昼休み、校舎内。
「……ありがとうな、翔太郎」
教室の窓際で声をかけてきたのは、ゆっくりとした口調が特徴の翔真。
「え、なんかしたっけ俺?」
「さっき、廊下で“傘落ちた”の拾ってくれただろ」
「ああ、あれね。てか、言うほどのことじゃないって」
「でも、ありがとう」
その瞬間、バシュッと音を立てて、黒板の上に“ありがとう”の文字が浮かび上がった。
「おいおい、なんだこれ!?“ありがとう”が実体化したぞ!?まさかまたアニマか!?」
璃桜が観測ノートを構えながら近づく。
「発動源、翔真……彼の“感謝”が“現象化”してる……!」
「つまり、感謝を伝えると“ありがとう”が文字や音声として現実空間に溢れ出すってことか!?」
「ええ。そしてそれを“受け取った側”にも影響するわ。“ありがとう”が心に強制インストールされる」
そのとき、別の教室からも異変が。
「うわあああああ!!!“ありがとう”って何回言われればいいの!?俺、もう30回は“感謝されてる”んだけど!!」
「こっちは“ありがとう”が壁紙になってる!!」
「黒板が“ありがとう”で埋まってチョーク使えないんだけどォォォ!!」
感謝が、暴走していた。
翔真はゆっくり首をかしげる。
「……俺、悪気はないんだ。ただ“ちゃんと伝えたい”だけで……」
「わかってる、わかってるよ!でもな、“伝え方”が今、“物理”になってんだよ!!」
そんな混乱の中、ふらりと現れたのは――真由子。
「……なんだか、空気が“感謝の重さ”で息苦しい」
翔太郎が思わずうなずいた。
「まさにそれ。今この校舎、ありがとうの飽和状態。酸素より濃いレベルで“ありがとう”が浮いてる」
「……だったら、“感性”で流すしかないね」
真由子が、ふわりと手をかざした。
すると次の瞬間、彼女の背後から――
「アリガトウ」「ありがとう」「ありがとね」
音でも、光でもなく、“雰囲気としての感謝”が流れ始めた。
それは、言葉ではないのに“ありがとう”としか感じられない不思議な空気。
「あっ、あの……今、何かされた?」
「してない。ただ“感じさせた”だけ」
「えぇ……!?」
翔真と真由子――“ありがとうを伝える男”と“ありがとうを感じさせる女”の対話が、ここに開戦の狼煙を上げる。
そして街が、“言葉”の洪水に沈んでいく。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
校内の放送が、壊れたラジオのように、延々と“感謝の言葉”だけを繰り返していた。
教室の壁には“ありがとう”の文字が浮かび、誰かが話せば必ず“それに対する感謝”が自動で返ってくる。
まるで“感謝の義務教育”が始まったかのようだった。
「……ダメだ。もう会話にならねぇ……」
翔太郎は、疲れ果てた顔で窓に寄りかかる。
「“すみません、ノート貸してくれない?”→“ありがとう”→“いえいえ、こちらこそありがとう”→“わたしもありがとう”→“ありがとうをありがとうしてくれてありがとう”って、どんだけループすんだよ!」
璃桜はメモ帳を片手に、唇を噛みながら頷いた。
「今、翔真の“ありがとう”が感染源になって、“受けた感謝”がさらに他人に派生してる。“一度感謝された人間は、誰かに感謝したくなる”っていう拡張型アニマの影響ね」
「つまり、最終的には“街中の誰もが誰かに感謝してる状態”になるってことか!?」
「ええ。そして最悪、“全員がありがとうを口にしてないと不安になる”依存症状態に突入する」
「なにその“感謝が義務”の社会……!」
翔太郎が叫んだその背後で、保健室のドアが開く。
「翔太郎くん……ありがとう」
「だからそれやめろォォォ!!」
現れたのは、感性派・真由子。
彼女のまとう空気からは、もはや“言語ではない感謝”がにじみ出ている。
一方の翔真は、ゆっくりと廊下の奥から歩いてきた。
彼の後ろを、半透明の“ありがとう”の文字たちが浮遊してついてくる。
「……真由子さん。君は“言葉にしなくても感謝は伝わる”って言うけど……俺はやっぱり“伝えなきゃ意味がない”と思うんだ」
「……うん。でも、“伝えすぎて空気を壊す”こともあるよ」
「それでも、俺は……“ちゃんと受け取ってもらう”ことにこだわりたいんだ」
「じゃあ、ぶつかるしかないね。“ありがとうの表現”で」
二人の間に、ふわりとした光が立ち上る。
翔真が“ありがとう”を言うたびに、空間に実体が生まれ、
真由子が“感性”で返すたびに、空気が震えるように揺れた。
観測ノートの上に、璃桜の文字が乱れながら走る。
《観測結果:言葉の力と感覚の力が干渉。感謝の形をめぐって、情報フィールドに“伝達の歪み”が発生中》
翔太郎は頭を抱えた。
「感謝って、こんなにうるさくて派手なもんだったか……?」
そのとき、昇降口の上に設置されたスピーカーから、再び放送が流れた。
『現在、感謝指数が警戒ラインを超えました。“ありがとう警報”を発令します。落ち着いて、感謝のペースを落としてください』
「そんな警報あるかあああああ!!!」
その場にいた全員が叫ぶ。
翔真と真由子の“ありがとうの対話”は、感謝という概念を現実に可視化し、街を“礼の爆心地”に変えていく。
だがその混乱の中心で、翔太郎は思う。
(感謝ってのは――本来、“無言でも残るもん”だったんじゃねぇのか?)
