きっかけは、トイレだった。
「なあ璃桜、俺……今日、3回連続で“トイレに呼び出されてる”んだけど……?」
翔太郎が顔をしかめながら言った。
「しかも全部“別の校舎のトイレ”で、“同じ落書き”があったんだよ。“見えてる者は気をつけろ”って、赤いマジックで書かれてる」
璃桜は観測ノートをめくる。
「過去の観測ログにはない表現。これは……“観測者にしか見えないアニマ由来の言語”の可能性がある」
「てかさ、そのあと靴箱に行ったら“カエルに道を塞がれる”って状況になってな?」
「カエル?」
「そう、すごく無表情で、“ぐえぇ”って鳴くだけなんだけど、どかないんだよ!俺が進もうとすると、ぴょんってジャンプで先回りすんの!」
璃桜の指が止まる。
「カエル型アニマ……“転回阻止型”。観測者が“真実に近づこうとした時”、干渉してくる個体と一致するわ。存在する限り、“前に進む行為”自体を妨害する」
「それ絶対、なんかの“伏線”だよな!?」
翔太郎の声が上ずる。
放課後、翔太郎はひとりで“あの廃神社”へ向かっていた。
そう――すべての始まりだった、“開かずの扉”のある場所。
夕暮れの影が、神社の鳥居を濃く染める。
「……やっぱり、ここなんだよ。俺、最近ずっと感じてた。“俺ら、見せられてる”って。世界が、演出されてるみたいな……」
そのとき、木々の間をすり抜ける風が、紙垂を揺らした。
ぎい……という音とともに、社殿の奥の扉がわずかに“きしむ”。
「……開いた?いやいや、開くなよ!!なんでこのタイミングでホラー演出なんだよ!」
そう叫びながらも、翔太郎は足を踏み出していた。
社殿の裏に続く小道。そこに――
「“ログファイルを照合しています”って文字が浮いてんだけど!?」
鳥居の上に、明らかに“コンピュータ的”なフォントで、文字が浮かび上がる。
「待って、俺これ、なんかの“世界設定画面”に足突っ込んでない!?」
そのとき、バグのようにノイズが走り、景色が一瞬だけ“ノートの罫線”になった。
「うわああああ!!なに!?紙の世界!?俺、今マンガのコマの中にいた!?えっ、どういうこと!!?」
風が止まる。
静寂の中、どこからか、声が響いた。
『観測者、翔太郎。記録は継続されている。認識が進行すれば、構造体とのリンクが強化される』
「待て待て待て、誰!?お前は誰なんだよ!?てか“構造体”ってなに!?俺の世界、もしかして……設定されてんの!?」
その瞬間、鳥居の上の文字が、最後にこう書き換わった。
《次の観測は、笑いの中に在る》
翔太郎は、言葉を失った。
世界が――“作られている”かもしれない。
そんな不安が、脳の奥に張り付いたまま、日常に戻るのだった。
翌朝。
翔太郎は、学校に着いて早々、異様な景色を目にした。
「……なんで、黒板の端に“デバッグ中”って書いてあるの?」
その文字はチョークではなく、“空間上”に浮かんでいた。
「しかも、フォントが明らかに“システム標準”じゃねぇか……!」
生徒たちは気づいていない。見えているのは、おそらく観測者だけ。
「璃桜ー!これ見て!俺だけ?幻覚じゃないよね!?」
「確認したわ。観測者ログ上にも出てる。これは明確な“空間表示干渉”。しかも“観測対象の現実”にのみ表示されるエラーメッセージ」
「要するに、“俺の目に見えてる世界”がバグってるってこと……?」
「ええ。つまり、翔太郎だけが、“世界の仕様書”に触れかけているの」
「そんなもん触れたくなかったあああああ!!」
翔太郎は顔を覆った。
昼休み。
さらに追い打ちがかかる。
購買でパンを選ぼうとしたとき、突然レジの上に文字が浮かぶ。
《選択:A. カレーパン B. メロンパン C. やめる》
「なんでギャルゲー式選択肢が浮いてるんだよ!!購買だぞここ!!」
翔太郎が思わずBを見つめた瞬間、“ピロン”という効果音が脳内に鳴り響いた。
《選択:Bを実行します……》
店のおばちゃんが満面の笑みでメロンパンを渡してきた。
「お、おい、これ完全に“現実の分岐操作”されてるよな!?」
「“選択の視覚化”……それも“外部意思によるナビゲート”の可能性が高いわ」
「つまり、俺が“自由に選んでるつもり”だっただけで、もしかしたら“選ばされてた”ってこと!?」
翔太郎の心に、“自分の選択の正体”が重くのしかかってくる。
5限目、数学。
教科書を開いた瞬間、ページの余白に浮かぶ奇妙な記号。
《パターンB-13:正答誘導中》
「うわあああ!!やめてくれ、数学にまで構造出てくるのやめてくれぇぇ!!」
「翔太郎、静かにしなさい!」
「すいません先生!!でも今、数式の横に“パターンID”が出てるんです!!」
「……保健室行く?」
