朝、校門前。
「……えっ、火事? でも逆に考えれば、今日洗濯物干さなくて済むね!」
そう言って笑う女子生徒を見て、翔太郎はおもいきり固まった。
「……いや、逆ってなんだよ。火事だぞ?」
翔太郎の目の前には、通学中の生徒たちがごく自然に“前向きすぎる異常”を口にしていた。
「財布落としちゃったけど、むしろ軽くなってラッキー!」
「数学全然わからないけど、脳の休養になるよね!」
「階段から落ちたけど、転がる楽しさって意外とあるね!」
「ないよ!!」
翔太郎の叫びは、誰にも届かない。
皆、口々に“前向き”な言葉を発している。だがそれは、励ましでも元気づけでもない。
“強制された前向きさ”だった。
「あいつら、どいつもこいつも目が笑ってないのに口角だけ上がってやがる……」
翔太郎は背筋に冷たいものを感じた。
(おかしい。これは絶対、アニマの仕業だ)
そのとき、校庭の隅から、ゆるやかな声が聞こえてきた。
「今日も元気だね、みんな!よかった~!」
その中心にいたのは――瑞紀だった。
ピンクの髪を揺らし、ふんわりと笑顔を振りまく彼女。
だが、その周囲には明らかに“何か”が渦巻いていた。
目に見えない“暖色のもや”のようなものが、校内の空気に溶け込んでいる。
(これは……“感情感染型アニマ”?)
翔太郎の脳内に、過去の記録がよみがえる。
アニマの中には、“対象の感情を増幅させる”タイプが存在する。
怒りを増幅すれば暴動になる。悲しみを増幅すれば集団ヒステリー。
ならば――“ポジティブ”を増幅させたら?
(……それが今の、この“異常な前向きさ”か)
そしてその中心にいるのが――
「……瑞紀、お前か……!」
彼女は悪気などまったくない顔で、近寄ってきた翔太郎に手を振った。
「あっ、翔太郎くん!おはよう!」
「……お、おう」
「今日、靴下左右逆だったの。でも逆に、ファッションに個性出ててラッキー!」
「ちょっと待って、今の普通に“逆効果”だからな!?個性じゃなくて違和感だからな!?」
「そっか、ありがとう!注意してくれて嬉しい!」
「いや、聞いてねええええええええええ!」
どこかで、“もうこれは駄目だ”という直感が走る。
そのとき璃桜が現れ、状況を即座に察知して言った。
「……翔太郎、あれ、完全に“ポジティブ汚染”よ。瑞紀の周囲、半径20メートルが“前向きフィールド”になってる」
「前向きフィールドってなんだよ、反射で“いいことしか考えられない”バリアかよ!」
「そう。あれは、アニマが瑞紀の感情を“拡張”してるの。本人に悪意はない。でも、このまま広がると――」
璃桜は、カバンから観測ノートを取り出し、さらりと続けた。
「一帯の教師が“逆に授業失敗しても気にしない精神”になって、全員、自習を許可しはじめたわ」
「おいもうすでに壊滅してんじゃねえかこの学園!!」
翔太郎は昼休みに入った校舎内を、静かに――いや、内心は相当に焦りながら移動していた。
目的地は三年の教室。そこに今、瑞紀がいる。噂では、昼休みのあいだに“ポジティブ感染者”が全校に広がりつつあるという。
(急がないと……このままだと“学校全体が前向きになりすぎて崩壊する”!!)
