アイシャがアルヴァーノ公爵家に嫁いでから、しばらく月日が流れた。相変わらずレオンとの夫婦仲は冷え切ったままであり、屋敷の中では愛人エリザベスの存在感がますます大きくなっている。表向きは「公爵夫人」であるアイシャが家の中心的な役割を担っているように見えても、実際にはエリザベスがレオンの意思を汲み取り、邸内の使用人や取り巻きを巧みに操っている状態だ。
そんな中、エリザベスがある「策略」を実行に移し始めたのは、アイシャが冷え切った結婚生活にわずかながらも疑問や抵抗心を抱き始めたころだった。愛されないまま形だけの妻として過ごし続けることに対する、アイシャの微かな反発——それを見抜いたかのように、エリザベスは動いたのである。
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■エリザベスの狡猾な一手
まずエリザベスは、周囲の人々を味方につけるために「ちょっとした噂話」を広めることから始めた。貴族社会において、噂はときに事実以上の重みを持つ。特に主婦同士、令嬢同士のあいだで囁かれるゴシップはあっという間に宮廷や社交界にまで波及することが珍しくない。
エリザベスの作戦は、あくまでも「自分が積極的にアイシャを悪く言う」のではなく、「口の軽い者たちにそれとなく話を漏らして火種を大きくする」という、遠回しなやり方だった。彼女自身が「公爵夫人を批判している」という形を表立って見せないよう気を配りながら、周囲に「アイシャの評判がよくないらしい」という噂を蒔いて回るのだ。
たとえば、エリザベスは邸内の侍女たちや出入りの業者に対して、こんな風に何気なく囁く。
「最近、公爵様が少しお疲れのご様子で……どうも、奥様との会話がうまくいってないみたいなの。まさか、奥様が公爵様を軽んじているなんてことはないわよねぇ……?」
表面上は心配する素振りを見せながら、言葉の端々に「アイシャが夫を軽視しているのでは?」というイメージを織り込む。実際にはレオンがアイシャを避けているのだが、聞く側は一瞬「あれ、そうなのかもしれない」と感じてしまう。信頼のおける情報源がほかにない以上、人々はいつしか「公爵夫人がレオン様をないがしろにしている」という話を半ば本当だと信じ込むようになる。
さらにエリザベスは、別の場所ではこうも漏らす。
「やっぱり、政略結婚って難しいのよね。奥様も大変でしょうけど……夫婦仲がぎくしゃくしているって話、ちらほら耳にしない? もちろん、あたしは奥様を悪く言うつもりなんてないわ。ただ、公爵様にお仕えしている身としては心配で……」
まるで「自分はあくまで第三者であり、心優しい使用人の立場から気遣っているだけ」という演技をする。だが、エリザベスがその発言をする時点で、聞き手は「公爵の愛人がそう言うなら、本当に夫婦仲は良くないのだろう」と感じてしまう。また、エリザベスの柔らかな口調と振る舞いは、一見すると悪意がないように見えるからこそ、受け手は警戒心を抱きにくい。こうして、彼女の言葉は着実に邸内の下層から貴族界隈へと広まっていく。
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■噂が広がる速度
噂は何よりも足が早い。特に、華やかな貴族社会においては他人のスキャンダルやゴシップは格好の娯楽とされる傾向がある。ある侍女がエリザベスの話を聞き、その侍女がほかの貴族の館に出入りする使用人と雑談を交わし、さらにその使用人が仕える貴婦人へ話を伝える。そこから貴婦人同士の昼下がりのお茶会の話題となり、いつの間にか「アイシャ・アルヴァーノ公爵夫人は夫を見下しているらしいわよ」「貴族の義務もまっとうできないような人なのかしら」といった言葉が飛び交うようになるのだ。
こうした噂は当初こそ小さな火種にすぎなかったが、エリザベスが裏で焚き付け続けることで徐々に拡散し、やがてはアイシャ本人の耳にも届くようになる。しかし、そのときには既に「夫婦仲が悪いのはアイシャが問題だから」「公爵様は優秀なのに、公爵夫人が冷淡に接しているせいだ」という流れがある程度できあがってしまっていた。
アイシャは初めこそ「エリザベスがわざわざこんな回りくどいことをするはずがない」と半信半疑だった。だが、街へ出たときに商人から怪訝な目を向けられたり、かつて社交界で顔を合わせた貴婦人たちが微妙な態度を取るのを目にするにつれ、「何かがおかしい」と確信せざるを得なくなった。そして、侍女長のグレイスや一部の使用人たちが気を利かせて教えてくれたのだ。「エリザベス様が、奥様について好ましくない噂を流しているかもしれません」と。
