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【第5話】緑と華子と、走る美術館

 始まりは、校舎の裏に放置された落書きだった。

 早朝、登校した翔太郎は、なぜか妙な違和感に足を止めた。まだほとんど人気のない通用口の壁。その一角に、見慣れぬ“模様”が描かれていたのだ。

 赤と黒と金色の絵の具が、レンガの壁を大胆に塗り潰し、中心には馬――それも、半分人間のように立ち上がった、奇怪な“自画像”が躍動している。

「なんだこれ……?」

 目を凝らすと、馬の顔が、どこか見覚えのある人物に似ていた。

 無造作な髪、薄く開いた口元、そして右手に持たれた筆。

「……華子?」

 呟いた直後、すぐそばの茂みから“ばさっ”と何かが飛び出した。

「ひぃっ!」

「おはよ!」

 翔太郎が身構えると、そこに現れたのは案の定――華子だった。

 アトリエコートを羽織り、スケッチブックを小脇に抱え、片手には塗りたての絵の具がべったり付いたパレット。

「まさか朝からまた何かやらかしてるとは……」

「やらかしてるんじゃないの。“表現してる”のよ。アートに対する誤解は社会問題なんだから」

 華子は悪びれる様子もなく、壁に描かれた巨大な馬をうっとりと眺めた。

「ねえ翔太郎くん、これ、“動いてる”の、わかる?」

「……は?」

「昨日、緑が描いた“走る壁画”に、私が命を吹き込んだの。ふたりの共同制作、“生きる壁”よ」

「勝手に命を吹き込むな!!ていうか、そんなのどうやって!」

「緑の絵に、“異界の境界線”が混じってたのよ。たぶん、彼女も“観測者”になりかけてる」

 翔太郎は頭を抱えた。たしかに、緑は最近、どこか“絵に没入しすぎてる”節があった。

「……それで、この“馬”が、どうなってるって?」

「走り出すわよ、きっと。授業が始まるころには、もうこの校舎の外にいないかも」

「は!?」

 言い終わるかどうかのうちに、絵の中の馬が、ぴくりと動いた。

 最初は錯覚かと思った。しかし、前脚がレンガの中から“浮き出る”ように動き、続けて全身が“壁から剥がれ落ちる”ように立ち上がる。

「ま、待て待て待て待て待て……!」

 翔太郎が後ずさる間に、壁から完全に抜け出した馬は、ふんっと鼻を鳴らし、華子の方を振り返った。

「おい、これはヤバいやつだろ!?」

「名前は“キャンバス1号”よ。性格はちょっと臆病だけど、好奇心は旺盛。動く絵の第一歩としては、完璧じゃない?」

「だからその発想がまずおかしいんだって!」

 そのとき、華子の背後から、緑が軽やかな足取りで現れた。

「うわっ、ほんとに動いてる!やった、やったー!やっぱりあの構図、正しかったんだ!」

「お前もグルかああああ!!」

 翔太郎の叫びをよそに、壁から生まれた馬――キャンバス1号は、ひづめの音を鳴らして校庭へと走り出した。

「待てぇぇぇええええ!!」

「追いかけて!私の“表現の結晶”が逃げる!!」

「私の“構図バランスの結実”が自立してるー!!」

「どっちにしろやべえってことは共通してるよね!!」

 翔太郎はふらつく足を必死に動かしながら、校舎を横切っていく“動く壁画”を追いかけた。

 その背中には、確かに“筆で描かれた模様”の跡があり、そこからはわずかに異界の気配が滲んでいた。

 現実と絵の境界が崩れ始めていた。

 そしてそれは、緑と華子の“表現”を通じて、現実世界へと踏み出してしまった。




 校庭の向こう側に、ありえない速さで“走る馬”がいた。

 馬と言っても、どこか“浮世離れ”している。四肢のバランスは微妙に崩れていて、脚の筋肉の表現も雑。しかも、体表の模様は絵筆のタッチそのもので、動くたびに“絵の具のしぶき”が風に舞う。

