「――え? 聞こえてた? うそ、声に出してないよ……ね?」
それは、教室の隅っこの何気ない昼下がりだった。
美術の授業が終わり、机に顔を伏せながらスケッチブックを眺めていた真由子が、ふいにそう呟いた。
翔太郎は、ちょうど通りかかったタイミングで彼女の“つぶやき”を耳にした。
――なんで今日、翔太郎くん髪寝癖ついてるのに気づかないのかな……ちょっと面白い。
それが、聞こえてしまったのだ。
“声”ではなく、明らかに“心の中の声”として。
「え? えっ? 今の……真由子、言った?」
翔太郎が驚いて聞き返すと、真由子は慌てて首をぶんぶん振った。
「ううん!なにも言ってない!でもなんか……伝わっちゃった……?」
その瞬間、隣の席にいた悠真が、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺のこと、今“すぐカッコつける”って思ったでしょ……?」
「ち、ちが……ごめんなさいっ!」
真由子が顔を真っ赤にして机に突っ伏す。
周囲では、クラスメイトたちがざわつき始めていた。
「え、今の……なんか、聞こえたよね?」
「うん、心の声みたいなやつ……でも、ちゃんと意味があった」
翔太郎の脳裏に、ピキン、と警鐘が鳴る。
(これ、アニマの仕業だ……!)
そして昼休み。
状況は、一気に深刻化した。
「……あ、なんか分かった。あの人、いつも給食残すの、苦手なんじゃなくて嫌いだったんだ」
「っていうか今の、“声”じゃなかったよね? 感情?心の声……?」
廊下でも、トイレでも、購買前でも。
“真由子の思考”が、そのまま“周囲に共有”される現象が発生し始めた。
しかも彼女自身、コントロールができない。
考えた瞬間に、それが“電波のように”周囲の頭に届いてしまうのだ。
「真由子!それ、今も続いてるのか!?」
「うん……止めようとしても、ぜんぶ……届いちゃう。思った瞬間に、みんなに……」
「なんで私、昨日のおでんに大根2個も入れてたかとかまでバレてんの!?恥ずかしい!!」
「っていうかさ、あの男子が“女子のジャージ似合ってるな”って思ってたのも……真由子の感想でバレたし!!」
真由子は肩を縮こませ、震えるように言った。
「わたし、言葉にするのが苦手だから……思ったこと、そのままにしてたのに……。今、それが……全部、漏れてる……」
翔太郎は、彼女のその表情に、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
彼女の“繊細さ”が、そのまま世界に晒されている。
しかも彼女自身には悪意が一切ないのだ。
それゆえに、暴走は“完全に無差別”だった。
璃桜からのメッセージが届く。
《確認完了。アニマ“共感伝導体”が憑依している。タイプ:感情中継型。対処法:伝導対象を遮断する“共鳴遮断フィールド”の展開が必要。準備中》
翔太郎は思った。
(その準備が整うまで、この暴走をなんとか止めなきゃ……!)
だが次の瞬間――
「え、翔太郎くんって実は“自分無難って言うけど、根っこは結構目立ちたがり”って思ってた……!?」
「言うなあああああああああ!!!!!」
翔太郎の“隠された本音”が、まさかの“第三者フィルター”経由で漏洩されてしまった。
こうして、街は“真由子の心の声”によって混沌へと沈んでいく。
「こっち来ないで!本音バレる!」
「お願いだ真由子!せめてこっちを見ないで!」
昼休みが終わる頃には、真由子の半径15メートルが“沈黙地帯”となっていた。誰も彼女に近寄らない。というより、近づけない。
“真由子の思考”は、言語に変換されるより速く、周囲の頭の中に“そのままのニュアンス”で届いてしまう。
『あの先生、今日スカート裏返しだ……可愛いけど教えてあげたほうが……いやでも恥ずかしいしな……』
『昨日の夢の内容が微妙に残ってる……誰にも言えないやつ……』
『あの子のペンケース、実はすごく可愛いけど、自分が褒めると逆に空気悪くなる気がする……』
それらは、真由子が“声にしていない感情”であり、本来なら“本人の中だけ”に存在するはずのもの。
だが今、それが周囲に“強制的に共有”される。
「うぅぅ……どうして、こんな……!」
教室の隅で膝を抱える真由子は、泣きたい気持ちをぐっと飲み込んでいた。
誰かの心を傷つけたわけじゃない。嘘をついたわけでもない。
けれど今、彼女の“感性”は――“害”とされていた。
翔太郎はそっと近づきながら言った。
「……大丈夫だ。お前は、悪くない。これはアニマのせいで起きた異常で、お前の性格が悪いとか、思慮が足りないとかじゃないから」
「……でも……私、何もしてないのに……なのに全部、ばれて……みんなが……」
「それ、さっきからずっと聞こえてるから!?」
「ひゃっ!?ご、ごめんなさいいいい!!」
真由子がパニックになって頭を抱える。
その直後、周囲からも叫びが響いた。
「うわっ、俺が“この服ダサいな”って思ってたのバレた!!」
「っていうか、私が“今日の給食薄味”って思ってたの、給食係の子にバレてた!?」
「“先生、今日ちょっとテンション高すぎ”っていう空気感、全員伝わってるぞ!!」
まるで“心の声で全員が即バレする地獄”と化していた。
翔太郎は璃桜からのメッセージを確認しつつ、対処法を頭の中で整理する。
(璃桜の言ってた“共鳴遮断フィールド”が使えるのはあと30分後。つまりそれまで、真由子の“心の声暴露範囲”を“抑える”か“隔離”しないと――)
「真由子!お前今、何考えてる!?」
「えっ!?えっと……翔太郎くん、怒ってる……けど、優しい声で話してくれる……ちょっと、うれしい……けど、でもやっぱり恥ずかしい……うああああっ!!」
「今のだけピンポイントで超恥ずかしいじゃねえかああああ!!!」
しかし、翔太郎の中でふと、ひとつの仮説が浮かんだ。
(“感性の暴走”ってことは、逆に“感性を制御”できる状況を作れば、伝導範囲も制限できるんじゃ……?)