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■レオンの対応とアイシャの苦悩
もっとも、夫であるレオンはこの状況をどう見ているのか。あるいは、そもそも見ているのか——それをアイシャは知りたかった。だが、レオンは例によってアイシャと会話しようとはしない。朝食の場はもちろん、夜会に向かう馬車の中でも、彼は必要最低限の言葉しか発しない。
意を決して「最近、私たちの夫婦仲について変な噂が流れているようなのだけれど……」と切り出してみても、レオンはむしろ苛立ちをあらわにするばかりだ。
「噂? そんなもの、どこにでもあるだろう。いちいち動揺している暇があったら、貴族らしく振る舞え」
そう言って、レオンはすぐに話を打ち切る。妻として相談したい気持ちを見せたにもかかわらず、彼は取り合おうとしないどころか、アイシャの不安を「下らない」と一蹴する。これでは夫婦としてのコミュニケーションなど成り立つはずもない。
しかも、レオンの態度は外部から見れば「公爵夫人に興味がない」以上の意味を持ち始めていた。すなわち「本当にアイシャが夫を軽んじているのなら、レオンが彼女を避けるのも仕方がない」という筋書きが周囲に受け入れられやすくなってしまうのだ。
実際は真逆で、レオンこそがアイシャを避けているのだが、エリザベスの噂によって大衆心理は「冷たい妻と、それに嫌気がさしている公爵」という図式を信じ込む。こうした悪循環がますますアイシャを追い詰めていった。
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■愛人の本当の目的
そもそも、エリザベスがアイシャを貶める噂を広める狙いは何なのか。単に夫人の地位を奪いたいのであれば、レオンがアイシャを離縁すれば済む話かもしれない。だが、エリザベスにはもっと別の思惑があった。
アイシャを社会的に孤立させ、評判を地に落とすことで「公爵家の名誉に泥を塗る存在」だと世間に思わせる。そして最終的に、アイシャが耐えられなくなって離婚を申し出るか、あるいは実家のルメート家が「こんな娘はいらない」と切り捨てる形を作れば、エリザベスは立場を揺るぎないものにできる。
公爵邸の奥方が、自ら追放されるような形で退く——それこそがエリザベスにとっての“理想の結末”だった。自分は下手を踏まず、あくまでも「かわいそうな公爵様を支える良き愛人」でいながら、夫人を外へ追い出す。何という周到さだろう。エリザベスは、アイシャがプライドや家柄を気にする性格だということを見越して、その急所を突いているのだ。
実際、政略結婚の失敗という烙印が押されれば、アイシャは再びまともな縁談を得るのが難しくなる。貴族社会では「一度崩れた家同士の結びつき」に対して厳しい眼が向けられるからだ。ルメート侯爵家の両親も「娘が離婚した」という事実に耐えられず、彼女を冷遇する恐れが高い。そうなればアイシャには帰る場所すらなくなるかもしれない。
エリザベスは、それをわかっていて笑みを湛えている。「白い結婚」に閉じ込められたアイシャをじわじわと追い詰め、社会的にも精神的にも逃げ場をなくさせる。この策略がうまくいけば、自分こそが公爵家で一番の女性として振る舞える——エリザベスにとっては、これほど痛快なシナリオはないのだ。
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■アイシャを襲う疑惑と孤立
こうした策略の結果、アイシャの評判は徐々に悪化していった。「冷たく高慢な公爵夫人」「夫である公爵を見下している」「家柄の自尊心だけが取り柄」……。そんな根拠の薄い噂が広まるなかで、アイシャは外出する際も、以前のように商人から丁寧に対応されることが減り、貴族たちの集いに赴けば、以前は笑顔で挨拶してくれていた令嬢や夫人たちが遠巻きにささやくのを感じる。
中には露骨に嫌味を言う者も出てきた。
「まあ、公爵夫人。お顔色が優れないようですわね。ご主人様にでも叱られたのかしら?」
「そういえば、最近は社交の場であまりご一緒しませんわね。ご主人様はお忙しいのか、それとも……」
話の最後をわざと濁すことで、「夫婦仲に問題がある」という印象を強めようとする意図は明らかだった。アイシャは毅然とした態度を取ろうと思うものの、内心の動揺を隠し切れず、口数が減ってしまう。そうした様子を見て、彼女を取り巻く空気がいっそう険悪になる悪循環が生まれていく。