「止まれーっ!!キャンバス1号、止まってえぇぇ!」

 緑が叫ぶと、馬はちらりと彼女の方を振り返った。だがその顔――いや“顔らしきもの”は、やはりどこか間抜けで、目の中に“パレットナンバー”の数字らしき記号が混じっていた。

「いやもう、なんだその目は!!」

 翔太郎は叫びながら、馬の後を必死で追っていた。後方には華子もスケッチブックを広げたまま、なぜか写生しながら並走している。

「この角度最高!暴れる構図が生きてる!ああ、走りながら描くって、芸術と運動の融合だわぁ!」

「走りながら描くな!むしろ止まって捕まえろ!!」

「でも今しか描けない表情があるの!」

「現実世界に“今しか描けない構図”が走ってるのおかしいだろ!!」

 一方、緑は全力疾走しながらも顔を輝かせていた。

「わたし、夢だったの!描いたものがそのまま動く世界!筆が追いつかない感覚を、そのまま現実に落とし込めたらって!」

「その夢、現実にしちゃいけない部類のやつ!!」

 キャンバス1号は、華子と緑の叫びを尻目に、ぐるりとグラウンドを半周したかと思えば、ふいにフェンスを飛び越えた。

「えっ……おいおい、そっちは――!」

 校外だった。

 その瞬間、翔太郎の脳内に“緊急警報”が鳴り響いた。

(やばい。これ、街に出たら……!)

 人々の前に“絵が動く”という現象が現実として晒されたら、どんな影響があるかわからない。しかも、観測者以外にはその“異常性”が理解されないまま、“なんとなく納得されてしまう”のがアニマ絡みの怖さだった。

「追うぞ!緑、華子、全速力だ!」

「任せて!私の描いたものは、最後まで責任持って走り抜ける!」

「私は全てを記録する!この逃走劇が、後世のインスタレーションになるまで!」

「勝手に美術史に残すなーーー!!」

 翔太郎の絶叫と共に、三人は放課後の住宅街へと飛び出した。

 住宅街では、買い物帰りの主婦や犬の散歩をするおじさん、そして下校中の小学生たちが、道端を走り抜ける“半絵画の馬”に反応していた。

「……ママ、あれって、動物園のやつ?」

「まあまあ、最近のデザイン馬かしらね」

「なんか見覚えある……こないだ美術館で見た馬?」

「おじさんも昔、ああいうの描いてたなぁ……」

 翔太郎は寒気を覚えた。

(おいおいおいおい、誰も異常だと思ってねぇのかよ!!)

 街が、“アート”という言葉で全てを包み込んでいく。

 アニマの“影響波”が、確実に街全体に拡散している。

「止めなきゃ……!」

 だが次の瞬間、キャンバス1号は商店街のアーケードに突入した。

「やばい!あんな狭いとこ、暴れ馬が通ったら――!」

 しかしキャンバス1号は、予想外の行動をとった。

 アーケードの柱に描かれていた、“古びたペンキの鳥の絵”の前で、ぴたりと止まり、鼻先でその絵を“くいっ”と突いた。

 そして、鳥が、羽ばたいた。

 ペンキの翼が、柱から剥がれ、現実空間に“立体的に”羽ばたいていく。

「な、なんだこれ……!」

 翔太郎の言葉を飲み込む前に、次の柱に描かれていた“笑顔の子供”が、まるで紙芝居のコマが抜け落ちたように“ぬるっ”と立ち上がった。

「街が……“美術館”になっていく……!」

 華子の言葉に、緑が声を震わせる。

「私……もしかして、“現実の風景に上描きする力”を手に入れちゃった……?」

「いやもう、それアートじゃなくて、軽く神だろ!!」

 翔太郎は頭を抱えた。

 現実が、絵に染まっていく。

 次々と動き出す壁画たち。

 そして、キャンバス1号はその中心で、まるで指揮者のように足を踏み鳴らし、“現実改変美術館”の開館を告げていた。




 商店街のアーケードが、“美術館”に変貌しつつあった。

 ひとたび誰かの“想像”が混じった落書きや壁絵に、キャンバス1号の鼻先が触れれば、それは形を変え、立体的に現実へと“飛び出して”くる。

 駅前の花壇に描かれていた巨大なタンポポが宙を舞い、電柱にいた三毛猫のイラストが軒を跳ねる。民家のブロック塀に描かれた“自転車に乗った少年”は、しゃんしゃんと音を立てて車道を横切った。