現象としては地味だが、影響範囲が広すぎる。
すでに体育教師は「失敗こそ青春だ!」と大声で叫びながら体操服のまま校庭を5周しており、音楽教師は「間違ってもいい、魂で歌え!」と言って校歌の替え歌を強要中、そして家庭科の教室では「焦がしたって香ばしい!」という声と共に、黒焦げのホットケーキが歓声を浴びていた。
「もう手遅れじゃねえかこれ……!」
翔太郎が悲鳴を上げたそのとき、目の前の廊下を、ニコニコ顔の瑞紀が歩いてきた。
「はぁい!翔太郎くん!今日も元気そうでよかったぁ!」
「よくない!!全員おかしいってば!!」
「えっ、でもみんな笑顔だよ? 幸せそうな顔してるよ?」
「……その“幸せそうな顔”が全員、目元死んでるの見えてないのかお前……」
たしかに、瑞紀は“良い子”だ。誰かに怒ったり、嫌味を言ったりしたところは見たことがない。誰にでも好かれていて、周囲の空気を和ませる。けれど――今の彼女からは、“異質なまでの明るさ”が滲み出ていた。
瑞紀の後ろを通る生徒たちが、自然に肩を寄せ合いながら、口々に褒め合い、笑顔を見せる。だがそのすべてが、まるで“義務”のように強制されたポジティブだった。
「うーん……私、なにか“悪いこと”してるのかなぁ?」
瑞紀は首を傾げながら、心から申し訳なさそうな顔を見せる。
その顔がまた“罪のない空気”を作り出すから始末が悪い。
璃桜が廊下の奥から駆け寄ってきた。
「翔太郎、調査完了。瑞紀の周囲に“感情投射型のアニマ”が憑いてる。ポジティブな感情を拡張し、周囲に“前向きな錯覚”をばらまいてるわ」
「つまり、瑞紀が“ちょっとでもいいこと思っただけ”で、周りの人間が“最高!って思い込む”ってこと!?」
「そう。今なら、校長が“停電になっても、逆に教育的だ”って言って全授業中止にしてる」
「やべぇよもう!!」
「でも、本人の精神は侵食されてない。ただ……彼女の“素のポジティブさ”がアニマによって“拡張強化”されてるだけ。根っこに悪意がないぶん、取り除くには“逆方向”の感情で相殺するしかない」
「逆方向……つまり“ネガティブ”?」
璃桜はうなずいた。
「そう。“適度な絶望”が必要なのよ」
「そんなもん、どうやって届けるんだよ……!」
「あるわよ。今、屋上で“人生詰んでる顔”してる男子を拾ってきた」
「物騒な言い方するなよ……!」
現れたのは、真吾だった。
顔に薄く疲労の色を浮かべ、手に文庫本を持ち、ひたすら屋上で沈黙を貫いていたという逸材。
「……僕、なんで呼ばれたんでしょうか」
「真吾、今の学校の状況をどう思う?」
「……陽キャが集団感染したようで、非常に居心地が悪いです」
「それそれぇぇ!!それが必要だったのぉぉぉ!!」
璃桜は小さくガッツポーズを取る。
「真吾の“心からの陰コメント”を、瑞紀の“ポジティブ感染圏”にぶつければ、中和できるはずよ」
「え、僕、なんか“悪役的役割”になってません……?」
「いいの!そのままの君でいて!」
「言われて嬉しくない肯定だこれ……!」
翔太郎と璃桜の見守る中、真吾は瑞紀に接近していった。
瑞紀はふんわりと笑って言う。
「あ、真吾くん!この学校、いいところだよねっ。みんな明るくて!」
真吾は、感情を込めずに返す。
「そうですね。毎朝、同じ角度の朝日が同じ窓から射し込むのが、唯一の変化ですね」
「え、あっ……そ、そう……?」
瑞紀の笑顔が、わずかに揺れた。
「それに、給食のカレーが“いつもおいしい”と言う人がいますが、私は一度も“普通”以上を感じたことがありません」
「うっ……」
「生徒たちは笑ってますが、内容のない会話ばかりです。話しているうちに“沈黙”のほうがましに思えることが、よくあります」
「うわぁああ……」
瑞紀の笑顔が、明らかに“耐えきれない”ものに変わった。
「えっと、その……うーんと……それって逆に、沈黙の時間を大事にできるってことかな……?」
「無理しないでください。僕のような人間は、“無理に明るい話題を振られること”が一番つらいんです」
「ご、ごめんなさぁぁぁいっ!!」
その瞬間――瑞紀の周囲に漂っていた“陽気なもや”が、ぱちんと弾けて消えた。
校舎全体に張りついていた“前向きの膜”が、ふっと薄れ、生徒たちが頭をかきながら現実を取り戻し始める。
「……あれ?俺、階段から落ちてたのに笑ってた?なにそれこわっ」
「財布落としたのに“逆に身軽”とか言ってた……私、壊れてた……?」
「……なんかすごい寒気がする」
混乱はあったが、校舎には“普通のテンション”が戻っていた。
璃桜が観測ノートに記録しながら言った。
「よし。ポジティブアニマ、消失確認。感染解除」
翔太郎は肩を落とした。
「長かった……まさか“善意”の暴走が一番しんどいとは……」
その横で、瑞紀が両手を合わせて深く頭を下げた。
「ごめんなさい……わたし、自分がそんなに影響与えてるなんて思わなくて……」
「いや、瑞紀のせいじゃねえよ。むしろ“お前がポジティブすぎる”って褒め言葉だよ。怖いけど」
「……ありがとう!でも、次からは“やりすぎない笑顔”を心がけてみる!」
「うん、ちょっとくらい不安が顔に出てた方が安心するって、わかったよ……」
翔太郎が本気でそう思った春の日の午後だった。
(第8話 完)