私は目の前のボウルに卵を割り入れ、箸でかき混ぜていた。手の動きは淡々としていたが、内心は桐生宗介の一言で大きく乱されていた。
それと同時に、少し胸が締めつけられるような寂しさも感じていた。
――この人の家には、女性がいないのだろうか?
そんな質問を口に出すことはできなかった。
桐生宗介はキッチンから離れようともせず、ずっと背後にその存在を感じていた。
視線が背中に刺さるようで、どうにも落ち着かない。
「その服、似合ってるな」
突然の言葉にドキッとする。
言われて、自分が着ているベージュのワンピースに目をやった。だが、そのまま考えなしに言葉を返してしまった。
「これ、彼女の服だよね?怒られたりしない?」
しまった――そう思ったときにはもう遅い。返す言葉を飲み込めばよかったのに。
桐生宗介は答えない。私も振り返らずに沈黙を続けると、空気が一瞬にして張り詰めたように感じた。頭の中はごちゃごちゃで、彼がどんな表情を浮かべているのか全く想像がつかなかった。
「俺に彼女がいるって誰が言った?」
そう言いながら、少し笑ったような声を漏らす。
その瞬間、胸の中に小さな喜びが芽生えたのを自覚してしまった。
彼女がいないなら、この服は一体どこから――
それ以上は聞けなかった。キッチンの空気には、甘酸っぱいような微妙な雰囲気が漂っていた。顔が熱くなるのを抑えられない。
いつの間にか桐生宗介は消えていた。私が作った朝食を持ってリビングに向かうと、彼がテーブルに座り、スマホを見ていた。
麺をテーブルに置くと、彼は茶葉が浮かんだガラスのコップを私の方へ押し出した。
「二日酔いにはこれが効く。頭痛が和らぐぞ」
確かに、頭はガンガン痛む。私はコップを受け取り、「ありがとう」と礼を言った。温かいコップを両手で包むと、その温もりが手のひらからじんわりと心まで届いてきた。
――桐生宗介って、どんな人なんだろう?
この人は千年物の古酒みたいに刺激的なのに、細やかで繊細な部分もある。気さくそうに見えて、時折冷たく人を寄せつけない雰囲気を持つ。友達が多そうに見えて、その実、どこか孤独な影を感じさせる。
彼はスマホを置き、椅子にもたれかかりながら、低く穏やかな声で言った。
「女性は自分を大事にしろよ。知らない男の前で酔いつぶれるなんて絶対するな。世の中の男が全員、紳士とは限らないからな」
その言葉に少しムッとして、言い返したくなった。
「だって、あなたが誠意を見せろって言ったんじゃない?要するに、あなたが飲ませたってことでしょ」
彼は喉の奥でククッと笑い声を漏らした。
「既婚なのに少女みたいに純粋だな。俺が勧めたら素直に飲むのか?お前、ちょっと抜けてるんじゃないか?」
「……」
返す言葉が見つからない。
――確かに、ちょっとバカかもしれない。
「つまり、昨日は私に人生の教訓を叩き込んでくれたってわけ?」
桐生宗介は目の前の二日酔い茶を手に取り、茶葉を軽く揺らすようにして眺めていた。
「洋子、物事は表面だけじゃ分からない。この世には、表面通りじゃないことが山ほどある。」
彼の言葉には、何か深い意味が込められているようだった。
正直、桐生宗介自身も表面的には見えない何かを抱えているような気がする。この広く豪華な別荘、高級車――普通の仕事をしているとは思えない。
その後、二人で黙々と麺を食べる。桐生宗介が何気なく「お前、料理の腕がいいな」と褒めたとき、私は少し感慨深くなった。
――昔、悠人の胃袋を掴もうと必死で料理を勉強したけど、一度だって褒められたことなんてなかったな。彼の胃袋も心も掴むことはできなかった。
「俺がしないことが二つある。一つは火事場泥棒。もう一つは弱みに付け込むことだ。ただ、俺は恩と恨みはきっちり分けるタイプだ。敵には絶対容赦しない」
桐生宗介がふと漏らすように言った。
たぶん、昨日の私が悠人に情けをかけたことを暗に指摘しているのだろう。
その瞬間、一億円のことを思い出し、聞こうとしたその時――スマホが鳴った。
電話を終えた私は、血の気が引き、手の中のスマホが滑り落ちた。
桐生宗介はすぐに私を病院まで送ってくれ、エレベーターの中にも一緒に乗り込んだ。
自分の顔色が相当悪かったのだろう。彼が突然私の顔を両手で包み、優しく励ますように見つめてきた。
エレベーターが止まると、私は病室へ向かって走り出し、数歩手前でピタリと足を止めた。
足が前に進まない――そんな私の手を、桐生宗介がそっと握り、病室の中へと導いてくれた。
普段なら、病室に入れば母が目を閉じたままでもそこにいることが分かったし、いつか目を覚ますと信じていた。
だが、今――母の体は白い布に覆われ、その薄い布が私たちを二つの世界に分けていた。
「洋子さん、お母様の脳腫瘍が悪化したことはご存知だと思います。昨晩、緊急手術を行いましたが、残念でした」
主治医の言葉に、私は怒りを込めて言い返した。
「手術なんて、誰が許可したんですか?家族の同意なしに勝手に――」
「私が許可した」
聞き慣れた声が、病室の入口から響いた。