始まりは、校舎の裏に放置された落書きだった。
早朝、登校した翔太郎は、なぜか妙な違和感に足を止めた。まだほとんど人気のない通用口の壁。その一角に、見慣れぬ“模様”が描かれていたのだ。
赤と黒と金色の絵の具が、レンガの壁を大胆に塗り潰し、中心には馬――それも、半分人間のように立ち上がった、奇怪な“自画像”が躍動している。
「なんだこれ……?」
目を凝らすと、馬の顔が、どこか見覚えのある人物に似ていた。
無造作な髪、薄く開いた口元、そして右手に持たれた筆。
「……華子?」
呟いた直後、すぐそばの茂みから“ばさっ”と何かが飛び出した。
「ひぃっ!」
「おはよ!」
翔太郎が身構えると、そこに現れたのは案の定――華子だった。
アトリエコートを羽織り、スケッチブックを小脇に抱え、片手には塗りたての絵の具がべったり付いたパレット。
「まさか朝からまた何かやらかしてるとは……」
「やらかしてるんじゃないの。“表現してる”のよ。アートに対する誤解は社会問題なんだから」
華子は悪びれる様子もなく、壁に描かれた巨大な馬をうっとりと眺めた。
「ねえ翔太郎くん、これ、“動いてる”の、わかる?」
「……は?」
「昨日、緑が描いた“走る壁画”に、私が命を吹き込んだの。ふたりの共同制作、“生きる壁”よ」
「勝手に命を吹き込むな!!ていうか、そんなのどうやって!」
「緑の絵に、“異界の境界線”が混じってたのよ。たぶん、彼女も“観測者”になりかけてる」
翔太郎は頭を抱えた。たしかに、緑は最近、どこか“絵に没入しすぎてる”節があった。
「……それで、この“馬”が、どうなってるって?」
「走り出すわよ、きっと。授業が始まるころには、もうこの校舎の外にいないかも」
「は!?」
言い終わるかどうかのうちに、絵の中の馬が、ぴくりと動いた。
最初は錯覚かと思った。しかし、前脚がレンガの中から“浮き出る”ように動き、続けて全身が“壁から剥がれ落ちる”ように立ち上がる。
「ま、待て待て待て待て待て……!」
翔太郎が後ずさる間に、壁から完全に抜け出した馬は、ふんっと鼻を鳴らし、華子の方を振り返った。
「おい、これはヤバいやつだろ!?」
「名前は“キャンバス1号”よ。性格はちょっと臆病だけど、好奇心は旺盛。動く絵の第一歩としては、完璧じゃない?」
「だからその発想がまずおかしいんだって!」
そのとき、華子の背後から、緑が軽やかな足取りで現れた。
「うわっ、ほんとに動いてる!やった、やったー!やっぱりあの構図、正しかったんだ!」
「お前もグルかああああ!!」
翔太郎の叫びをよそに、壁から生まれた馬――キャンバス1号は、ひづめの音を鳴らして校庭へと走り出した。
「待てぇぇぇええええ!!」
「追いかけて!私の“表現の結晶”が逃げる!!」
「私の“構図バランスの結実”が自立してるー!!」
「どっちにしろやべえってことは共通してるよね!!」
翔太郎はふらつく足を必死に動かしながら、校舎を横切っていく“動く壁画”を追いかけた。
その背中には、確かに“筆で描かれた模様”の跡があり、そこからはわずかに異界の気配が滲んでいた。
現実と絵の境界が崩れ始めていた。
そしてそれは、緑と華子の“表現”を通じて、現実世界へと踏み出してしまった。
校庭の向こう側に、ありえない速さで“走る馬”がいた。
馬と言っても、どこか“浮世離れ”している。四肢のバランスは微妙に崩れていて、脚の筋肉の表現も雑。しかも、体表の模様は絵筆のタッチそのもので、動くたびに“絵の具のしぶき”が風に舞う。
「止まれーっ!!キャンバス1号、止まってえぇぇ!」
緑が叫ぶと、馬はちらりと彼女の方を振り返った。だがその顔――いや“顔らしきもの”は、やはりどこか間抜けで、目の中に“パレットナンバー”の数字らしき記号が混じっていた。
