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第26話 シートベルト

「何様のつもり?」

私は声を絞り出しながら、扉の前に立つ悠人を睨みつけた。


「俺は彼女の娘婿だからさ。」

悠人は白衣のポケットに手を突っ込み、驚くほど冷静にそう言った。


――娘婿?は?何言ってるの?

突然の宣言に頭が混乱する中、気づけば私は乾いた笑いを漏らしていた。


「私を馬鹿にしてるの?手術の同意書なんて、直系の家族しかサインできないはずよ!」

怒りに任せて叫ぶ私に、主治医――かつての同僚だった彼は申し訳なさそうに口を開いた。


「洋子さん、お母様の容態が夜中に急変して……連絡が取れなかったから、佐藤先生に協力をお願いするしかなくて。病院の規定で、直系のご家族と連絡がつかない場合、非直系の親族にも委任状を書いてもらえることになっているんだ。」


そんな説明、聞きたくない。

私は悠人を睨みつけ、怒りと憎しみで体が震えた。


「母に腫瘍があるのは知ってる。でも、手術は無理だって何度も言われてた!どうして今さら?悠人……あんた、絶対何か企んでる!」

最後の一言は叫び声になった。


悠人は苛立ちを隠そうともせず、「洋子、俺がサインしてもしなくても、今ここに来た時点でお母さんは亡くなってる。結果は変わらないだろ。」


――このクズ、何言ってるの?


「ふざけるな!」

私は振り返り、冷たく覆われた白布に目をやった。母がいなくなった現実に、胸が締め付けられるような後悔が押し寄せてくる。


膝から崩れ落ち、ベッドのそばに這いつくばると、理性を失ったように頭をベッドに打ちつけ、泣き叫んだ。

「お母さん……ごめんなさい……!本当にごめんなさい……!」


その時、誰かが私の肩を掴み、力強く抱きしめた。

桐生宗介だった。彼は一言も発することなく、ただその腕で私をしっかりと抱き寄せた。


だが、その行動は周りにいた医者や看護師たちの小声の噂話を引き起こした。

そんな声なんて、どうでもよかった。私の痛みを癒せる人間なんて、この世に一人もいないからだ。


目に入ったのは、ベッドのそばに置かれた湯沸かしポット。私は宗介の腕を振りほどき、それを掴むと悠人に向かって投げつけた。


悠人は間一髪で避けたものの、ポットはドア枠にぶつかり、地面に落ちて割れた。熱湯が床に広がり、看護師たちは驚いて後ずさった。


私は悔しさに駆られ、割れたポットの破片を拾い上げて再び悠人に向かって投げつけた。今度は背中に直撃した。

「洋子、お前、正気か?」

「正気なわけないでしょ!あんたみたいなクズが、この世でのうのうと生きてるなんて!」


その瞬間、桐生宗介の拳が悠人の顔に炸裂した。

平然とした表情で繰り出されるその拳は、あまりにも迫力があり、誰一人として止めに入ろうとしなかった。


悠人は顔を押さえながらその場を後にし、静寂が戻った。


母の葬儀の日、私は墓の前に跪き続けた。雨が降り始めても、そこから動く気になれなかった。

桐生宗介は無言で私の後ろに立ち、ずっと傘をさしてくれていた。


「いつまでそこにいるつもりだ?」

雨音にかき消されそうな声で宗介が問いかける。


――答えたくない。いや、答える必要なんてない。


雨は強まり、空はどんどん暗くなる。そんな中、宗介はついに傘を地面に放り投げると、私を強引に横抱きにして持ち上げた。

「ちょっと……降ろして!」


車に戻り、私を助手席に座らせると、彼はシートベルトを留めた。そして、自分も運転席に乗り込み、車を発進させた。


車内は静かだった。母の遺影を胸に抱え、私はただ雨音を聞いていた。


「……家に帰りたい。」

掠れた声でそう呟くと、宗介は眉をひそめながら煙草を取り出した。しかし、結局火をつけることなくしまい込んだ。


家の前に着くと、雨はさらに強くなっていた。傘はなく、車の中で雨が止むのを待つしかなかった。


車窓をぼんやりと見つめていると、昔の記憶が蘇ってくる。


――もう、こんな風に愛されることはないんだ。


気づけば体が震えていた。その時、宗介が突然シートベルトを外し、身を乗り出してきた。

「ちょっ、何して――」

彼は私のシートベルトも外すと、一気に私を抱き寄せた。


「……震えてる。」

そう呟いた彼の腕の中は、ただただ温かかった。


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