「ほんとに俺だけなんだなこれ!!」
放課後。
翔太郎は、半ば呆然としながら帰路に就いていた。
いつもの道、いつもの信号、いつもの公園。
だが、ふと目を逸らした一角で、“現実が一瞬だけノイズの縞模様”になる。
「ぐっ……!」
頭を抱える翔太郎。
そのとき、何かが聞こえた気がした。
風ではない。“誰かの呼びかけ”のような、しかし言葉にはならない“意志のざわめき”。
そして、街灯の支柱に、小さなプレートが貼られていた。
【観測者ログ:都市モデルB-44 検出エラー中 修正:未完】
翔太郎は立ち止まる。
「これが……“俺たちの世界”の正体……なのか……?」
遠くから璃桜が駆けてくる。
「翔太郎!」
彼女が差し出したノートには、こう書かれていた。
《観測者の一部が“階層の断層”に触れている。現実の“厚み”がズレ始めている》
翔太郎は空を見上げた。
ビルの隙間から見える夕空が、どこか“背景画”のように見えた。
「俺たちの世界……本当に“ここ”にあるのか?」
「じゃあさ……俺たちが“ここ”で見てる世界って……ほんとに“現実”なのかな……」
ぽつりと漏れた翔太郎の声に、璃桜は静かに答えた。
「私たちが“観測者”になったその瞬間から、たぶんずっと、“現実”って言葉には揺らぎがあった。見えてしまった時点で、何かが“分離”されてたのよ」
「見えてるのに、触れない。“変えられるようで、何もできない”。まるで……」
翔太郎は口を噤む。
“物語の中の登場人物”になったような気がしたのだ。
誰かが描いたフキダシの中で、決まったセリフを喋る。偶然出会って、偶然行動して、偶然に導かれていく日々。
けれどその“偶然”が、全部“設定”だったとしたら?
「璃桜……俺さ、たまに“記憶”がずれることがある。“そんなことしてない”はずの行動を、周りが“やった”って言ってくる」
「……それは、現実が“書き換えられている”のかもしれない。“観測者の記憶”は一部、システム外に残る可能性がある」
「じゃあ俺、“一人だけ別のデータ”を持ってる可能性あるってこと……?」
翔太郎の声は、かすかに震えていた。
「他の誰かと違う記憶を持ってるって、なんかもう、“バグ”とか“バージョン違いのプレイヤー”みたいでさ……」
璃桜は、手元のノートを見つめながら小さく首を振った。
「翔太郎、怖いのはわかる。でもそれは“ズレ”じゃなくて、“観測者の特性”よ。“記録されなかった事象”を覚えてる人は、システムから見れば異物。でも、世界から見れば……真実の証人よ」
「でもさ、“俺の記憶”がほんとに正しいって、誰が証明してくれるんだ?」
翔太郎の問いは、夕暮れの色を帯びた空に溶けていく。
公園のベンチに並んで座る二人のまわりは、いつもの放課後と同じように見えた。
けれど、翔太郎の目には、風景の端々が“設計された仮想背景”のように見えはじめていた。
たとえば、空の雲。
たとえば、等間隔に並んだ電柱。
たとえば、決まった時刻に通る猫の足音。
「もしこれが“組まれた現実”なら、俺たちはどこまで自由に生きていいんだろうな」
璃桜は、少し考えてから答える。
「たとえ“世界の構造”が作られていたとしても、そこで“何を選ぶか”は、私たちの自由よ。翔太郎、あなたはいつも“無難”を選んできた。でも、それは“誰かに選ばされた”んじゃなくて、“あなたがそうしたい”って思ったからでしょ?」
翔太郎は返事をせずに、しばらく遠くを見つめていた。
(俺が無難を好んできたのは、自分を守るためだった)
(だけどもし、この“世界”が誰かのプログラムで、“役割”すら決められてるんだとしたら……)
(それすらも、シナリオ通りだったら?)
「……なあ璃桜。俺、“自分の選択”が本当に自分のものなのか、わからなくなってきた」
「……それでも、あなたは今、自分でここに来たわ」
その一言が、翔太郎の中の何かをすっと緩ませた。
しばしの沈黙の後、翔太郎はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ、俺は――もうちょっと“真実”に近づいてみるよ。自分の意思で。意地でもさ」
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
画面には、見覚えのない通知が浮かび上がっていた。
《観測者No.03:準管理層識別に接近中》
翔太郎が、ゆっくりとつぶやく。
「……“準管理層”って、なんだよ。もう完全に“RPGのラスダン”みたいなワードじゃねぇか……」
しかし、どこかで笑っていた。
世界の構造がどうであれ、自分の足で前に進むという選択肢だけは、今の自分が“本当に選んだ”ものだ。
(第20話 完)