「いやもう、なんだその目は!!」
翔太郎は叫びながら、馬の後を必死で追っていた。後方には華子もスケッチブックを広げたまま、なぜか写生しながら並走している。
「この角度最高!暴れる構図が生きてる!ああ、走りながら描くって、芸術と運動の融合だわぁ!」
「走りながら描くな!むしろ止まって捕まえろ!!」
「でも今しか描けない表情があるの!」
「現実世界に“今しか描けない構図”が走ってるのおかしいだろ!!」
一方、緑は全力疾走しながらも顔を輝かせていた。
「わたし、夢だったの!描いたものがそのまま動く世界!筆が追いつかない感覚を、そのまま現実に落とし込めたらって!」
「その夢、現実にしちゃいけない部類のやつ!!」
キャンバス1号は、華子と緑の叫びを尻目に、ぐるりとグラウンドを半周したかと思えば、ふいにフェンスを飛び越えた。
「えっ……おいおい、そっちは――!」
校外だった。
その瞬間、翔太郎の脳内に“緊急警報”が鳴り響いた。
(やばい。これ、街に出たら……!)
人々の前に“絵が動く”という現象が現実として晒されたら、どんな影響があるかわからない。しかも、観測者以外にはその“異常性”が理解されないまま、“なんとなく納得されてしまう”のがアニマ絡みの怖さだった。
「追うぞ!緑、華子、全速力だ!」
「任せて!私の描いたものは、最後まで責任持って走り抜ける!」
「私は全てを記録する!この逃走劇が、後世のインスタレーションになるまで!」
「勝手に美術史に残すなーーー!!」
翔太郎の絶叫と共に、三人は放課後の住宅街へと飛び出した。
住宅街では、買い物帰りの主婦や犬の散歩をするおじさん、そして下校中の小学生たちが、道端を走り抜ける“半絵画の馬”に反応していた。
「……ママ、あれって、動物園のやつ?」
「まあまあ、最近のデザイン馬かしらね」
「なんか見覚えある……こないだ美術館で見た馬?」
「おじさんも昔、ああいうの描いてたなぁ……」
翔太郎は寒気を覚えた。
(おいおいおいおい、誰も異常だと思ってねぇのかよ!!)
街が、“アート”という言葉で全てを包み込んでいく。
アニマの“影響波”が、確実に街全体に拡散している。
「止めなきゃ……!」
だが次の瞬間、キャンバス1号は商店街のアーケードに突入した。
「やばい!あんな狭いとこ、暴れ馬が通ったら――!」
しかしキャンバス1号は、予想外の行動をとった。
アーケードの柱に描かれていた、“古びたペンキの鳥の絵”の前で、ぴたりと止まり、鼻先でその絵を“くいっ”と突いた。
そして、鳥が、羽ばたいた。
ペンキの翼が、柱から剥がれ、現実空間に“立体的に”羽ばたいていく。
「な、なんだこれ……!」
翔太郎の言葉を飲み込む前に、次の柱に描かれていた“笑顔の子供”が、まるで紙芝居のコマが抜け落ちたように“ぬるっ”と立ち上がった。
「街が……“美術館”になっていく……!」
華子の言葉に、緑が声を震わせる。
「私……もしかして、“現実の風景に上描きする力”を手に入れちゃった……?」
「いやもう、それアートじゃなくて、軽く神だろ!!」
翔太郎は頭を抱えた。
現実が、絵に染まっていく。
次々と動き出す壁画たち。
そして、キャンバス1号はその中心で、まるで指揮者のように足を踏み鳴らし、“現実改変美術館”の開館を告げていた。
商店街のアーケードが、“美術館”に変貌しつつあった。
ひとたび誰かの“想像”が混じった落書きや壁絵に、キャンバス1号の鼻先が触れれば、それは形を変え、立体的に現実へと“飛び出して”くる。
駅前の花壇に描かれていた巨大なタンポポが宙を舞い、電柱にいた三毛猫のイラストが軒を跳ねる。民家のブロック塀に描かれた“自転車に乗った少年”は、しゃんしゃんと音を立てて車道を横切った。
