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【第17話】翔真と真由子、ありがとう合戦

 昼休み、校舎内。

「……ありがとうな、翔太郎」

 教室の窓際で声をかけてきたのは、ゆっくりとした口調が特徴の翔真。

「え、なんかしたっけ俺?」

「さっき、廊下で“傘落ちた”の拾ってくれただろ」

「ああ、あれね。てか、言うほどのことじゃないって」

「でも、ありがとう」

 その瞬間、バシュッと音を立てて、黒板の上に“ありがとう”の文字が浮かび上がった。

「おいおい、なんだこれ!?“ありがとう”が実体化したぞ!?まさかまたアニマか!?」

 璃桜が観測ノートを構えながら近づく。

「発動源、翔真……彼の“感謝”が“現象化”してる……!」

「つまり、感謝を伝えると“ありがとう”が文字や音声として現実空間に溢れ出すってことか!?」

「ええ。そしてそれを“受け取った側”にも影響するわ。“ありがとう”が心に強制インストールされる」

 そのとき、別の教室からも異変が。

「うわあああああ!!!“ありがとう”って何回言われればいいの!?俺、もう30回は“感謝されてる”んだけど!!」

「こっちは“ありがとう”が壁紙になってる!!」

「黒板が“ありがとう”で埋まってチョーク使えないんだけどォォォ!!」

 感謝が、暴走していた。

 翔真はゆっくり首をかしげる。

「……俺、悪気はないんだ。ただ“ちゃんと伝えたい”だけで……」

「わかってる、わかってるよ!でもな、“伝え方”が今、“物理”になってんだよ!!」

 そんな混乱の中、ふらりと現れたのは――真由子。

「……なんだか、空気が“感謝の重さ”で息苦しい」

 翔太郎が思わずうなずいた。

「まさにそれ。今この校舎、ありがとうの飽和状態。酸素より濃いレベルで“ありがとう”が浮いてる」

「……だったら、“感性”で流すしかないね」

 真由子が、ふわりと手をかざした。

 すると次の瞬間、彼女の背後から――

「アリガトウ」「ありがとう」「ありがとね」

 音でも、光でもなく、“雰囲気としての感謝”が流れ始めた。

 それは、言葉ではないのに“ありがとう”としか感じられない不思議な空気。

「あっ、あの……今、何かされた?」

「してない。ただ“感じさせた”だけ」

「えぇ……!?」

 翔真と真由子――“ありがとうを伝える男”と“ありがとうを感じさせる女”の対話が、ここに開戦の狼煙を上げる。

 そして街が、“言葉”の洪水に沈んでいく。




「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

 校内の放送が、壊れたラジオのように、延々と“感謝の言葉”だけを繰り返していた。

 教室の壁には“ありがとう”の文字が浮かび、誰かが話せば必ず“それに対する感謝”が自動で返ってくる。

 まるで“感謝の義務教育”が始まったかのようだった。

「……ダメだ。もう会話にならねぇ……」

 翔太郎は、疲れ果てた顔で窓に寄りかかる。

「“すみません、ノート貸してくれない?”→“ありがとう”→“いえいえ、こちらこそありがとう”→“わたしもありがとう”→“ありがとうをありがとうしてくれてありがとう”って、どんだけループすんだよ!」

