朝の通学路。薄曇りの空の下、翔太郎はいつものコンビニに寄ろうとした。
だが店の前に異様な光景が広がっていた。
「じゃあ、先に店入った方が勝ちな?」
「望むところよ……ってうわっ!」
制服姿の高校生たちが、レジ前で全力ダッシュのスタートを切った。
コンビニのドアが「ピンポーン」と鳴るたびに、そこには勝利か敗北のセリフが響く。
「俺の勝ち!パンゲット!」
「くっ……ジャムパンが奪われた……っ!」
「え、なにこの“コンビニバトル”!?」
翔太郎が目を疑っていると、すれ違った小学生たちが叫んだ。
「先に信号渡った方がチャンピオンね!」
「なんでも“勝負”にするなってば!!」
さらに駅前ロータリーでは、スーツ姿のサラリーマン同士が
「どちらが先に改札を抜けるか、勝負だ」
「我が社の誇りにかけて!」
などと言いながら、全力疾走で改札を挟んで競り合っている。
「うわぁ……今日の街、なんか張りつめてる……」
璃桜が隣でメモを取っていた。
「確認済み。“勝負強制型アニマ”の影響ね。接触した人間はすべて、日常の行為に“勝敗”を見出すようになる」
「じゃあ、今日一日中、何してても“バトル判定”が発生するってことかよ!?」
「うん。昼休みの“給食を食べる速度”ですら勝敗が出る。すでに校内で三回“味噌汁早飲み競争”が起きてるわ」
「胃腸が荒れるわ!!」
そのとき、ひときわ静かな足取りで歩いてきたのが――聖子だった。
ふわりとしたスカートに文庫本を抱え、真顔で駅前の自販機に立つ。
「……今日は、ミルクティーにしようかな」
だがその背後に、突然現れる影。
「俺と“どっちが先に買えるか勝負”だ!!」
学生服の男が叫ぶ。
だが――聖子は一歩も動かない。
「……どうぞ」
「……え? いや、あの……」
「私は買いません。今、喉が乾いてないので」
「勝負にならねええええええ!!」
「そうですね。なってませんね」
その静かな“スルー”は、全自販機の勝負強制判定を無効化した。
「……おい、今の見たか?」
翔太郎が呆然とする。
「見た……というか、聖子さんだけ“勝負空間”に入ってなかった……?」
「というか、あの人、そもそも“勝敗”に意味を見出してないから、“判定が起こらない”……?」
聖子は、街が勝負に燃えていることにすら気づいていない様子で、再び文庫本を開いた。
「……物語の結末って、勝ち負けじゃないから。最後までどう読むか、が大事なのよね」
「その台詞が一番“勝負を終わらせてる”……!」
こうして街の勝負バトルは、静かなる“無敵のスルー女”聖子を中心に、新たなステージへ向かう――。
昼休みの校庭。
そこはすでに、日常とはかけ離れた“バトルフィールド”と化していた。
「いいか!お前ら、焼きそばパン争奪戦・最終ラウンドだ!」
「フォークvs箸の最終決戦も同時開催だぞ!」
「それより“どっちが一口でプリンをきれいに食べられるか選手権”の準決勝が……!!」
もはや給食ではなかった。これは戦場だ。
「やめろォォォォォォ!!俺の“昼休み”を返せえええええ!!」
翔太郎の叫びが、虚しくグラウンドに響いた。
校内の至るところで“勝負判定”が発動していた。
廊下のすれ違いざまには「どっちが先に角を曲がるか勝負」。
トイレでは「手を洗う速度勝負」。
音楽室では「どっちが高音を先に出せるか」。
理科室では「試験管にどっちが先に水を満たすかバトル」。
「なんで全部に“VS”がついてんだよ!!意味わかんねぇよ!!」
璃桜は観測デバイスを手に、眉間にしわを寄せた。
「これは深刻ね……アニマの影響で“優劣判断領域”が拡大してる。“存在するだけで”勝ち負けを意識する思考回路になってる」
「つまり“勝たなきゃ存在価値がない”みたいな空気が街中に充満してるわけかよ!?おそろしいぞそれ!」
「……人間の本能的な“競争欲”が、アニマに共鳴して暴走してるのね」
そんな中、唯一――まったく影響を受けていない者がいた。
聖子。
「聖子さーん!こっちで“カルタバトル”が始まりそうなんですけど!参加しますかー!?」
「……結構です」
「では“見学勝負”はいかがですか!?先に“うなずいた方の勝ち”ってルールなんですけど!」
「無視します」
「“呼びかけ無視力選手権”が発生してるぞ!?なんだその競技は!?」
聖子は、理科準備室の静かな片隅で一人、読書を続けていた。
白線も、ジャッジも、ルールも、彼女には通じない。
「勝つ意味って、他人の尺度に依存するのよね。私、他人の基準で動いてないから」
「そりゃアニマの反応もしねえわ!!」
実際、聖子の半径5メートル以内だけは“判定不能空間”になっていた。
翔太郎は、必死にその“スルー空間”へ避難する。
「はぁ……ここだけ、ほんとに静か……」
「私、あんまり騒がしいのは好きじゃないから」
「……それ、すごいパッシブスキルだな」
そのとき、グラウンドの放送が鳴り響く。
『緊急速報!校内決戦“勝ち点王決定戦”を開催します!ルールは簡単!このあと10分間で“もっとも多くの勝利”を得た者が、優勝者に認定されます!勝利条件はなんでもあり!!』
