「……ねえ、今“どうせ私が察ってくると思ってるでしょ?”」
「……は?」
璃桜は、唖然として立ち止まった。
放課後の図書館。
いつものように、窓際の定位置に腰を下ろそうとしたそのとき、背後からふわりと声をかけてきたのは、初対面の少女――長い髪を揺らし、目元に独特の落ち着きを湛えた人物だった。
「今、座ろうと思ったけど、“誰か来そうだから一度迷った”でしょ?けど、“この位置がやっぱり一番落ち着くから戻ってきた”のよね?」
「……え、いや、はい……あの、なんでわかったんですか……?」
「そういうの、だいたい伝わってくるから」
少女はさらりと微笑んだ。
「……あっ、あと“この人苦手かも”って思いかけてたでしょ?」
璃桜の口が半開きになる。
「ちょっと待って……え、なんなのあなた……なんで“内心”先回りされてるの……?」
「ううん、“言葉にする前”の気配って、実はかなり露骨に出てるんだよ。“察してる”って言われると怖いかもしれないけど、ただの“観察”だと思って」
「いやでも今、私が“怖いって思った”ことも察しましたよね!? もはや“空気読破”ってレベルじゃないでしょこれ!!」
そのとき、翔太郎が遅れて図書室に入ってきた。
「あれ?璃桜、どうした?なんか顔色……え?新手のアニマか?」
「ちょっと来て翔太郎!この人、“会話してないのに会話が成立する”タイプのアニマ持ち!!」
翔太郎がぽつりとつぶやく。
「それ、いちばん面倒くさいパターンじゃねぇか……」
少女は微笑んだまま、ふわりと首を傾げる。
「うん、たしかに面倒って思われるの、慣れてる。“会話する前から話が進んでる”って、言われるのよくある」
「今言ったそれ、“俺が思ってたこと”の3秒先を行ってるのなんなの!?もはや俺たち“補助輪付きの自転車”みたいな扱いじゃん!!」
璃桜が立ち上がる。
「待って、これ……放っておくと“相手の感情や選択を先回りして奪っていく”タイプのアニマよ。本人の意志が消えてく可能性がある」
翔太郎が戦慄する。
「つまり、周囲が全員“先回りされた反応”しかできなくなる。対話にならないし、自発性が消える。やばい、これ“共感型の最終形態”だ……!」
そして璃桜は、彼女に真っ向から向き合う決意をする。
「……なら、私は“考える時間”を守る。“先読み”に飲まれないで、自分の頭で、自分の言葉を探す」
少女はふんわりと微笑んだまま、こう呟いた。
「……ふふ、いいね。“そう言うだろうな”って思ってた」
図書館の空気は、静かだった。
だがそれ以上に、璃桜の胸の中に吹き荒れていたのは“沈黙の暴風”だった。
(なぜこんなに、言葉を発する前に“察されてしまう”ことが、ここまで苦しいの……?)
慎重に考えてから話すのが、璃桜の信条だった。ひとつの言葉が与える影響、その後の連鎖、感情の波紋――それらを吟味して、いつも“最適解”を選んできた。
だが今。
その“プロセス”ごと、土足で踏みにじられている感覚。
「……あの、ちょっと失礼ですけど、お名前は?」
「うん、聞こうかどうか迷ってたけど、“名前を訊いても返ってこないタイプかも”って思いかけたところで、踏み込んできたわね。えらい」
「いや、だから、今のは“質問の前振り”だったんですけど!?」
少女はにっこりと笑った。
「私は“ユノ”。まあ、本名でもコードでも何でもいいよ。こういう場所では“あだ名”の方がしっくりくるしね。“あなたがそう呼ぶ”って決めた名前でいい」
「じゃあ今のも、私が“何て呼ぶか迷ってた”って読み取ったんですか?」
「うん。“璃桜”っていう響き、きれいだね。“慎重だけど、心の奥には火がある”って感じがする」
翔太郎が思わずぼそっと漏らす。
「その解析力、今すぐ税務署で働いてくれ……」
璃桜は深く息を吐いた。
「ユノさん。あなたの能力……いえ、アニマの影響、私たち観測者から見て明らかに“現実歪曲”です。“思考の介入”に等しい」
「そうだね。“意識の発芽前に”その輪郭を先読みして、言語化しちゃう感じ。“共感”の過剰摂取ってやつかも」
「自覚あるんですね……?」
「あるよ。“私のせいで、他人が喋る意味を失っていく”ってことも」
璃桜は一瞬、言葉に詰まった。
その沈黙すら、ユノは先に読んでいたように微笑んでいた。