校庭に、巨大な“ありがとう”のオブジェが出現していた。
石碑のような質感を持ち、表面にはびっしりと“翔真の感謝ログ”が刻まれている。
『ありがとう、ノート拾ってくれて』
『ありがとう、呼びかけてくれて』
『ありがとう、優しくしてくれて』
『ありがとう、気づいてくれて』
『ありがとう、そばにいてくれて』
「これが……“感謝の遺跡”ってやつかよ……」
翔太郎はその文字群を前に、やや引き気味に後ずさった。
校舎の壁には“ありがとうグラフィティ”が蔓延し、電柱の影には“感謝音声ホログラム”が繰り返し流れ続けている。
一方で、真由子の影響を受けた空間は、逆に“無言のあたたかさ”に包まれていた。
手渡された紙コップの温度。
後ろから支えられたイスの振動。
そっと差し出された絆創膏の柔らかさ。
そこには、“言わないのに伝わる”種類のありがとうがあった。
「……こんなにも“ありがとう”の手段が多すぎると、人って疲れるんだな」
翔太郎は校庭の隅に座り込み、ぼそりとつぶやいた。
璃桜が隣に腰を下ろす。
「“感謝”って、“受け手が受け取る準備”してないと、むしろ“圧”になる。翔真はそれに気づいてないだけ」
「真由子は逆に、伝えなさすぎて“気づけない人”が置いていかれるんだよな」
「……たぶん、どっちも正しい。“伝えること”も、“伝わること”も、同時に成立させるのって難しいけどね」
翔太郎は立ち上がった。
「……だからこそ、言葉と感性のバランスをとれる“通訳”が必要なんだよな。よし、やるか!」
再び真由子と翔真が対峙する校庭。
その間に翔太郎が立ちはだかった。
「ストップ!二人とも!これ以上“ありがとう”の打ち合いしたら、地面が“感謝で隆起”しちまう!!」
「……でも、俺は……ちゃんと伝えたいんだ」
翔真の静かな声。
「うん。でも、言われた方が“どう受け取るか”も、同じくらい大事だよ」
翔太郎が一歩進む。
「翔真のありがとうは、すごく正しい。でも、それが“責任”になってたら、“善意の押しつけ”になる」
翔真の肩が、わずかに震える。
「……俺、押しつけてたのか」
「ううん。君の“ありがとう”が、“嘘”じゃないのは、ちゃんと伝わってるよ」
真由子が、ふんわりとした声で言う。
「でも私は……“ありがとう”を“言わないで伝える”ことしか、できなかったから……」
翔太郎は二人の間に立ったまま、空を見上げた。
「大事なのは、たぶん“届いたかどうか”だよ。言っても、言わなくても。“ちゃんとそこに、気持ちがあるか”が、すべてだ」
しばしの沈黙の後。
翔真がゆっくりと、真由子に向き直った。
「ありがとう、真由子。俺……君の“気持ち”が、ずっとわからなかった。でも、今なら……少し、わかる気がする」
真由子も、うっすらと笑った。
「ありがとう、翔真。君が“言ってくれたこと”、今、すごく……伝わった」
その瞬間。
“ありがとう”の石碑が、音もなく崩れ始めた。
その破片はやわらかく宙に溶け、“あたたかさ”だけが空気に残った。
翔太郎は思った。
(言葉って、爆発もするけど、ちゃんと手渡せば、やさしく終わるんだな……)
街には、静かな午後の風が吹いていた。
(第17話 完)