「なんでもあり!?つまり“ジャンケン20連勝”とかでもアリってことかよ!?」
「誰か“息を吸う速さ”とかで挑んでそう……」
翔太郎は遠い目をした。
そして、グラウンド中央でひときわ目立つ声が響いた。
「俺と勝負だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
そこにいたのは――翔平だった。
「翔平おおおおおおおおお!?お前そっち側かよおおおお!!」
「いや違うんだ翔太郎!!俺はただ!困ってそうな奴らの代わりに“勝負を代行してあげてる”だけなんだ!!」
「それ一番めんどくさいやつぅぅぅぅ!!!」
対戦相手たちが次々に翔平に挑み、翔平はすべてに応じる。
「給食皿の早片付け勝負だな!了解!!」
「足の指を曲げる速さ勝負!?のぞむところ!!」
「国語辞典で“さしすせそ”を先に開く勝負!?全力で受けて立つ!!!」
「やめてくれえええええええ!!!」
翔太郎は頭を抱えるしかなかった。
そのとき、聖子がふと口を開いた。
「……翔太郎くん、逃げてもいいのよ。勝負って、“拒否する自由”があるから」
「でも、もしも全員が“勝ち負け”しか見えなくなったら、“拒否する”こともできなくなるんじゃないか?」
「なら、私が“拒否し続ける側”でいればいい」
その言葉に、翔太郎は少しだけ肩の力を抜いた。
「……あんたって、すげえな」
「そう?」
「うん。“勝たない”ことを、“負け”って思ってないんだもんな」
「ええ。“勝ち”も“負け”も、物語の途中にあるだけよ」
翔太郎は、勝負のざわめきが響く校舎の奥で、聖子の静けさが確かに“答え”である気がしていた。
勝敗に染まった街は、もはや狂気と紙一重だった。
信号は「赤で止まる」ことすら競技化され、止まった人数に応じて“勝利エフェクト”が流れる。
駅のアナウンスも
「次に電車へ乗る方は“乗車タイミング勝負”をお楽しみください」
などと言い出す始末。
授業中の教室では、“板書写し選手権”が展開され、生徒たちの眼鏡が曇り始めていた。
廊下では、“黒板消しを真っ直ぐ戻せるかバトル”に夢中になる教師たち。
「だめだ……!全員“勝ち負けの亡者”になってる!!」
翔太郎は机の下に避難しながら呟く。
「このままじゃ、“笑った回数ランキング”とかで友情壊れるぞ……」
璃桜が観測デバイスを握りしめたまま言う。
「勝敗のルールを可視化するアニマ……“勝つ意味”が肥大化して、言葉や感情にすら順位がつき始めてる」
「それ、ヤバいぞ!“ありがとうの質”とか、“好きの重さ”に順位がつく世界になるじゃねぇか!」
「ええ。つまり“気持ちすら勝敗で管理される”という未来ね。最悪よ」
そんな中。
たった一人、校舎の屋上で静かに風に吹かれていたのが――聖子だった。
彼女の足元だけ、まるで“判定不能”のエリアで、空間がバグったように静かだった。
翔太郎と璃桜、そして遅れて現れた真吾もその場に辿り着く。
「……よかった、ここだけは“静か”だ……」
「ここだけ、“勝負空間”が展開されてない……?」
聖子は本を閉じて、ぽつりと呟く。
「“勝ち”に興味がない人の周囲では、勝負は成立しない。それだけの話よ」
「でも、それだけのことが今の街じゃ“奇跡”なんだよな……」
翔太郎が空を仰いだ。
空には、巨大なホログラムで“勝敗ランキング”が表示されていた。
“翔平:現在235勝”
“担任の先生:49勝(ただし“早弁”関連のみ)”
“保健室の猫:6勝(午睡対決)”
翔太郎は自分の名前を探してみたが、どこにもなかった。
「俺、“1勝”もしてない……」
そのとき、聖子がふと口にする。
「翔太郎くん。じゃあ、“負けた”ことはある?」
「……いや。勝負に“参加してない”から、負けたこともないな」
「それなら、あなたは“無敗”ってことね」
「いや、それ言い方の問題だから!!」
聖子は微笑んで首を振った。
「大事なのは、誰かに勝つことじゃない。“何に負けてないか”よ」
翔太郎は、それを聞いて初めて気づいた。
街の皆が“他人に勝つ”ことばかり見ていて、誰一人“自分に負けない”ことを考えていなかったことに。
璃桜がデバイスに手を伸ばし、静かに設定を変更する。
「“勝ち負け判定フィールド”、解除コードを送信するわ。聖子の“勝負回避波長”を基準にして」
「そんなもんあるのかよ!?」
「今作った」
コードが送信された瞬間、街の空に流れるホログラムがふわりと色褪せていった。
勝敗が消え、得点が霞み、ランキングが霧のように解けていく。
“勝ち”の意義が消えたわけじゃない。
ただ、“勝つためだけに生きる必要がない”という感覚が、静かに広がっただけだった。
「勝ち負けって、もっと“遊び”でよくないか?」
そんな翔太郎の言葉に、聖子はやんわりと頷いた。
「それはそれで、“勝ちにこだわる人”には負けてるかもね。でも私は、それでいい」
“勝たない強さ”。
“負けない在り方”。
聖子はそれを、ただ静かに、生き方で示していた。
(第14話 完)