「やばい、やばい、やばい!これ、どんどん“具現化”してる!!」

 翔太郎は額の汗を拭いながら、華子に振り返った。

「どうしたら止まる!?」

「無理よ!」

「無理って言うな!!」

「だってこれ、“芸術の連鎖”だもの!想像から生まれたものが、新たな表現を引き出していく。私、感動して泣きそう!!」

「その涙、止まらないと街がアートに飲まれる!!」

 緑もまた、その目を輝かせていた。

「わたし……わかってきた気がする。“構図”の中に“異界の視線”が混ざってるの。昨日の夜、キャンバスに向かってたとき、変な風が吹いて……筆が勝手に動いたの。今思えば、あれ、アニマだったんだ」

「つまり、お前が描いた“動く壁画”は、すでにアニマに“憑かれてた”ってことか……!」

「いや、“アニマに描かされた”のかも。だって今も、わたしの手、ちょっと震えてる」

 緑は自分の右手を見つめた。

 指先には、まだ乾ききっていない青と橙の絵の具。けれどその震え方は、緊張でも、恐怖でもなかった。

「わたし、怖くないの。むしろ、こんなすごい絵が描けたことがうれしいの」

「その純粋な感性が一番怖いわ!!!」

 翔太郎は叫びながらも、視界の端で異変の“核”を見逃さなかった。

 キャンバス1号――あの馬は、すでに街の中心部まで到達し、駅前広場にある市のモニュメント“希望の鐘”の真下で足を止めていた。

 そして――そこに描かれていた“鐘の擬人化キャラクター”が、頭を振りながら“生きているように”揺れていた。

「やばい、あれが動き出したら、今度は“音”まで現実に干渉するぞ!」

「つまり、響かせてくるってこと?」

「そうだよ!アートの暴走が“聴覚”まで浸食し始めたら、もう俺たち“どこまでが本物か”わかんなくなる!!」

「やだ、最高!」

「やめろ華子!!!」

 だが次の瞬間――

 カーン……という澄んだ鐘の音が、街中に響いた。

 途端に、時間の流れが歪んだ。

 目の前を走る車が“絵筆の筆致”のようにギクシャクと動き始め、人々の影が“スケッチ”のように揺れた。

 街が、“現実”から“描写”へと書き換えられていく。

「これ……もう、アニマだけじゃなくて、“世界そのもの”が絵になろうとしてる……!」

 璃桜の声が、いつの間にか追いついてきた背後から飛んできた。

「璃桜!」

「遅れてごめん!校内で“キャンバス2号”が暴走したから、真吾と応急処理してきた!でもこっちの方が規模が大きい……このアニマ、完全に“自己増殖”型よ!」

「じゃあ、どうすれば……!」

 璃桜は、じっとキャンバス1号を見つめ、そして呟いた。

「“描くことでしか止められない”。この現象は、アートによって始まった。なら、“アートによって完結”させるしかない」

「意味がわからん!!」

「つまり――“この騒動の終わり”を、“1枚の絵”として描き上げる。そこに、このアニマを閉じ込めるしかない!」

「そんなのできるやついるかよ……」

「できるわ」

 翔太郎の隣で、緑と華子がぴたりと止まった。

「できる。わたし、今なら描ける気がする。“動くものを、止める絵”」

「私も。“全てを閉じ込める一枚”を描ききってみせる」

「お、お前ら……」

「翔太郎。お願い。私たちが描いてる間――“時間”を稼いで」

「おいおい、相手は“走る壁画”と“飛び出す絵画”と“歩くモニュメント”だぞ!?時間ってどう稼げば――」

「信じてる」

「無茶振りが早いっ!!」

 それでも――翔太郎は走り出した。

 彼にしかできないことがあるなら、たとえそれが“無難な選択”ではなかったとしても――。




 翔太郎は走った。

 この街で一番安全だったはずの通学路が、今は“展示通路”のようになっていた。民家の壁に現れた鳩の群れが音もなく飛び交い、駐車場の車の横には“スプレーアートのロボット兵”が二体、膝を抱えて座っている。