邸内でも同様だ。アイシャが侍女たちに指示を出そうとしても、彼女たちはどこか冷淡な雰囲気を漂わせる。もともとエリザベス寄りの人間も多かったが、噂が広がるにつれて「奥様にはあまり関わらないほうがいい」と敬遠する使用人が増えていったのだ。
このような孤立無援の状況は、アイシャの精神を容赦なく削っていく。エリザベスからの直接的な言葉の刃はなくとも、周囲の視線や態度によって「あなたは公爵夫人にふさわしくない」という無言の圧力を受け続けるのだから。そして、夫であるレオンに訴えても、聞き入れられるどころか「くだらん」と撥ねつけられるだけ。実家のルメート家に相談しようにも、離婚につながるような事態を公にすれば、両親からは「なぜもう少しうまくやれないのか」と責められるのが目に見えていた。
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■小さな支えと、一層際立つ孤独
そんな中でも、アイシャに同情や協力の手を差し伸べようとしてくれる人々が皆無というわけではない。侍女長のグレイスや、昔からルメート家と縁のある年配の老執事などは、主人の意向に逆らえるほどの権力はないながらも、密かにアイシャを気遣ってくれる。
「奥様、あまりお気を落とさず……。真実は必ずどこかで見ている人がいるはずです」
そう優しい言葉をかけられると、アイシャも一瞬だけ安堵の表情を見せる。しかし、それもまた、一瞬の救いに過ぎない。実際に噂を止めることはおろか、エリザベスの策略を正面から崩すこともできないのだから。
ある夜、アイシャはいつものように一人で広い寝室にこもり、窓辺に腰を下ろしてぼんやりと外を見つめていた。月明かりに照らされた庭園が物静かな美しさを湛えている一方で、自分の心は重苦しい闇に沈んでいるように感じる。父母や実家のこと、エリザベスが流している噂、社交界の冷たい視線、そして何よりもレオンとの空虚な関係——それらが頭の中でぐるぐると渦巻き、眠気など微塵も起こらない。
「何のために、私はここで公爵夫人を続けているんだろう……」
そんな疑問が、つい零れ落ちる。もちろん、政略結婚による義務や家名の問題が大きいのはわかっている。だが、このままでは心が壊れてしまう……。自分でもどうしようもなく不安定になっていくのを実感しながら、アイシャはぎゅっと目を閉じた。涙が、今夜も枕を濡らす。
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■エリザベスのさらなる介入
翌日、アイシャはさほど気が進まないままに、久々の昼下がりの茶会へと出かけることにした。噂によって不信感を向けられていることは百も承知だが、こうした社交の場を欠席し続ければ「やはり夫婦仲がうまくいっていない証拠」だとますます憶測が広まるに違いない。自らの潔白を証明する場も作れないまま、さらに孤立を深めるわけにはいかなかった。
ところが、その茶会の場にエリザベスが姿を現したのである。本来、愛人である彼女がこうした貴婦人の集いに堂々と参加するのは異例と言っていい。しかし、最近のエリザベスは社交界の一部から「公爵を支える大切な人」と評価され始めており、表立って出席しても誰も咎めなくなっていた。それどころか、面白がる人々すらいる。「本妻と愛人が同じテーブルにつくなんて、どんな光景かしら」と興味本位で見る連中だ。
案の定、茶会が始まると、会話の中でエリザベスはさりげなく「公爵夫妻の仲」に触れる話題をほのめかす。具体的な名前は出さず、あくまで例示という形を取る。
「最近、あるご夫婦の話を耳にしたの。ご主人様は優秀な方なのだけど、どうも奥方に冷たくされているみたいでね……。周りの者たちはすごく心配しているのよ。ああいう素敵な男性を粗末に扱うなんて、信じられないわよねぇ」
それに呼応するかのように、既に噂を半ば信じている貴婦人たちが相槌を打つ。
「まぁ、本当ですの? ひどいお話……。どんなに素晴らしいご主人様でも、奥方が気難しければ台無しですわね」
「ええ、周囲の人たちもさぞ大変でしょうねぇ」
誰もが「それが誰のことか」察しているのに、名前を出さないまま話が進んでいく。その場で否定すれば「図星だ」と思われるし、黙っていれば「やはり」と受け取られる。この状況にアイシャは居ても立っても居られないが、下手に声を上げては自分の品位を疑われかねず、ただ唇を結んで座るしかない。内心で煮えたぎるような怒りを感じながらも、それを表に出せないもどかしさに苛まれる。
