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第9話 男の心を掴むには

私は言われるがまま、再び彼の車に乗り込んだ。


車内は非常にきれいで、まるでついさっき洗車されたばかりのようだった。私には、どこに手足を置けばいいのか分からず、少し居心地が悪かった。



「東池駅までに送って頂けないでしょうか。」


私は頼んだ。



かつて住んでいた家は、東池駅近くの古びた平屋だった。そこは少し外れた場所にあり、家も古かったけど、結婚する前の私にはそれが唯一の「家」だった。


――悠人は私に「君を二度と辛い目に遭わせない」と言っていた。


でも、実際には「辛い目」なんてレベルじゃない。彼が私に与えたのは、計り知れない屈辱だった。




車内では、桐生宗介は黙ってタバコを吸っている。私は無言でスマホをいじりながら、頭の中がぐちゃぐちゃに乱れている。




その時、スマホの画面にひときわ目立つアイコンが現れる。盗聴器アプリだ。私は手が止まり、胸の中で怒りと悔しさが渦巻く。




気づくと、私は無意識にアプリを開いていた。そして、その瞬間、イヤホンを差し忘れたことに気づく。




アプリから流れる甘い声。車内に響き渡るその声に、私は動けなくなった――。

「……なんだこれ?」

女性の甘い声が響き、男の息が荒く聞こえる。

たった数時間前に会ったばかりの桐生宗介の隣で、こんな音声をスマホから流してしまうなんて、これ以上気まずい状況が他にあるだろうか。

今すぐにでもスマホを投げ出したい気持ちだ。


反射的に彼の顔色をうかがうと、桐生宗介はちらりと私のスマホを一瞥しただけで、事情を察したらしい。唇の端をわずかに上げ、煙草を深く吸い込むと、それ以上何も言わずに無表情を貫いていた。


……こういう時、何をどうすればいいんだろう?すぐに音声を止めると、逆に「何か」隠しているように見えてしまう気がする。それに、どうせもう聞かれているのだ。ここは開き直るしかない――。


そう思いながらぎこちなく笑みを作ったけれど、多分その笑顔は泣き顔よりひどかったに違いない。


「……私、結婚して二年経つけど、今日になって初めて、夫がどんな人間か分かった気がします。私の子を堕ろしたその直後、他の女とこんなことをしているなんて…――」

言葉が詰まり、悔しさで声が震えた。


桐生宗介は冷ややかに鼻で笑うと、タバコを灰皿に投げ捨てた。

「そいつ、男の風上にも置けないな。責任感のある男はそんな真似しない。そいつはただのクズだ。」

真実を淡々と語るその声に、私は何も言い返せなかった。

悠人は本当にクズだ。

人間の皮を被った最低な奴――でも、そんな男を私はかつて愛していた。手を繋いで一緒に年を重ねる未来を信じていた自分が、本当に馬鹿みたいだ。


「そういえば、洋子(私の名前)もこんなことするの?」

突然、スマホから私の名前が聞こえた瞬間、体中の血が逆流するような感覚に襲われた。


……「こんなこと」って、どういう意味?


声の主は女だ。彼女の吐息はさらに熱っぽく、男――悠人の声も楽しげに響いている。


「アイツなんて、ベッドの上じゃただの死んだ魚みたいなもんだよ。全然感じない。でもお前は違う、最高だ。もうお前なしじゃ生きていけない……」


生きていけない?――ふざけるな。


浮気相手の前で私を貶めるだけじゃなく、こんな嘲笑を乗せた台詞を口にするなんて。裏切りに流産、そしてこれだ。どうやったらここまで人を傷つけられるんだろう。

気がつくと私は震える手でアプリを閉じ、ようやく車内が静けさを取り戻した。


昔から「男の心を掴むには胃袋を掴め」なんて言われてきたけれど、現実は違うらしい。いくら美味しい料理を作っても、胃袋じゃダメなんだ。男を掴むには、下半身を掴まないといけない……なんて、そんなの馬鹿げてる。


古びた寺に差し掛かると、私は桐生宗介に車を止めてもらった。お守りを買い、それを彼に渡した。


桐生宗介は困惑した表情を浮かべ、お守りをじっと見つめた。そして、私を見つめ返し、問いかけるような視線を送ってきた。


「あの……私、小さい頃に母から聞いたことがあるんです。流産した女性は他人の家や物に触れるのは良くないっていう風習があるって。特に運転手は気をつけなきゃいけないんです。だから、お守りを…」



そこまで話すと、父のことを思い出して言葉が詰まった。

「……私の父、昔、交通事故で亡くなったんです。」


桐生宗介はしばらく沈黙した後、ふっと微笑んだ。

「俺はそういうのは信じないけどな。」

「じゃあ……何を信じるんですか?」


反射的にそう聞くと、彼は静かにこう言った。

「自分だ。」


その一言に、私は思わず彼を見つめてしまった。なんだろう、この人……。桐生宗介の落ち着いた雰囲気と、確固たる自信が滲む声に引き込まれそうになる。


「って、家はどこだ?」

不意に彼が問いかけてきて、目が合った瞬間、私は慌てて視線を逸らした。


「あ、あそこ……あの路地の先です。」


車が止まり、私はお礼を伝えた後、ついでに「車代も合わせて請求してください」と申し出た。すると宗介は、まるで私が面白いことを言ったかのように微笑み、言った。


「俺も一応商人だけど、目先の金にだけ執着してるわけじゃない。泣いてる女を放っておける男なんて、男じゃねぇだろ?」


彼の言葉に心を打たれた。

悠人とは正反対の、責任感のある男性――そんな彼に、少しだけ心が揺れた気がした。


……ただ、それはきっと無意味だ。どうせ私は、まともな男とは縁がない。過去の求婚者たちを無視してまで、どうして悠人なんかを選んだのか、未だに自分でも分からない。


宗介の車が去るのを見届けた後、私は一人で路地を進んだ。月明かりに照らされた古びた石畳と、壁に残る時の痕跡――ここは、私が何度も歩いた道だ。


家の扉を開けると、懐かしさと哀しさが一気に押し寄せてきた。父の遺影を見た瞬間、こらえていた涙が一気に溢れ出した。


しばらく住んでいなかった場所は、どこもかしこも埃だらけだった。けど、正直なところ、もう力が残ってなくて、簡単に片付けただけでそのままベッドに倒れ込んだ。

携帯を充電しながら、なんとなく画面をスクロールしていると、カモメのアイコンがピカピカ光っているのが目に入った。

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