとも公爵夫人としての務めは果たそう」という決意の表れでもあった。
しかし、この邸の中には、アイシャを心の底から歓迎しようと思っている人はごく少数のようだ。レオンの忠実な家臣や、幼い頃から仕えてきた使用人の多くは、「公爵様のお気持ちがあればこそ」と、エリザベスにこそ礼を尽くす場面が多い。アイシャが「白い結婚」のもとに座り続ける限り、彼女はどこまでも“名目上の奥方”という立場に甘んじるしかないということなのか。
そんな閉塞感の中、アイシャは次第に「こんな生活をいつまで耐え続ければいいのか」と考え始めるようになる。離婚など、考えるだけで身震いする。ルメート家の名誉を傷つけるだけでなく、政略結婚を結んだ両家の不和が明るみに出れば、帝都の貴族社会に大きな波紋が広がる。たとえレオンがまったく妻として彼女を顧みなくとも、それに不満を漏らすことすら許されないのが現実だった。
そうした中で、唯一の救いが、離れの部屋に設けられた“小さな書斎”での時間だった。アイシャはそこに自分の持ち込んだ本や日記帳を置き、暇があるときには一人で読書にふけったり、思いを書き付けたりしている。かつてはルメート侯爵家の広大な図書室で過ごすことも多かった彼女にとって、読書は心の拠り所だ。公爵家に来てからは限られた本しか手元にないが、それでも文字の世界に没入することで現実の冷たさを一時だけでも忘れられる。
しかし、その小さな安息も、時としてエリザベスの嘲笑の的になることがあった。「まあ、奥様ったら暇なのね。公爵様に相手にされないからって、本に逃げ込むしかないのかしら?」と、わざと聞こえるような声で侍女たちと話している。その姿を目にしても、アイシャは何も言い返さない。言い争いをすれば、余計に立場が悪くなるだけだし、「みっともない」と噂されればルメート家の品位を貶めることになる。
こうして耐え忍ぶ姿勢を見せるたびに、アイシャの中では冷たい感情と熱い感情がせめぎ合う。冷たい感情は「どうせ私は形だけの妻、何をしても虚しいだけ」という諦めを呼び、熱い感情は「こんな仕打ちを受けて黙っていられるわけがない」という悔しさを煽る。だが、その両方を露わにするわけにはいかない。彼女は絶えず、「どうすれば賢く生きられるか」を模索せざるを得ないのだ。
そうして迎えた、結婚から数週間が経ったある日の午後。天気の良い日が続き、敷地内の庭園には花が咲き誇っていた。アイシャは使用人に声をかけ、軽く庭を散策しようと外に出た。きれいに整えられた花壇の前で足を止めると、色とりどりの花々が柔らかな風にそよいでいる。その光景にほんの少しだけ心が和んだとき、ふと足音が近づいてくる気配がした。
振り返ると、そこにいたのはレオン……ではなく、エリザベスの姿だ。豪華なフリルのついたドレスをまとい、帽子を目深にかぶった彼女は、挑発するような視線をまっすぐにアイシャへ向ける。
「ずいぶん優雅ね、公爵夫人。お一人でお散歩かしら? ああ、そうか。レオン様はお忙しいものね。あなたに付き合っている暇なんてないわよ」
嫌味な口調は相変わらずだ。アイシャは今までも何度となく同様の言葉を浴びせられてきたが、この日ばかりはなぜかひどく胸がざわついた。もしかすると、連日の冷遇と不安が限界に近づいていたからかもしれない。
「……ええ、そうですね。わたくしには暇があるのです。あなたのように、夫を独占するほどの魅力も権力も、持ち合わせてはおりませんので」
つい、皮肉混じりの答えを返してしまった。言葉を飲み込もうと思ったが、今日ばかりは抑えきれなかったのだ。
「まあ!」
エリザベスは芝居がかった口調で驚き、「あなた、ようやく本音を吐き出してきたのね」と嘲笑する。
「そうよ。あなたが“公爵夫人”でいるのは、あくまでも形式的なもの。世間体のために置かれた花嫁だって、みんな知ってるわ。レオン様があなたを奥方と呼んでいるのは、お飾りに過ぎない証拠よ」
その言葉を聞き、アイシャは顔が熱くなるのを感じた。それは怒りか、それとも恥辱か。きっと両方だろう。だが、彼女は声を荒らげることをこらえ、瞳を伏せる。
「……ええ、わたくしはお飾りかもしれません。ですが、それをあなたにどうこう言われる筋合いはありませんわ。あなたのほうこそ、“公爵様の愛人”という立場を楽しんでいらっしゃるのでしょう? そこに誇りはないのですか?」
すれすれの挑発を口にしたとき、アイシャ自身が驚いた。こんな反撃をしたのは初めてだったからだ。エリザベスは瞬間的に口をへの字に曲げ、わずかに動揺を見せる。
「まぁ、言うじゃないの。誇り? そんなものより、わたしはレオン様との時間がずっと大切だわ。あなたのように孤独でいるよりは、はるかに満たされる」