「でもね、璃桜。“考えてから話す人”って、実は“考える前に否定されること”にすごく弱いんだよね?」
璃桜の目が揺れる。
「今、“ドキッとした”でしょ?それも察った。ほら、また何かを言い返そうと、反論の組み立てを始めてる。けど、どこかで“言っても通じない”って諦めかけてる」
「……やめてください」
「うん。“お願いじゃなくて、命令として言えば届くかも”って考えかけた。すごく人間っぽくて、いいと思うよ?」
「やめてって言ってるのに、なぜ止まらないんですか!!」
その瞬間。
空間の温度が、わずかに揺れた。
周囲の空気が、ユノの一言一言に“共感反響”のように反応しているのが分かる。
璃桜は震える声で言った。
「私たちは、自分の言葉で、自分の思いを“外”に出して、初めて“他者と交わる”の。それを、全部“先に言われる”のは、“他人の脳内に勝手に入り込まれる”のと同じです」
ユノはふわりと目を細めた。
「……それでも、言葉にしないと、伝わらないこともあるって、知ってるでしょ?」
「だからこそ、“待ってほしい”んです。“私は私で考えていたい”って言う、ただそれだけの自由くらい、認めてほしい……!」
翔太郎は、そんな璃桜を見ながら、そっと彼女の背中を支えた。
「……璃桜。“言葉にする”って、“自分の形”を持つことだよな。例え、それがもう“読まれてた”としても――お前の言葉は、お前だけのもんだ」
璃桜はゆっくり頷いた。
そのとき、ユノの背後に浮かび上がる、淡い青色のアニマが、小さく震えた。
“共感型アニマ”――その心に、わずかな迷いの影がさした瞬間だった。
「璃桜ちゃん、すごいね。そんなふうに言葉にできるって、“もう答え出してる”ってことだもんね」
ユノの声は、依然として柔らかかった。しかし、先ほどまでの余裕とは、わずかに違って聞こえた。
璃桜は一歩前に出た。
「答えじゃありません。“考え続けたい”っていう、“プロセスの主張”です」
「ふふ、そっか。……私、昔から“空気を読むのが当たり前”だったから、それが悪いことになるなんて、思ってなかったんだよね」
ユノの目が、かすかに揺れた。
「家でも学校でも、“気を回す”のが得意って褒められてた。でも、ある日ふと気づいたの。“私の隣にいる人、みんな喋らなくなってた”って」
「……それは、“誰も話さなくてよくなった”んじゃなく、“話す意味がなくなった”んです」
璃桜は、はっきりとした声で続ける。
「ユノさん。あなたは、たぶん優しい人なんでしょう。人が困る前に手を差し伸べられるし、“こうした方が楽だろうな”って先に察してくれる」
「でも、“誰かの思考”って、“未完成のままの時間”を必要とするんです。曖昧で、揺れてて、不安で、それでも外に出そうとするその過程を、どうか奪わないでほしい」
ユノの肩が、すっと落ちた。
後ろに浮かんでいたアニマ――共感型の淡い青が、ふっと色を薄めていく。
「そっか。“助けたい”って思ってたのに、いつのまにか、“奪ってた”んだね」
「……ええ。でもそれに気づけるあなたなら、もうきっと、“共感”を押しつけないはずです」
翔太郎がぽそっとつぶやいた。
「なんか今日、璃桜がラスボスに説教して改心させるRPGみたいな構図だったな……」
璃桜が睨む。
「……もう少し真面目に聞いてください」
「すみませんでした!!でもマジでかっこよかったぞ、璃桜」
璃桜は顔を少し赤らめて、小さく頷いた。
ユノは最後に、微笑みながら言った。
「ありがとう。私も、もう少し“分からないふり”を覚えてみるよ。そっちの方が、たぶん“人と一緒に考えられる”から」
その言葉と共に、アニマの姿は、すっと風に溶けるように消えた。
誰かと“同じ気持ち”になるのは、悪いことじゃない。
でも、“その人の気持ちになる”には、踏み込む前に立ち止まる“余白”が必要なのだ。
図書館を出た夕暮れ時。
翔太郎が言った。
「……それにしても、今日はなんか疲れたな。会話するのって、案外体力いるんだな」
璃桜は目を閉じて、静かに笑った。
「でも、伝わったときは……ちゃんと嬉しいでしょう?」
翔太郎はうなずいた。
「まあな。“察される”より、“届く”ほうが、なんかいいって、思ったわ」
彼らの足音が、秋の石畳にやさしく響いていた。
(第21話 完)