そのとき、後ろから龍平が歩いてきた。
静かで、落ち着いた目つき。いつも通り、ゆっくりとした口調。
「……“遮断”は無理でも、“整理”はできるかもしれない。真由子さんが、“伝えたいこと”だけを自分で選んで、意識にのせてから“心で思えば”……他のノイズは減らせる」
「それ……感情のフィルタリング……ってことか?」
龍平はうなずく。
「僕が近くで“伴奏者”になる。“感性”は独奏より、アンサンブルの方が“調和しやすい”。」
「……なんか詩的だけど……妙に納得できる……!」
そして始まったのは、前代未聞の作戦。
“真由子の感性”に、龍平の“安定した精神波”を添えて、外への出力を“整理”するという行動だった。
結果――
『今日はちょっと疲れたけど、翔太郎くんの声が安心する。』
『龍平さんの落ち着き、すごく頼もしいなって思った。』
『みんなが、怒ってなくてよかった……ほんとに、ありがとう……』
その“声”が教室中に広がったとき――
誰もが、ふと目を伏せた。
誰も、笑わなかった。
そして――小さく、拍手が起こった。
拍手の音は決して大きくはなかったが、そこにあったのは“嘲笑”ではなかった。
感情が、言葉より先に“伝わってしまう”世界――
そのなかで、真由子の“正直な想い”に、誰もが“返答”を試みた瞬間だった。
「……なんか、いい声だったな」
「うん。なんか、ちょっと泣きそうになった」
「“伝わっちゃう”って怖かったけど……“本当の気持ち”って、やっぱり温かいもんなんだな……」
翔太郎は、拍手の輪から一歩外れた場所で、深く息を吐いた。
「……まったく、こっちは生きた心地しなかったけどな……」
背中に汗をかきながら、ふと横を見ると、璃桜が校舎裏から歩いてくるのが見えた。
彼女は手に“共鳴遮断フィールド”の起動デバイスを持っていた。
「翔太郎、フィールド起動準備完了。あとは真由子の承諾次第で展開する」
「……もう少しだけ、待ってやってくれ」
璃桜は、少しだけ目を細めたあと、静かに頷いた。
そのころ、教室では龍平が静かに真由子に語りかけていた。
「伝わることって、こわいけど……同時に、うれしいことなんだよ。人は、言葉の裏に隠れた気持ちを探すけど……君の言葉は、それが全部“表”にあるだけなんだ」
「……でも、それで……誰かを困らせたり、びっくりさせたり……」
「うん。それもある。けど、君の心は、誰よりも“まっすぐだった”。それだけは、僕も翔太郎も……きっと、みんなも感じたと思う」
真由子は、両手で顔を覆いながら、小さく頷いた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、璃桜の方へ歩み寄った。
「……お願いします。もう、普通に戻りたいです」
「了解。“遮断フィールド”、展開するわ」
璃桜が手元のデバイスを起動すると、真由子を中心にやわらかな“音のない光の輪”がゆっくりと広がった。
その波紋が周囲に届いた瞬間――
“心の声”は、完全に消えた。
聞こえない。
感じない。
静けさが戻った。
「……あ、戻った……」
「すごい。今、頭の中がすっきりしてる」
「でもなんか……ちょっとだけ、さみしいかもな」
真由子が、そっと口を開いた。
「えっと……えへへ、これで、もう頭の中がバレることも……ない、です」
誰もが、今度は“言葉で”笑った。
翔太郎が肩をすくめて近づいた。
「よう、心の声はもう聞こえないけど……お前が今ちょっとホッとしてるのは、顔に出てるからわかるぞ」
「……あ、そっか。やっぱり……伝わっちゃうんだ」
「言葉じゃなくてもな。顔とか、空気とか、目とかで十分だ」
「……じゃあ、今度は、ちゃんと“声に出す”ように、頑張ります」
「うん。そっちはちゃんと聞いてやるからさ」
その言葉に、真由子は少し涙を浮かべて、でもはっきり笑った。
その日から、真由子の“心の声”は外に漏れることはなくなった。
だがそれでも、彼女が誰かに伝えたい気持ちは、ちゃんと“届いている”ようだった。
一週間後。
放課後の教室。
翔太郎の背中に、ふと声が届いた。
「……翔太郎くん、今日も“寝癖、片方だけ残ってる”よ」
「今、心の声じゃなくて実際に言ったよな!?すげえ恥ずかしいんだけど!?」
「ふふっ……ちゃんと、声に出せたから」
翔太郎はため息をつきながら、それでも口元は少しだけほころんでいた。
(第10話 完)