朝の通学路。
住宅街の並木道を、翔太郎は自転車を押しながら歩いていた。空気は澄んで、桜の花びらがアスファルトの隅に溜まっている。穏やかな春の朝。だが彼の顔には、少しだけ疲れがにじんでいた。
理由は、前日の“走る壁画”事件の後処理が長引いたせいだった。華子と緑の暴走絵画は片付いたものの、市内の数ヶ所ではまだ“絵と現実の境界”が曖昧なままになっている。
「観測者になってから、ほんとろくな朝がないな……」
ぼやいたところで、前方に立つふたりの姿が視界に入った。
見覚えのある男子生徒と女子生徒。どちらも同じ制服姿。だがその間に流れている空気は、明らかに“初対面のそれ”だった。
翔太郎の眉がぴくりと動く。
「……あれ? あいつら……またか?」
男子のほうが先に口を開いた。
「あの……もしかして……うちの学校?」
女子は一瞬戸惑いながらも、すぐに明るく答える。
「うん、多分。同じブレザーっぽいし」
「そっか。あ、俺、翔真って言います。二年。君は?」
「芽衣。えっと、私も二年……だと思う」
「“だと思う”って、ちょっと不安になる言い方だな」
「ごめん、なんか……朝起きたら、記憶がぼんやりしてて」
「……え、マジで?俺もなんだけど……。え、まさか同じ現象?」
「もしかして……“初対面っぽいけど、初対面じゃない感”ある?」
「あるある!え、なんだろこの既視感……!」
翔太郎は目元を押さえながら深く息を吐いた。
(まただ……これで、5回目……!)
彼ら、翔真と芽衣は、“毎朝、お互いの記憶を忘れて再会する”状態に陥っていた。
それが“アニマによるもの”であることは、既に観測者チームの間で判明している。どうやら記憶に干渉する特殊なアニマが、二人の周囲の“夢”に入り込み、夜の間に記憶をリセットしているらしい。
だが、“相手のことだけ”忘れる。過去の記憶や知識には問題がない。つまり、朝になると“目の前の相手だけ、完全な他人に戻る”。
そして、その状態で――なぜか毎朝、同じ道で“偶然に再会”してしまう。
(それもまたアニマの作用か、あるいは……)
翔太郎が思考を巡らせている間にも、ふたりは自然なテンポで会話を続けていた。
「……ていうか、この道、前にも通ったことある気がするんだけど」
「うん、私も。なんでかはわかんないけど、“ここ”で会ったことがあるような」
「変だよな。でもなんかさ、初対面にしては、会話スムーズすぎない?」
「うん……むしろ、ちょっとテンポが良すぎて気持ち悪いかも」
ふたりは顔を見合わせ、そして同時に笑った。
「なんか、また明日も会えそうな気がするね」
「うん。ていうか、昨日も会ってたんじゃない?」
「……言ってて怖い!」
「私も!」
翔太郎は、思わず口を挟んだ。
「おーい、君ら、ほんっとにまた忘れてるのか……?」
「え、あ、えっと……どちら様……?」
「うわあああああああああああ!!」
思わず頭を抱える翔太郎。その絶叫の背後では、翔真と芽衣がまた“最初の自己紹介”を始めていた。
この記憶喪失コンビの“再会劇”は、今日もまだ続くらしい。
校門の前、春の陽光に満ちた空気の中で、翔太郎はベンチに座ったまま、深いため息を吐いていた。
目の前では、翔真と芽衣が相変わらず穏やかに話している。お互いに相手の名前を再確認し、趣味の話をはじめ、会話の端々に「前にも話したかも?」という言葉がちらちらと混ざっていた。
それがこの一週間、五日連続で繰り返されている。
「璃桜、これ……さすがに見過ごせないよな」
「うん。“記憶の一部だけが毎晩初期化される”なんて、明らかに自然現象じゃない」
翔太郎の隣には璃桜がいて、手元の観測ノートにページを足しながら冷静に分析していた。
「二人の記憶喪失は“限定的”。それぞれの生活記録や教科書の内容、友人の顔などには支障がない。でも、相手のことだけ、毎朝完全に忘れてる」
「つまり、“人間関係にだけ作用するアニマ”か……」
