かつて「白い結婚」と呼ばれる冷え切った政略結婚の中で、自分の意志さえ失いかけていたアイシャが、離婚を通じて自由を取り戻してから幾ばくかの時が過ぎた。侯爵家での日々を基盤に、貴族としての責任も果たしながら、自分自身の人生を積極的に切り拓く彼女の姿は、やがて貴族社会全体の注目を集めるようになる。以前は「夫を軽んじる女」「大したことのない飾りの夫人」などと悪評されていたアイシャだったが、今ではほとんどの人がその印象を覆されつつあった。
きっかけは、彼女が実家であるルメート侯爵家に戻ったあと、領地経営や地方との取引促進に力を入れ始めたことだった。政略結婚による体裁づくりとは無縁の“実践的”な仕事に、自分で足を運び、商人や領民と対等に話し合い、改革を提案する姿は、保守的な貴族たちにとっては少なからず衝撃的だったのである。もちろん、アイシャの両親や周囲には「離婚した娘がでしゃばりすぎではないか」と眉をひそめる者もいたが、アイシャはそんな声にひるむことなく、自らの方針を貫いていった。
さらに、王宮騎士エドガーとの“新しい関係”もまた、周囲の興味を引いた。幼なじみであり、公爵家の陰謀を暴く際に大きな助力をしてくれた騎士――当初は「離婚歴のある娘が、そんな男を囲い込んでいる」「騎士のほうも狙っているのだろうか」などと好奇や下世話な憶測が飛び交った。しかし実際のところ、アイシャとエドガーは互いを尊重し合い、必要とあらば協力し合う穏やかな間柄を続けており、噂好きの貴婦人たちは拍子抜けさせられた形となった。
王宮でも「アイシャは、もうただの“元公爵夫人”ではない」と認識されはじめている。騎士団関係者や官吏たちのあいだで、彼女が領地改革を地道に進め、その成果を国にも還元しているという話が広まったからだ。たとえ過去に離婚歴があろうと、公や周囲に貢献する人物は評価される――それが新時代の兆しでもあった。
こうして、貴族社会で再び注目を集めることになったアイシャだが、今度は彼女が受けるのは単なる興味本位や悪意ある批判ではなく、「あの困難を乗り越え、なおかつ堂々と生きている女性」「荒波を潜り抜けた、誇り高き侯爵令嬢」としての評価だった。一部の古い慣習を重んじる貴族が「離婚後に堂々と振る舞うなどけしからん」と陰口を叩くことは依然あるものの、逆に「かつての夫が招いたスキャンダルを跳ね返した実力者」として、ある種の尊敬の念を寄せられるケースも増えている。
なぜ、彼女がそこまで高い評価を得られるようになったのか――その理由のひとつには、離婚後も諦めることなく、粘り強く仕事や人間関係に取り組んだアイシャの姿勢がある。公爵夫人という地位を捨ててさえ、自分の足で立ち上がり、新たな道を探し続ける女性の姿は、“人は生まれた家柄に囚われなくても生きていけるのでは”という希望を、同世代の貴族令嬢たちに与えるからだ。実際、アイシャに興味を抱いた若い女性貴族が「わたしにも何かできることはないか」と相談に来ることもある。
そういう若い令嬢たちを前に、アイシャは穏やかな微笑とともに言葉をかける。
「わたしは特別に強い人間じゃないわ。ただ、自分の人生を誰かに奪われるくらいなら、少しでも自分で決めたいと思っただけ。……もちろん、貴族の義務も大切にしているし、王宮や家の意向を無視しているつもりはないわ。でも、だからといってすべてを従うだけでは、あなた自身の心が壊れてしまうかもしれない。自分がどうなりたいか、何が好きか――そういうことを、まずは見失わないようにしてほしいの」
その誠実な助言に、彼女たちは敬意と憧れを抱くようになる。「離婚歴があるのに――」「かつて夫の愛人に追い詰められていたのに――」といった偏見は、アイシャの真摯な人柄と実際の行動力によって次第に薄れていった。そして、「誇り高き生き方」を見せる彼女を支持する声が、少しずつ王都の各所で挙がり始める。
官吏の中には、「ルメート侯爵令嬢は、より大きな役職を与えれば国政にも貢献してくれるのではないか」と注目する者すらいる。もちろん、それを実現するには彼女自身の意思と、更なる努力が必要だが、以前のように“冷たい結婚の陰に隠れて”孤立することはもうない。公爵家のスキャンダルを晴らした実績と、エドガーをはじめ周囲との良好な関係が、アイシャを背後から支えてくれている。
それに伴って、アイシャとエドガーの存在感も一段と増してきた。もともと誠実で実力のある騎士として評判だったエドガーが、離婚後のアイシャと親密であるという事実を、今や誰も否定的に見なくなっている。むしろ「あの白い結婚から抜け出したアイシャの心を支え続けたのがエドガーだ」と知られるにつれ、「二人は理想的なカップル」として好意的に受け止める風潮まで生まれつつあった。形式的な縁組ではなく、互いに助け合いながら立ち位置を確立していく姿が、保守的な貴族社会には新鮮に映るのだ。