「やばい、やばい、やばい!これ、どんどん“具現化”してる!!」
翔太郎は額の汗を拭いながら、華子に振り返った。
「どうしたら止まる!?」
「無理よ!」
「無理って言うな!!」
「だってこれ、“芸術の連鎖”だもの!想像から生まれたものが、新たな表現を引き出していく。私、感動して泣きそう!!」
「その涙、止まらないと街がアートに飲まれる!!」
緑もまた、その目を輝かせていた。
「わたし……わかってきた気がする。“構図”の中に“異界の視線”が混ざってるの。昨日の夜、キャンバスに向かってたとき、変な風が吹いて……筆が勝手に動いたの。今思えば、あれ、アニマだったんだ」
「つまり、お前が描いた“動く壁画”は、すでにアニマに“憑かれてた”ってことか……!」
「いや、“アニマに描かされた”のかも。だって今も、わたしの手、ちょっと震えてる」
緑は自分の右手を見つめた。
指先には、まだ乾ききっていない青と橙の絵の具。けれどその震え方は、緊張でも、恐怖でもなかった。
「わたし、怖くないの。むしろ、こんなすごい絵が描けたことがうれしいの」
「その純粋な感性が一番怖いわ!!!」
翔太郎は叫びながらも、視界の端で異変の“核”を見逃さなかった。
キャンバス1号――あの馬は、すでに街の中心部まで到達し、駅前広場にある市のモニュメント“希望の鐘”の真下で足を止めていた。
そして――そこに描かれていた“鐘の擬人化キャラクター”が、頭を振りながら“生きているように”揺れていた。
「やばい、あれが動き出したら、今度は“音”まで現実に干渉するぞ!」
「つまり、響かせてくるってこと?」
「そうだよ!アートの暴走が“聴覚”まで浸食し始めたら、もう俺たち“どこまでが本物か”わかんなくなる!!」
「やだ、最高!」
「やめろ華子!!!」
だが次の瞬間――
カーン……という澄んだ鐘の音が、街中に響いた。
途端に、時間の流れが歪んだ。
目の前を走る車が“絵筆の筆致”のようにギクシャクと動き始め、人々の影が“スケッチ”のように揺れた。
街が、“現実”から“描写”へと書き換えられていく。
「これ……もう、アニマだけじゃなくて、“世界そのもの”が絵になろうとしてる……!」
璃桜の声が、いつの間にか追いついてきた背後から飛んできた。
「璃桜!」
「遅れてごめん!校内で“キャンバス2号”が暴走したから、真吾と応急処理してきた!でもこっちの方が規模が大きい……このアニマ、完全に“自己増殖”型よ!」
「じゃあ、どうすれば……!」
璃桜は、じっとキャンバス1号を見つめ、そして呟いた。
「“描くことでしか止められない”。この現象は、アートによって始まった。なら、“アートによって完結”させるしかない」
「意味がわからん!!」
「つまり――“この騒動の終わり”を、“1枚の絵”として描き上げる。そこに、このアニマを閉じ込めるしかない!」
「そんなのできるやついるかよ……」
「できるわ」
翔太郎の隣で、緑と華子がぴたりと止まった。
「できる。わたし、今なら描ける気がする。“動くものを、止める絵”」
「私も。“全てを閉じ込める一枚”を描ききってみせる」
「お、お前ら……」
「翔太郎。お願い。私たちが描いてる間――“時間”を稼いで」
「おいおい、相手は“走る壁画”と“飛び出す絵画”と“歩くモニュメント”だぞ!?時間ってどう稼げば――」
「信じてる」
「無茶振りが早いっ!!」
それでも――翔太郎は走り出した。
彼にしかできないことがあるなら、たとえそれが“無難な選択”ではなかったとしても――。
翔太郎は走った。