「可能性は高い。それも“夢”を介してる。昨夜、芽衣が“知らない庭で誰かとピクニックしてた夢”を見たって証言してたでしょ?」
「うん。翔真も、“海辺で手紙を書いてる夢を見た”って言ってた」
「同じ時間帯に、“無意識に接触”してる。しかも、夢の内容が“現実に反映されないまま、記憶だけが消える”」
「……どんなタイプのアニマだよ、それ」
翔太郎は、記憶の底に“昨日の夢”を探る。
が、自分自身にはそんな気配はなかった。どうやら影響範囲は“ふたりの接触”に限定されているらしい。
「一体、アニマの目的はなんなんだ……?」
「それはまだわからない。でも、観測者である私たちが“再現性”に気づけた以上、チャンスはある。次に“夢に入られる瞬間”を捉えられれば……」
璃桜はノートを閉じて、翔太郎に言った。
「今日の放課後、ふたりを呼んで。“観測者チーム”として話をしよう。“本人たちの意思”を介して、夢への介入方法を探るのが一番確実」
「了解。……それにしてもさ」
翔太郎はふと前を見る。
その視線の先では、翔真が芽衣に言っていた。
「もし明日、また会えたら……“次はちゃんと覚えてる”って、言えるといいな」
芽衣ははにかみながら、うなずいた。
「うん。……頑張って覚えてみる」
「忘れても、また思い出せばいいか」
「そうだね。……何度でも、自己紹介しよう」
二人の笑顔は、まるで“初めてじゃない”みたいに自然で、柔らかかった。
翔太郎は思った。
(……こいつら、本当に毎朝忘れてるのか?)
言葉では覚えていなくても、心のどこかが“昨日までの出会い”を感じ取っているような、そんな温度だった。
そして、その“感覚”を捨てきれないからこそ――ふたりは、毎朝、また出会ってしまうのかもしれない。
「……璃桜。もし“人間関係”だけが書き換えられてるなら……その“関係性”って、どうやって残ると思う?」
「心の記憶……つまり、“感情”が鍵になる」
璃桜は静かに答えた。
「翔真と芽衣は、お互いに“気持ち”だけを残して、次の日に進んでる。だから、言葉では思い出せなくても、感情のテンポだけが残ってる」
「……それ、ちょっと……すごいな」
翔太郎が素直に呟いた瞬間、ふたりがこちらに気づいた。
「あ、翔太郎くん! おはよう!」
「おはようございまーす。……えっと……あれ?名前合ってたっけ?」
「合ってるよ……もう……」
放課後の図書室。隅の資料整理室に設けられた“観測者チーム”の臨時集会場では、相変わらず“秘密基地”のような空気が漂っていた。
翔太郎、璃桜、翔真、芽衣に加え、今日は龍平も同席していた。彼は口数こそ少ないものの、過去に“精神干渉系アニマ”に接触した経験があり、夢関係の案件には強い。
「なるほど。つまり君たちは、毎朝“お互いを初めて見たような気がする”ところから一日が始まるんだね」
「はい……おそらく五日連続で……でも記録がないから自信はなくて」
翔真が申し訳なさそうに頭を下げる。
「けど、なんか“芽衣って名前、呼んだことある気がする”んです。声に出した瞬間、“しっくり”来る感覚があって」
「それはすごく重要な手がかりだよ」
龍平が穏やかに頷く。
「記憶の中枢が消えても、“声に出した実感”が残るっていうのは、通常の記憶消去とは違う。“夢に残した言葉”が現実に引っ張られてる可能性がある」
「“夢の痕跡”が、言葉に混ざってるってこと?」
璃桜がメモを取りながら尋ねると、龍平は小さくうなずく。
「アニマが人の記憶をいじるとき、完全な削除は難しい。特に“感情”や“身体の感覚”は残りやすい。つまり、“夢の中で関係性を築いてしまっている”なら、現実でも会話のテンポや安心感が残ってるはず」
「なるほど……だから、ふたりの会話がやけにスムーズなんだ……」
翔太郎はここでようやく腑に落ちた顔をした。
「っていうか、お前ら、初対面のはずなのに“息ぴったり”すぎんだよ!」
「えへへ……なんか、話しやすいっていうか……」
芽衣が照れながら頭をかいた。