 何もかもが“描かれた何か”になっていた。世界が現実を失い、芸術に変わりつつある。

(ダメだ……追いつけるわけない、あんなの……)

 キャンバス1号は、駅前のモニュメントの周りを駆け回りながら、なおも“未覚醒の絵”を探しては触れていく。

 そのたびに、絵の中のキャラクターたちが起き上がり、現実の街に“新たな物語”を刻みはじめる。

「おいっ!そこの……そこの……なんだあれ!? “自動販売機型カエル”!? 動くな!ジュース出すな!しかも謎の味出すな!!」

 すでに理屈が通じない世界に変わっていた。

 だが翔太郎は、止まらなかった。

「……俺が、止めなきゃいけないんだろ……!?」

 観測者になったあの日から、見えてしまった現実。逃げたいと思ったこともあった。自分には何の力もない。ただ“見える”だけの存在――

 けれど、今ならわかる。

“見えること”は、“気づけること”だ。

「俺の役目は、気づいて、止めることだ!」

 翔太郎は走りながら、ポケットから黒の油性マーカーを取り出した。

「描いたものが具現化するなら、描かれてないものを“否定”すれば、影響を打ち消せる……!」

 目の前の壁に、今まさに動き出そうとする“レトロ風ラジカセ少年”の絵がある。

 その下に――翔太郎は、大きくこう書いた。

《未完成》

 その瞬間、ラジカセ少年は動きを止め、ざらざらと砂のように崩れ落ちた。

「……やった……!」

“観測者の視点”を最大限に活かし、翔太郎は未発動の絵に“注釈”を加え続けた。

《これは落書きです》

《バグです》

《著作権違反》

《シュールすぎて無理》

 そのたびに、現れかけた絵がぺたりと壁に戻り、世界の改変は一瞬だけ止まる。

 そのわずかな“空白”を使って――

「緑、今よ!描いて!!」

 璃桜の叫びが響いた。

 広場の真ん中。緑は膝を地面につき、巨大なスケッチブックを開き、筆を走らせていた。

 華子はその横で、キャンバスを支えながら叫んだ。

「主題は“収束”!構図は“中心消失”!モチーフは“馬”!今こそ、“走りきった物語”を閉じる!!」

 緑の手が震える。

 だがその筆先は、確かにキャンバス1号の姿を描いていた。

 かつて彼女が壁に描いた、“暴れるような自画像の馬”。

 今は、その足を止め、疲れきった目でこちらを見つめている。

“もう、走りたくない”と、そう言っているように。

 緑は呟いた。

「……ありがとう、走ってくれて」

 最後の一筆が、馬の尾を閉じた。

 その瞬間、全ての“絵画の暴走”が止まった。

 駅前のアーケードが静まり返り、空に浮いていたタンポポも、空中で破片のように溶けていった。

 世界が、現実に戻っていく。

 キャンバス1号は、最後にもう一度だけ駆けて――描かれた“ラストカット”の中へ、吸い込まれるように姿を消した。

 絵は、完成した。

「……やった……のか?」

 翔太郎は崩れるように膝をついた。

 緑は筆を置き、ただぼーっとその絵を見ていた。

「……走るって、いいね」

「感想が小学生の作文……」

 翔太郎が息を吐きながら、目を閉じると――ふと、街のどこかで“拍手”が起きたような気がした。

 幻聴かもしれない。

 けれどその瞬間、自分たちが“ただの事件の対処”ではなく、“何かを完成させた”という感覚があった。

「華子……」

「うん。“終わりまで描ききった”。これはもう、“作品”よ。タイトルは……《疾走、そして輪郭線》」

「意味深っ!!」

 翔太郎の絶叫と共に、物語は、ようやく静かに幕を下ろした。

 ただし、そのスケッチブックの隅には、小さく“ネクストページ”の文字が滲んでいたのを、誰もまだ気づいていなかった。

(第5話 完)


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