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■評判の悪化と、絶望への序章
こうしたエリザベスの遠回しな攻撃により、アイシャに対する周囲の風当たりはますます強くなっていった。茶会から帰る頃には、アイシャが一人で馬車に乗り込む姿を見て、貴婦人たちが「やっぱり高慢なのかしら」「ご夫君に迎えに来てもらえないなんて、いかがなものかしら」と噂する声が聞こえる。実際にはレオンがそもそもアイシャを伴う気すらないのだが、今の流れでは全てが「アイシャの落ち度」になってしまう。
公爵夫人として誇り高く生きたいというアイシャの気概は、周囲の無理解の前に空しくかき消されつつある。噂を否定しようにも証拠がない。夫が庇ってくれることもなく、実家に助けを求めれば「情けない」と叱責されるだけだろう……。追い詰められた心は静かに軋みを上げ始めていた。
こうして、エリザベスが仕掛ける噂は着実にアイシャの孤立と評判の悪化を招いていた。あたかも罠にはまるかのように、アイシャは抜け道を見つけられずにいる。これこそが、エリザベスの策略の真骨頂だ。派手に暴露するのではなく、じわじわと精神を削っていく。ある日、アイシャが耐えきれずに衝動的に何かをしでかせば、周囲は「やはりこの人は問題のある夫人だったのだ」と一斉に嘲笑するだろう。
その未来を思い描いたエリザベスは、ある夜、レオンの部屋で密やかに微笑んでいた。公爵であるレオンは「自分が賢い選択をしている」と信じて疑わないが、実のところ彼は策略に長けた愛人にうまく利用されているにすぎない。愛人という形であれば、社会的責任は妻のアイシャに残り、エリザベス自身は被害者を装えるからだ。
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■アイシャの内なる気づき
しかし、エリザベスが思いも寄らない展開がひとつだけあった。それは、噂によって追い詰められるほど、アイシャが「このままでは駄目だ」という意志を強めていったことである。もちろん、彼女はまだ具体的な行動には踏み切れていない。夫も、実家も、そして社会も、どれもが敵に回るリスクを考えると、容易に一歩を踏み出せる状況ではないからだ。
だが、あれほど自分を納得させようとしてきた「仕方のない結婚」「政略結婚だから耐えるしかない」という思考が少しずつ崩れ始めている。かつては、「愛されなくても、少なくとも家同士の安定のために生きるのが貴族としての務め」と自分に言い聞かせていた。だが今は、「このまま夫に見捨てられ、愛人に地位を奪われ、実家にも頼れなくなる」という未来が目の前に見えている。
その漠然とした恐怖が、アイシャに「もう、黙っていてはいけない」と訴え始めたのだ。具体的な手段はわからない。だが、自分を守らなければ誰も守ってはくれない——そんな当たり前のことに、今さらながら気づかされている。そして、その気づきこそがエリザベスの想定外だった。彼女はアイシャが最後まで弱いまま、萎縮したままでいると踏んでいたからだ。
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■次なる展開への伏線
こうして、エリザベスによる噂の策略は着実にアイシャを孤立させ、追いつめると同時に、彼女の中に僅かながらも「自分の人生を取り戻すべきではないか」という火を灯す結果を生んだ。まだ小さく、不安定な炎に過ぎないが、それでもこれまで押し殺されてきたアイシャの意志が息を吹き返そうとしている。
この先、アイシャは噂に翻弄され続けるか、それとも自らの意志で局面を打開していくのか。どちらに転ぶかはまだわからない。ただ、このまま「白い結婚」に甘んじていては、彼女の未来に光は見えないだろう。
エリザベスの策略はまだ序章に過ぎない。さらなる罠が待ち受けていることを、アイシャ自身は知らない。だが、噂が燃え広がる中で、「夫婦仲が悪いのは公爵夫人の責任」という風潮が定着していくほどに、彼女の心にはかすかな覚悟が生まれていた。それは「いつまでも被害者でいるわけにはいかない」という、切実な思いだった。
愛人の卑劣な策略に揺さぶられながらも、アイシャは今後どう動くのか。貴族社会の冷たい視線が降り注ぐなかで、彼女は自らの尊厳を守るための一歩を踏み出せるのだろうか——。この激動の物語は、まだ始まったばかりである。アイシャの苦悩は深まり続けるが、その苦悩こそが、彼女を次なる運命へと導く小さな種火となり、やがて大きく燃え上がる瞬間が来るのかもしれない。そして、そのときこそが、真の「ざまぁ」を見せるための転機になるのだ。