翔真も同じく苦笑い。
「俺も、なんか“安心感”があるっていうか……普通に友達として話せちゃうんですよね。不思議なんだけど」
「不思議じゃないよ。もう“友達”だったからだ」
龍平がぽつりと呟いたその言葉に、一瞬場が静まりかえった。
翔太郎は慌てて咳払いをして雰囲気を戻した。
「で、だ。具体的な対処だけど、今夜の“夢”にどうやって入るかが問題だよな」
「現実にいる我々が“夢の中の記憶”を観測するには、当事者の意識が必要になる」
璃桜が資料を広げながら言う。
「つまり、翔真と芽衣、どちらかが“夢を見ている自覚”を持てれば、アニマの姿も見える可能性がある。現実の意識を保ったまま夢に入る“半覚醒状態”……いわゆる“明晰夢”を使う」
「え、なんか難しそう……」
「むしろ、できる可能性があるから呼んでるんだよ」
璃桜はまっすぐ芽衣を見つめた。
「あなたは目標を定めると集中できる。“夢を見ていることを自覚したまま、翔真を見つけて、話しかける”という行動に集中して」
「う、うん……やってみる!」
「翔真も。“もし夢の中で芽衣に出会ったら、その場で“これは夢だ”って口に出してみて。言葉にすることで、“無意識の書き換え”を弾けるかもしれない」
「はい、覚えてみます……」
「覚えるって言ってる時点でなんか切ないな……」
翔太郎がぼそりと呟いたが、誰も否定はしなかった。
その夜――
ふたりはそれぞれ、自室で布団に入りながら、今日の出来事をぼんやりと思い出していた。
芽衣は思った。
(“夢の中でもう一度会う”って、変なのに……ちょっと、うれしいかも)
翔真もまた、天井を見つめながら、ぽつりと呟いていた。
「もし明日、全部忘れても……また、最初から話せばいいだけか」
その言葉は、彼の夢の入り口を、ゆっくりと開いていった。
そこは、どこか現実に似ていて、けれど確実に“現実じゃない”場所だった。
芽衣は、薄い霧のかかった野原に立っていた。
真昼のような光が空から注がれているが、太陽は見えない。空気はやけに甘くて、草の上には、鉛筆で線画を描いたような“花”が揺れていた。輪郭だけで構成された、未完成の世界。
「……夢だ」
芽衣はつぶやいた。
明晰夢。意識を保ったまま夢の中に入るという異常な状態。
「夢の中で、翔真くんを探す……そう、言ってたよね。璃桜さんが」
そのとき、遠くの丘の上に、小さな人影が見えた。
ゆっくり、だが確実にこちらに向かって歩いてくる。
芽衣は思わず駆け出した。
「翔真くん!」
彼は立ち止まり、首をかしげる。
「……あれ? 君、誰だっけ」
その言葉に、芽衣の胸がきゅっと縮む。
「そっか、まだ……思い出してないんだ……」
「……ごめん。でも、なんか……君の声、聞いたことがある気がする」
彼のその言葉に、芽衣は笑った。
「わたしも。忘れてるけど、心が覚えてる。きっと、そういうことだよね」
翔真はゆっくりと頷いた。そして、目を伏せながら言った。
「……夢だって、わかってる。この世界、現実じゃない。けど、君といるこの瞬間は、嘘じゃない気がする」
「うん。だから、伝えよう」
芽衣は、そっと翔真の手を取った。
「わたしたち、また明日、忘れちゃうかもしれないけど……それでも、何度だって会えるよ。こうして、話して、また笑って……」
そのときだった。
空がひび割れた。
バリバリッというガラスを砕くような音が響き、空の一角が“黒い手”に引き裂かれた。
そこから、絵の具をにじませたような影が滲み出し、世界に侵食してくる。
「……来た!」
芽衣は咄嗟に翔真を引き寄せ、後ろへ跳んだ。
その瞬間、“黒いアニマ”が姿を現した。
輪郭は曖昧で、ふわふわとした煙のよう。瞳も口もない。だが、身体全体から放たれる“強い干渉力”が伝わってくる。
「これが……記憶を喰うアニマ……!」
アニマは近づいてくる。
そのまま翔真の方へ“にじり寄る”。
「ダメ!来ないで!」
芽衣が叫ぶと同時に、彼女の右手から“光の輪郭線”が生まれた。