 璃桜はメモ帳を片手に、唇を噛みながら頷いた。

「今、翔真の“ありがとう”が感染源になって、“受けた感謝”がさらに他人に派生してる。“一度感謝された人間は、誰かに感謝したくなる”っていう拡張型アニマの影響ね」

「つまり、最終的には“街中の誰もが誰かに感謝してる状態”になるってことか!?」

「ええ。そして最悪、“全員がありがとうを口にしてないと不安になる”依存症状態に突入する」

「なにその“感謝が義務”の社会……!」

 翔太郎が叫んだその背後で、保健室のドアが開く。

「翔太郎くん……ありがとう」

「だからそれやめろォォォ!!」

 現れたのは、感性派・真由子。

 彼女のまとう空気からは、もはや“言語ではない感謝”がにじみ出ている。

 一方の翔真は、ゆっくりと廊下の奥から歩いてきた。

 彼の後ろを、半透明の“ありがとう”の文字たちが浮遊してついてくる。

「……真由子さん。君は“言葉にしなくても感謝は伝わる”って言うけど……俺はやっぱり“伝えなきゃ意味がない”と思うんだ」

「……うん。でも、“伝えすぎて空気を壊す”こともあるよ」

「それでも、俺は……“ちゃんと受け取ってもらう”ことにこだわりたいんだ」

「じゃあ、ぶつかるしかないね。“ありがとうの表現”で」

 二人の間に、ふわりとした光が立ち上る。

 翔真が“ありがとう”を言うたびに、空間に実体が生まれ、

 真由子が“感性”で返すたびに、空気が震えるように揺れた。

 観測ノートの上に、璃桜の文字が乱れながら走る。

《観測結果:言葉の力と感覚の力が干渉。感謝の形をめぐって、情報フィールドに“伝達の歪み”が発生中》

 翔太郎は頭を抱えた。

「感謝って、こんなにうるさくて派手なもんだったか……?」

 そのとき、昇降口の上に設置されたスピーカーから、再び放送が流れた。

『現在、感謝指数が警戒ラインを超えました。“ありがとう警報”を発令します。落ち着いて、感謝のペースを落としてください』

「そんな警報あるかあああああ!!!」

 その場にいた全員が叫ぶ。

 翔真と真由子の“ありがとうの対話”は、感謝という概念を現実に可視化し、街を“礼の爆心地”に変えていく。

 だがその混乱の中心で、翔太郎は思う。

(感謝ってのは――本来、“無言でも残るもん”だったんじゃねぇのか?)



 校庭に、巨大な“ありがとう”のオブジェが出現していた。

 石碑のような質感を持ち、表面にはびっしりと“翔真の感謝ログ”が刻まれている。

『ありがとう、ノート拾ってくれて』

『ありがとう、呼びかけてくれて』

『ありがとう、優しくしてくれて』

『ありがとう、気づいてくれて』

『ありがとう、そばにいてくれて』

「これが……“感謝の遺跡”ってやつかよ……」

 翔太郎はその文字群を前に、やや引き気味に後ずさった。

 校舎の壁には“ありがとうグラフィティ”が蔓延し、電柱の影には“感謝音声ホログラム”が繰り返し流れ続けている。

 一方で、真由子の影響を受けた空間は、逆に“無言のあたたかさ”に包まれていた。

 手渡された紙コップの温度。

 後ろから支えられたイスの振動。

 そっと差し出された絆創膏の柔らかさ。

 そこには、“言わないのに伝わる”種類のありがとうがあった。

「……こんなにも“ありがとう”の手段が多すぎると、人って疲れるんだな」

 翔太郎は校庭の隅に座り込み、ぼそりとつぶやいた。

 璃桜が隣に腰を下ろす。

「“感謝”って、“受け手が受け取る準備”してないと、むしろ“圧”になる。翔真はそれに気づいてないだけ」

「真由子は逆に、伝えなさすぎて“気づけない人”が置いていかれるんだよな」

「……たぶん、どっちも正しい。“伝えること”も、“伝わること”も、同時に成立させるのって難しいけどね」

 翔太郎は立ち上がった。

「……だからこそ、言葉と感性のバランスをとれる“通訳”が必要なんだよな。よし、やるか!」

 再び真由子と翔真が対峙する校庭。

 その間に翔太郎が立ちはだかった。

「ストップ!二人とも!これ以上“ありがとう”の打ち合いしたら、地面が“感謝で隆起”しちまう!!」

「……でも、俺は……ちゃんと伝えたいんだ」

 翔真の静かな声。

「うん。でも、言われた方が“どう受け取るか”も、同じくらい大事だよ」

 翔太郎が一歩進む。

「翔真のありがとうは、すごく正しい。でも、それが“責任”になってたら、“善意の押しつけ”になる」

 翔真の肩が、わずかに震える。

「……俺、押しつけてたのか」

「ううん。君の“ありがとう”が、“嘘”じゃないのは、ちゃんと伝わってるよ」

 真由子が、ふんわりとした声で言う。

「でも私は……“ありがとう”を“言わないで伝える”ことしか、できなかったから……」

 翔太郎は二人の間に立ったまま、空を見上げた。

「大事なのは、たぶん“届いたかどうか”だよ。言っても、言わなくても。“ちゃんとそこに、気持ちがあるか”が、すべてだ」

 しばしの沈黙の後。

 翔真がゆっくりと、真由子に向き直った。

「ありがとう、真由子。俺……君の“気持ち”が、ずっとわからなかった。でも、今なら……少し、わかる気がする」

 真由子も、うっすらと笑った。

「ありがとう、翔真。君が“言ってくれたこと”、今、すごく……伝わった」

 その瞬間。

“ありがとう”の石碑が、音もなく崩れ始めた。

 その破片はやわらかく宙に溶け、“あたたかさ”だけが空気に残った。

 翔太郎は思った。

(言葉って、爆発もするけど、ちゃんと手渡せば、やさしく終わるんだな……)

 街には、静かな午後の風が吹いていた。

(第17話 完)


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