ある夕暮れ、アイシャは王都近くの集会所で開かれる“領地改革”に関する討論会に招かれた。若手貴族や商人、騎士団関係者が集まり、未来の国づくりや地方自治について議論する小規模な会合だ。彼女は離婚したことにより公的立場が曖昧になっているが、実家の侯爵家を後ろ盾に、現場を回ってきた経験談を披露するために呼ばれたのである。
会合でアイシャが発表を終えると、会場からは素直な賞賛や共感の拍手が沸き起こる。中には「あなたがあの難題を解決したのか?」と驚く者や、「噂はやはり本当だったのですね」と興味津々に尋ねる者もいた。離婚の辛い過去を笑い話にするつもりはないが、アイシャは胸を張って「白い結婚を経験してこそ学んだことがあるんです」と話し始める。
「わたしは元々、貴族の娘として生まれ、政略結婚による体裁を守るために育てられました。でも、それでは本当に人間らしく生きることはできないと身をもって知りました。……もちろん、貴族としての誇りは大切です。でも、それを振りかざして他人や自分の人生を犠牲にするのは、もはや時代遅れではないかと思うんです。愛されない結婚の檻から抜け出し、自分の足で立つ決断をしたからこそ、わたしは今こうして皆さんと意見を交わせる。――貴族としての肩書きだけを誇るより、“自分の誇り”を大事に生きるほうが、ずっと意味があると実感しました」
その言葉は、自信に満ちていながら押し付けがましくはない。不幸な結婚に苦しみ、その末に離婚を選んだ女性だからこそ紡げる言葉である。自然と、会場の人々は深く頷きながらアイシャの話に耳を傾ける。中には遠巻きに「離婚なんて大事を……」と批判する貴族もいるが、実際に彼女の言葉を聞くと、批判の声も小さくなってしまう。
討論会が終わり、帰り際にアイシャが外へ出ると、そこにはエドガーが待ち受けていた。彼もまた別件の用事で同じ集会所を訪れていたのだ。落ち着いた笑みを浮かべるエドガーに、「うまく話せたわけではないと思うけど、なんとか無事に終わったわ」とアイシャが言うと、彼は少し茶化すように冗談めかして返す。
「いやいや、君の言葉はとても力強かった。普段はお茶会で微笑むだけの“貴族令嬢”だって思っている人たちも、あれで一気に意識を変えられたんじゃないかな。……話を聞いた何人かが『アイシャ様の活動を手伝いたい』と言ってたよ」
その報告にアイシャは目を丸くする。自分にはまだまだ至らないところが多いと感じていたが、どうやら周囲の評価は予想以上に高まっているらしい。離婚というスキャンダルを乗り越え、なおかつ堂々と意見を発信する彼女を“誇り高い女性”と評する声も増えてきたのである。
そんな近況を語り合いながら、二人は夜の王都を並んで歩く。かつてアイシャが公爵夫人だった頃、夫のレオンとこんな風に肩を並べて歩いたことは一度もなかった。社交界で同席はしても、あくまで形式的に腕を組むだけで、会話らしい会話もなかったのだ。けれど今、エドガーとの間では自然な気遣いと対等な関係が築かれており、共に夜道を歩く時間がこれほど穏やかだなんて、彼女には驚きと喜びでいっぱいになる。
星が瞬く夜空を見上げながら、アイシャはエドガーに小さな声で言う。
「こうして一緒に歩いていても、だれにも後ろ指を差されないんだなって思うと、不思議な気持ちがするわ。昔のわたしは、夫の顔色をうかがってばかりで、自由に夜道を散歩するなんて想像もできなかった。……いまは、貴族としての義務はあるけれど、それをわたしなりに活かそうとしている。誇りを捨てないで、新しい生き方を見つけられたのかもしれない」
エドガーは微笑んで、「そうだね」と頷く。
「アイシャは“自分の誇り”を手放していないよ。むしろ、昔よりもずっと強く、気高い在り方を見せている。誰かに押し付けられた体裁じゃなくて、自分の内から生まれる尊厳――それを君は体現しているんだと思う。だからこそ、周りの人も魅了されるんじゃないかな」
その言葉に、アイシャは少し恥ずかしそうに笑うが、胸の奥には確かな嬉しさが広がっている。何も彼女は、離婚を肯定して欲しいわけではなく、やむを得ず苦しんだ末に下した選択を理解してくれる存在がいるということが、どれだけ心を軽くするか――そこに救われる思いがある。そして、その上で「今は堂々と前を向いている」と評価してくれる人がいるなら、ますます一歩ずつ進めるだろう。
こうして貴族社会で評価を得ているアイシャだが、その中心には飾り立てるような華やかさではなく、地に足のついた行動力と、“誇り高き生き方”がある。形式に縛られず、“白い結婚”の悲劇さえ力に変えた強さが、古くからのしきたりを重んじる人々の目にすら新鮮に映るのだ。