それはまるで“夢の中で描く意志の線”。観測者に近い芽衣の精神が、“夢を守る壁”を描こうとしていた。
しかし、アニマはその線をするりとすり抜ける。
「駄目……私の意識だけじゃ、防げない……!」
だがそのとき。
「……覚えてる気がする」
翔真がぽつりと呟いた。
「君のこと。名前とか、全部忘れてるはずなのに……なのに、“守らなきゃ”って思ってる。たぶん……ずっと前から、そう思ってた」
その言葉が、アニマの動きを止めた。
世界が静まり返る。
芽衣は、そっと手を伸ばす。
「じゃあ、思い出して。一緒に、ここから抜け出そう」
翔真はうなずき、その手を握った。
その瞬間、夢の中の“空”が一気に白に染まった。
アニマの体が、ぶわっと風に散るように霧散し、世界がゆっくりと“塗りなおされる”。
誰かが囁いたような声が、どこかから聞こえた。
――君たちの“関係”は、記憶じゃなくて“感情”で残ってた。
――だから私はもう、必要ないんだ。
そしてふたりは――ゆっくりと、目を覚ました。
朝。
春の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、窓辺の時計が静かに午前7時を告げた。
芽衣はまぶたを開けて、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
夢の記憶が、今も輪郭を持って残っていた。
(あれ……夢だったのかな。でも……)
不思議な感覚があった。
名前を呼んだ気がする。誰かの手を握った。忘れたはずの顔が、なぜか心に残っている。
芽衣は布団を跳ねのけて、制服に着替えた。そして玄関を出て、駅へと向かういつもの道を歩きながら、胸の奥に浮かぶ名前を口にしてみる。
「……翔真くん」
その名前は、驚くほど自然に口をついて出た。
同じころ。
別の家で、翔真もまた目を覚まし、歯を磨きながら鏡の前で思っていた。
(……芽衣って、誰だっけ?)
でも、“誰だっけ”のあとの空白が、いつもより少しだけ、あたたかかった。
学校へ向かう道。
その交差点の角で、ふたりはまた出会った。
いつものように“偶然”だったはずなのに、今日は――
「……おはよう」
「……おはよう、芽衣」
「覚えてる?」
「ちょっとだけ。でも、忘れないようにするって、昨日約束した気がして」
「うん。わたしも。夢の中で会ったの、覚えてる」
その瞬間、ふたりの間に何の説明も必要のない“空気”が流れた。
翔真は笑って、言った。
「じゃあ、今日からまた“初めまして”の友達として、よろしくお願いします」
芽衣も笑って、頷いた。
「うん。でも、“もう知ってる”友達として、でもいいよ」
背後の電柱の上、そこにはもうアニマの気配はなかった。
観測者の仕事は、また一つ終わったのだ。
校門の前で待っていた翔太郎と璃桜が、その様子を静かに見つめていた。
「……記憶は戻ってない。でも、感情が繋いでる。そんなこと、あるんだな」
「あるわよ。“覚えてる”ってことは、必ずしも“思い出す”ってことじゃない。“感じてる”だけでも、十分残る」
「ふたりとも、“忘れてる”ことを恐れてない顔してたな」
「うん。きっと明日また忘れても、また笑い合えるって信じてる」
そのとき、芽衣がこちらに気づいて手を振った。
「翔太郎くん、おはよう!」
「……お、おう!」
「私、今日はちゃんと覚えてるから!」
翔真も手を振った。
「たぶん明日も、また“おはよう”って言えると思います!」
翔太郎は、ぽりぽりと頬をかきながら、隣の璃桜にぼやいた。
「……なんかもう、“観測者”ってより“親戚のおじさん”みたいな気分になってきたな」
璃桜は微笑んだ。
「でも、私たちにしか“観測できない”大事な瞬間だったと思うわ」
翔太郎は静かに頷いた。
ふたりの心が、記憶を超えて繋がった朝。
それは、確かにこの街のどこかで起こった、ひとつの“奇跡”だった。
(第6話 完)