この街で一番安全だったはずの通学路が、今は“展示通路”のようになっていた。民家の壁に現れた鳩の群れが音もなく飛び交い、駐車場の車の横には“スプレーアートのロボット兵”が二体、膝を抱えて座っている。
何もかもが“描かれた何か”になっていた。世界が現実を失い、芸術に変わりつつある。
(ダメだ……追いつけるわけない、あんなの……)
キャンバス1号は、駅前のモニュメントの周りを駆け回りながら、なおも“未覚醒の絵”を探しては触れていく。
そのたびに、絵の中のキャラクターたちが起き上がり、現実の街に“新たな物語”を刻みはじめる。
「おいっ!そこの……そこの……なんだあれ!? “自動販売機型カエル”!? 動くな!ジュース出すな!しかも謎の味出すな!!」
すでに理屈が通じない世界に変わっていた。
だが翔太郎は、止まらなかった。
「……俺が、止めなきゃいけないんだろ……!?」
観測者になったあの日から、見えてしまった現実。逃げたいと思ったこともあった。自分には何の力もない。ただ“見える”だけの存在――
けれど、今ならわかる。
“見えること”は、“気づけること”だ。
「俺の役目は、気づいて、止めることだ!」
翔太郎は走りながら、ポケットから黒の油性マーカーを取り出した。
「描いたものが具現化するなら、描かれてないものを“否定”すれば、影響を打ち消せる……!」
目の前の壁に、今まさに動き出そうとする“レトロ風ラジカセ少年”の絵がある。
その下に――翔太郎は、大きくこう書いた。
《未完成》
その瞬間、ラジカセ少年は動きを止め、ざらざらと砂のように崩れ落ちた。
「……やった……!」
“観測者の視点”を最大限に活かし、翔太郎は未発動の絵に“注釈”を加え続けた。
《これは落書きです》
《バグです》
《著作権違反》
《シュールすぎて無理》
そのたびに、現れかけた絵がぺたりと壁に戻り、世界の改変は一瞬だけ止まる。
そのわずかな“空白”を使って――
「緑、今よ!描いて!!」
璃桜の叫びが響いた。
広場の真ん中。緑は膝を地面につき、巨大なスケッチブックを開き、筆を走らせていた。
華子はその横で、キャンバスを支えながら叫んだ。
「主題は“収束”!構図は“中心消失”!モチーフは“馬”!今こそ、“走りきった物語”を閉じる!!」
緑の手が震える。
だがその筆先は、確かにキャンバス1号の姿を描いていた。
かつて彼女が壁に描いた、“暴れるような自画像の馬”。
今は、その足を止め、疲れきった目でこちらを見つめている。
“もう、走りたくない”と、そう言っているように。
緑は呟いた。
「……ありがとう、走ってくれて」
最後の一筆が、馬の尾を閉じた。
その瞬間、全ての“絵画の暴走”が止まった。
駅前のアーケードが静まり返り、空に浮いていたタンポポも、空中で破片のように溶けていった。
世界が、現実に戻っていく。
キャンバス1号は、最後にもう一度だけ駆けて――描かれた“ラストカット”の中へ、吸い込まれるように姿を消した。
絵は、完成した。
「……やった……のか?」
翔太郎は崩れるように膝をついた。
緑は筆を置き、ただぼーっとその絵を見ていた。
「……走るって、いいね」
「感想が小学生の作文……」
翔太郎が息を吐きながら、目を閉じると――ふと、街のどこかで“拍手”が起きたような気がした。
幻聴かもしれない。
けれどその瞬間、自分たちが“ただの事件の対処”ではなく、“何かを完成させた”という感覚があった。
「華子……」
「うん。“終わりまで描ききった”。これはもう、“作品”よ。タイトルは……《疾走、そして輪郭線》」
「意味深っ!!」
翔太郎の絶叫と共に、物語は、ようやく静かに幕を下ろした。
ただし、そのスケッチブックの隅には、小さく“ネクストページ”の文字が滲んでいたのを、誰もまだ気づいていなかった。
(第5話 完)