そう言い放つと、エリザベスは意味深な笑みを残して立ち去っていく。いや、むしろ勝ち誇ったようにも見える。アイシャはその背中を見送ると、ぐっと拳を握りしめた。庭園に咲き誇る花々が、急に色褪せて見える。それどころか、花の香りすらどこか不快に感じるほど、彼女の心は乱れていた。
公爵夫人としてのプライドがある以上、このままエリザベスの言い分を肯定するわけにはいかない。しかし、現実としてレオンは愛人と共に過ごす時間を好み、自分には目もくれない。周囲の使用人たちは黙認し、社交界でも“夫婦”らしい姿を見せられずにいる。事実を鑑みる限り、エリザベスの言ったことは概ね正しいのだ……そう思うと、アイシャはやり場のない悔しさでいっぱいになる。
心を落ち着けようと庭のベンチに腰を下ろしてみるが、想いはさらに渦巻いていくばかり。愛のない結婚生活、夫の側には別の女性が堂々といる現実。そんな状況で、いつまで「公爵夫人」を演じ続けられるのだろうか。彼女の心の中で「このままではいけない」という思いと、「どうしようもない」という諦念がせめぎ合う。その狭間で、アイシャは深く息をつきながら顔を上げた。
視線の先に広がるのは、完璧に整えられた庭の風景。だが、その完璧さがむしろ自分の心情との対比を際立たせる。大きく刈り込まれた植え込み、幾何学模様を描く花壇、噴水のきらめき……そのすべてが「表向きの美しさ」を象徴しているかのようだった。まるで公爵夫人という立場のアイシャ自身のように。形式は整えられても、そこに温もりや自由は感じられない。
最初は「夫婦なのだから、そのうち心が通い合うかもしれない」とどこかで期待していた。たとえ政略結婚でも、時間をかけて理解し合える未来があるかもしれない、と。だが、現実はそれを許そうとしない。レオンは自分の目的を果たすために妻を迎えただけで、気持ちの通った関係など望んではいない。
そして、何よりも辛いのは、アイシャ自身がその状況を打破する方法を見つけられないことだった。離婚すれば全てが丸く収まるわけではないし、ましてや夫の心を「奪う」などという方法も、彼女には考えられない。思いつくのは「耐え忍ぶ」か「自分を誤魔化し続ける」か、そのどちらか。後戻りできない道を進んでいるという実感が、余計に彼女の心を追い詰めていく。
それでも、表面だけは豪奢な公爵夫人として過ごす日々は続く。まるで高級なガラス細工のように丁重に扱われ、しかし誰も中身には興味を持たない。アイシャは、夜が来れば暗い寝室で一人、そっと涙を零し、朝が来れば完璧な笑顔をまとって人前に立つ。
だが、その笑顔が日に日に脆くなり始めていることに、周囲は気づいているだろうか。おそらく、一部の侍女や侍従などは薄々感づいてはいるだろう。しかし、それを口にする勇気のある者はいない。屋敷を仕切るのはレオンと、彼の愛人に近しい人々。そこではアイシャの心の傷よりも、“アルヴァーノ家の利益を損ねないこと”が最優先なのだ。
こうして始まったアイシャの「冷え切った新婚生活」は、誰もが羨むような格式の陰で、彼女の気力を少しずつ削っていく。にもかかわらず、周囲の貴族たちは「アルヴァーノ公爵とルメート侯爵家の結びつきは万全」と信じて疑わない。政略結婚は、実情がどうあれ「成功した」という結果だけが評価されるのだ。
アイシャは夜毎に自問する。「私の人生は、いつまでこの偽りの舞台で踊り続けるのだろうか」と。もしかしたら、一生を公爵の“飾り”として過ごすかもしれない。愛されず、必要ともされず、ただ“名門の娘”という肩書きを貼り付けられた人形として。
だが、彼女の心の奥底には微かな炎が残っていた。どれほど冷たい風に晒されても、完全に消えてしまうことはない。もし、このまま一生を終えることになるとしても、せめて一度は自らの意志で生き方を選びたい……。その願いは小さな灯火のように揺らめきながら、日々を耐え忍ぶアイシャの胸中で密かに燃え続けている。
こうして、形だけの結婚と愛されない冷たさに囚われながらも、アイシャの物語は確実に動き始めていた。今はまだ、全てが絶望に覆われているかのように見える。だが、彼女がこの先どのように自らの運命を切り開き、冷淡な夫や愛人の存在を超えていくのか——それを語るには、まだ少し時間が必要なのだ。
夜会や社交界の華やかさとは裏腹に、暗い影を落とす新婚生活。その「白い結婚」の真の意味を理解したとき、アイシャは初めて「こんな夫婦関係はもう嫌だ」とはっきりと自覚することになる。心が凍りついたままでは、いつか本当に自分という人間が壊れてしまう。今はまだ、その痛切な叫びを押し殺しているにすぎない。いつか、それがどうしようもなく噴き出すときが来るのかもしれない。
しかし、その瞬間まで、彼女はただ耐え続けるしかない。冷えきった新婚生活は、まだ始まったばかりなのだから——。