放課後の校舎――。
空はオレンジに染まり、部活帰りの生徒たちがちらほらと歩く中、異常は静かに始まっていた。
「……なあ、なんか今日、褒められすぎてない?」
翔太郎が自販機の前でぼそっと呟いた。
「さっき購買でパン買っただけなのに“選び方がセンスいい”って言われたし、ロッカーに靴突っ込んだら“靴入れの角度が天才的”って……」
「そのレベルの褒めって、もう“才能発見ゲーム”だよな……」
隣でうなずくのは真吾。彼の腕には、すでに“文字だらけの賞状”が三枚貼られていた。
《マナー部門MVP》
《あいさつ時の声質が快いで賞》
《優しい笑顔部門:銀賞》
「一日でこんなに褒められたの、生まれて初めてなんだけど……」
そこへ、笑顔で走ってくる一人の女子生徒――杏菜。
彼女が近づいてくるたびに、空気がふわりと明るくなる。
「翔太郎くん、今日もシャツの第一ボタンが“絶妙に締まってて落ち着く”感じだね!」
「褒め方がピンポイントすぎる!!」
「真吾くんは、その“飲み込みのうなずき方”が“安心感を与える水面の波紋”みたいで素敵!」
「なんだそれ!?情景詩か!?俺たちいま文学化されてる!?」
翔太郎と真吾が同時に叫ぶ。
だが杏菜は止まらない。
校内を歩く生徒一人一人に、超精密かつやたらポジティブな褒め言葉を浴びせ続けていた。
「目が合った瞬間の“まつ毛の角度”が最高だった!」「その持ち方、心理的安定感ある!」「その溜め息、人生への繊細な応答ですね!」
翔太郎は璃桜にすがる。
「これ、やばいやつだろ!?杏菜、絶対アニマに感染してるって!!」
璃桜は頷きつつ、観測ノートをめくる。
「確認済み。“信頼構築型アニマ”。褒めることで信頼度を上げ、相互承認によってエネルギーを得るタイプ。過剰なポジティブが伝染して、最終的に……」
「最終的に?」
「世界が“信頼”で爆発するわ」
「何そのバカみたいな終末!!逆にこええよ!!」
翔太郎の叫び声を背に、杏菜が校舎の角を曲がって再びこちらへ。
「さっきの叫び、めっちゃいい声量!怒りの中に“責任感”がにじんでて素敵だったよ翔太郎くん!」
「くるなああああああ!!もう褒めないで!!俺のメンタルがもたねぇ!!」
翔太郎は逃げ出した。
だがその背後には、もうひとつの恐怖が迫っていた。
“褒め返し”。
「いや、でも……杏菜も、すごいよな……」
真吾がぽつりとつぶやく。
「この空気の中でも“みんなを笑顔にできる”って、やっぱり杏菜じゃなきゃ無理だよ」
ピコン。
《信頼度上昇:杏菜→真吾 +10》
「うわああああ!!褒めたら“自動で褒め返しシステム”が起動したああああああ!!」
「真吾くんの“素直な褒め方”、それこそが“人間関係の潤滑油”だね!!すごく……いい!!」
翔太郎が遠くで叫んだ。
「やめろおおお!!褒め合いが止まらない!!このままだと街が“褒めの連鎖”で崩壊するぞおおお!!」
こうして、世界は褒めに包まれていく。
校舎の廊下――。
「昨日よりも落ち着いた歩き方だね!地に足がついてるって、まさにこのこと!」
「窓を拭く手の角度が美しいです!あなたこそ“清掃の魔術師”!」
「机に置いた筆箱の“自然な傾き”に、人生の流れを見たよ!!」
校内全域に“過剰な褒め”が響き渡る。
誰もが笑顔――だがその笑顔は、どこか引きつっていた。
「褒められるのって、こんなに疲れるもんだっけ……?」
「オレ、今日だけで“存在してくれてありがとう”を12回言われた……」
「“目の奥が優しい”って、具体的にどういう意味なの……?」
教室内は、まるで“誰も傷つけないために全力で言葉を研磨した空間”のようだった。
「……地獄だ、ここ……。全員が“褒め返しの義務”に縛られてる……」
翔太郎は黒板に額をぶつけながら呻いた。
「褒められたら、褒め返さないと“冷たい”って思われるし……でも、無理に褒めようとすると、今度は“嘘っぽい”ってなるし……!」
「翔太郎くん、その悩み方が“誠実さの証明”だよ!深く考えられるって、本当にすばらしいこと!」
「やめろォォォォ!!杏菜ァァァァ!!今のは普通に悩んでただけだろ!!」
「その“悩みの声”のトーン、聞き手への配慮がにじんでて、とっても心に響いたよ!」
「だぁぁぁああああああ!!俺の尊厳が過剰に評価されていくううう!!」
璃桜が冷静に口を開く。
「このままだと、街中が“無限承認ループ”に陥るわ。全員が褒め合うことで、相互に“信頼度”が飽和していく。最終的には、“褒めが通貨”になり始める」
「そんな社会いやだあああああ!!」
「実際、購買で“ジュースください!”って言ったら、“その声素敵ですね”って返されて買えなかったわ。“言葉の対価”が褒め合いになってる」
翔太郎はこめかみに指を当てながら呻く。
「もう言葉の意味が崩壊してる……“褒めないと会話が成立しない”って、それも一種の異常だよな」
「ええ。しかも、“本音”が言えなくなる。“ちょっとしんどい”って言った瞬間、“それでも頑張ってるあなたは偉い”って“上書き”される」
「つまり、ネガティブな感情すら許されなくなってきてる……!」
そのとき、杏菜がふと立ち止まった。
彼女の笑顔に、ほんの少しだけ“迷い”が混ざっていた。
「……あれ? なんでだろう。私、さっきから、みんなの目がちょっと“遠い”気がして……」
翔太郎は、一歩だけ近づいて言った。
「杏菜。お前……いま、“本気で褒めてる”か?」
「……え?」
「お前の言葉、最初はあったかくて、俺も嬉しかった。でも今は……なんか、“義務”っぽいっていうか……“止められないから褒めてる”って感じがする」
杏菜の顔が、一瞬だけ強張った。
「そんなつもりは、なかったんだけど……」
「じゃあ、ちょっと止めてみてくれ」
「……でも、それって……怖いよ。止めたら、“私のこと、嫌いになる人”が出てくるんじゃないかって……」
「――それが、もう“褒め”じゃないんだよ」
その言葉に、杏菜の目が大きく見開かれた。
そして、その瞬間――
ピシッ。
教室の空気が、細かく割れるような感覚が走った。
空間に浮かんでいた“信頼ゲージ”が、一気にノイズを起こし、消滅した。
「今の……」
璃桜が呟く。
「“本音”が、“強制褒め空間”を破壊したのよ。“無理に褒めない勇気”が、アニマの強制ループを断ち切った」
杏菜は、胸に手を当てて息をついた。
「……怖かった。でも、“止めてよかった”って、今は思える」
翔太郎は笑って頷いた。
「お前は、“褒められるから”信頼されてたんじゃねえよ。“ちゃんと見てる”から、信頼されてたんだよ」
「翔太郎くん……」
「でもさ、俺の“寝ぐせ”に“創造的な立ち上がりですね”って言ったのは、さすがに褒めすぎだからな」
「えっ、でもあれ……芸術的だったよ?」
「やめろおおおおおお!!今はもう普通の会話に戻れ!!」
(第15話 完)