そして、それを支えるのがエドガーとの“穏やかな日常”である。夜空の星が見下ろす下、二人は互いの仕事や志を尊重し合い、無理なく寄り添い合う。将来をどうするかは、まだ漠然としている部分もあるが、焦りはまったく感じられない。むしろ、こうして一緒に歩きながら何気なく会話をするだけで、身体の芯が温かくなるような安らぎがある。
やがて、王都の大通りを抜けて少し暗がりの道に差しかかる。エドガーは「送っていこう」と申し出るが、アイシャは「大丈夫よ、馬車を呼んでいるから」と微笑んで断る。すると彼は、別れ際に少し照れくさそうな表情を浮かべながら、「じゃあ、今夜はここで失礼するよ」と一歩下がる。
「また何かあれば、いつでも呼んでくれ。俺も、すぐに駆けつけるから」
それは恋人同士の約束というより、“人生のパートナー”という言葉が似合う、静かな誓いのようにも感じられた。アイシャも「ありがとう、エドガー。いまのわたしがあるのは、あなたのおかげだと思ってるわ」と言葉を返す。恋や愛という甘い感情を通り越して、“互いの存在そのもの”を認め合う関係――それこそが、今の二人の姿だった。
馬車に乗り込み、窓から見える夜空に視線を移したアイシャは、小さく息を吐く。星々が煌めき、まるで「あなたの選んだ道は間違っていない」と伝えてくれているかのようだ。かつての自分なら、離婚という事態で気落ちし、再起不能になっていたかもしれない。だが今はどうだろう。貴族社会の厳しい視線を軽やかにかわしながら、しかし同時に“自分の仕事”と“自分の意志”を曲げずに堂々と振る舞えている。
“誇り高き生き方”とは、誰かを見下すことではなく、むしろ自分を見失わないこと――アイシャはそう理解していた。だからこそ、周りが何と言おうと、彼女はもう怯える必要はない。あの“白い結婚”をくぐり抜けたことで得た痛みが、逆にアイシャを強くしてくれたのだ。
馬車が揺れながら、侯爵家の屋敷へ向かっていく。夜空は深く、星々の光が窓の向こうで揺らめいている。アイシャは心の中でそっと呟く。「わたしはもう弱くない。エドガーと歩む未来がある。いずれその結末がどうあれ、わたしはわたしの誇りを忘れない」と。
そして、“白い結婚”の檻に閉じ込められていた頃とは比べものにならないほど、胸が高揚している自分に気づく。これまでは飾りの夫人として孤独に耐えるだけだったが、今は誰の指図でもなく、自分の意志で人生を選べる。かつては見えなかった星空の美しさが、今ははっきりと見える――それこそが、彼女の真の自由を示しているように思えた。
こうして、星空の下でエドガーとの穏やかな日常を築きながら、貴族社会で高まる評価に見合うだけの行動を重ね、アイシャは堂々と“誇り高き生き方”を示し続ける。周囲にはまだ心ない発言をする者もいるが、それ以上に「自分の人生を自分で形づくった女性」として、彼女を尊敬し、応援する声が広まっている。
物語はここで一区切りを迎えるが、彼女とエドガーの未来は、まさにこれからが本番だ。いつか、さらに大きな困難が訪れるかもしれない。だが、もう二人は後戻りしないだろう。共に星空を見上げながら、「君がいれば大丈夫」「あなたとなら乗り越えられる」と信じ合える関係を育んでいる。その“新しい愛”と“自由”こそが、かつての冷たく白い結婚がもたらした呪縛を完全に打ち破る鍵となっているのだ。
そして、星空の下でアイシャはそっと瞳を閉じる。あの頃の辛い日々は、もう遠い記憶に変わりつつある。あんなにも悲しみに沈んでいた夜ですら、今この瞬間の美しい星空を予感することはできなかった。だが今は違う。彼女の瞳に映るのは、きらめく未来と、寄り添うエドガーの笑顔。希望に満ちたエンディングを迎えた、とはいえ、それは物語の終幕ではなく、さらなる始まりでもある。愛と誇りを手にしたアイシャが進む道は、きっと星降る夜空のように、果てしない光を帯びて輝き続けるのだから。
かくして、これまでの苦しみを乗り越えたアイシャの物語は、星々の祝福を受けて穏やかな日常の中へと溶け込んでいく。古い慣習にしがみつかず、しかし生まれ持った貴族の誇りは忘れない。支え合えるパートナーを得て、共に歩む幸せを知った彼女は、もはや怯むことなく、己の尊厳を守り抜いていくことだろう。星空の下、エドガーと過ごすひとときは、どんな権威にも代えがたい真の安らぎをもたらしてくれる。苦しんだ過去があるからこそ、二人の愛はより強く、深く結ばれていく。
そうして、いつの日かまた星空を見上げるとき、アイシャは確信するだろう――「あの頃のわたしが、誰にも頼れず孤独に泣いていたのは遠い昔のこと。いまは誇り高く、そして何より自分らしく生きている」と。そこには、かつての“白い結婚”にはなかった暖かさと充実感、そして限りない未来への希望が満ちあふれているのである。