「……お辞儀、してない」
その声が、校舎の廊下に響いたとき、空間が“ぴしっ”と音を立てて割れた気がした。
翔太郎は思わず振り返る。
何かが“崩れる”直前の、あの独特な静けさ。
そして、次の瞬間――
廊下の端が“バグった”ように歪み、ドアがすべて“90度以上開いていない状態”で固まり、通行不能になる。
「おい、これって……またアニマの仕業か!?」
翔平が靴を引きずりながら現れた瞬間、足元の床タイルが“ビシィッ”と音を立てて割れる。
その床に浮かび上がった赤文字は、こう告げていた。
《礼儀違反:靴音過大》
「うわああ!?え、オレの歩き方だけで!?今ので“空間破損”とか意味わかんねえ!!」
「翔平、ストップ!それ以上“無作法”なことをすると、この空間そのものが崩れるわ!」
璃桜が叫ぶ。
「お辞儀をしなかった」「声のトーンが乱れた」「“間違った敬語”を使った」――
そのすべてが、空間のひび割れや、扉の開閉不良、壁の歪みといった“現実の歪曲”として現れ始めていた。
そんな混乱の中、ひとりだけ、恐ろしく平然と歩く男がいた。
真吾だ。
制服の襟は正しく留まり、姿勢はまっすぐ。靴音も規則的で、曲がる角も90度ジャスト。
「……この空間、僕にとっては普通です」
「普通じゃねぇよ!?ルール守らないと世界壊れるとか、どんな“社交的パニックホラー”だよここ!!」
翔太郎が半泣きで叫ぶ。
「これは……“礼儀遵守型アニマ”が発現してる。対象の思考と空間が共鳴して、“失礼な振る舞い”が現実を破壊するフィードバック構造に……」
璃桜のノートが震える。
「つまり今、“マナーを守らないと世界が滅ぶ”異常空間が発生しているのよ!」
翔平が手を挙げた。
「えーと、つまり……今って、“ごめんなさい”とか“失礼しました”とか、ちゃんと言えば許されるんじゃないの?」
その瞬間、背後の壁が“ズドン!”と崩れ、そこから赤い文字が浮かぶ。
《反省の語彙:軽薄すぎて不認証》
「俺の謝罪、軽すぎたああああ!!」
翔太郎は天を仰いだ。
「真吾ォ!もうお前しか頼れる奴いねえ!!この空間、どうやったら元に戻るんだよ!!」
真吾は、ゆっくりと振り返った。
そして、静かに言う。
「本当の“礼儀”とは、“形”ではなく“敬意”です。“相手を思いやる心”をもって言葉を発すれば、空間は反応を止めるかもしれません」
その言葉の直後、空間の揺れが一瞬止まった。
「……まさか、“マナーそのもの”じゃなく、“気持ち”の方を見てるってこと……?」
「そう。“形式を守ればいい”って勘違いした瞬間、このアニマは暴走する。“心の込もった一礼”――それが、この呪いの解除条件だと思います」
翔太郎たちは、静かに姿勢を正した。
礼儀とは何か。ルールとは何のためにあるのか。
そして、なぜ真吾が“誰にでも丁寧”なのか。
その答えを見つけるため、彼らは“礼儀地獄”の中を進み始める。
「ようこそ、礼儀の迷宮へ」
そう黒板に浮かび上がった文字は、明らかに“おどけたフォント”だった。
教室の中――かつて見慣れた空間だったはずのそこは、今や完全に異質な“儀礼空間”と化していた。
机と椅子は整然と並び、全ての足が黒板に対して角度を揃えている。壁には「姿勢正しく」「敬語厳守」「無言入室」といった札が貼られ、ドアノブには「ノック二回、間隔0.8秒」の注意書き。
「こんな世界……俺が高校デビュー前に妄想してた“超厳粛学園”そのまんまだ……」
翔太郎が震える中、翔平が気軽にドアを開けた――瞬間。
《礼儀違反:ノック省略》
ズドン、と天井のライトが一つ落ちた。
「ひえっ!?なんで!?“開けただけ”じゃん!!」
「ノックしなかったからよ!いや、逆に言えば“ノックしさえすれば”安全だったのよ!!」
璃桜が叫ぶ。
「この空間、すべての振る舞いが“儀礼的意義”で判定されてる!もう“文化祭の演劇部よりも厳格”よ!」
真吾は、まるで自宅のように振る舞っていた。椅子を静かに引き、軽く一礼して座る。視線は常に相手の目を見すぎず、逸らしすぎず。まるで“礼儀の教科書”が人間になったようだった。
「……これ、完全に真吾の“内面空間”だよな?」
「ええ。というより、真吾の“礼儀観”がアニマによって物理空間に投影されてる」
翔太郎がぽつりとつぶやいた。
「でも、なんかおかしいんだ。“真吾の礼儀”って、もっと……柔らかかった気がする」
翔平がうなずく。
「そそ、真吾っていつも“ちゃんとしてる”けど、俺らがふざけてても“苦笑いで許してくれる”だろ?」
「そう。だからこそ、今のこの空間……“真吾本人の本質”とズレてるのかもしれない」
璃桜の推測に、翔太郎も顔をしかめる。
「“丁寧であること”が、いつのまにか“強制”になってる。たぶん、真吾がそれに“無自覚”でいると、この空間は暴走する」
そのとき、天井の角からひとつの文字がスーッと浮かび上がった。
《正座しろ》
「いやいやいや!?唐突な命令形!?いきなり“軍隊式”に変わったんだけど!!」
翔平が笑いながら椅子にふんぞり返ると、椅子が爆発音とともに吹き飛んだ。
《背筋違反:反抗的態度》
「俺、何もしてねぇぇぇ!!」
翔太郎は額に手をあてた。
「いや、お前がいちばん“何かしてる”ように見えるよ……!」
真吾はゆっくり立ち上がり、空間を見渡した。
「……これは、僕が“我慢してきた感情”が形になってる。“本当は怒ってるのに、怒らなかったこと”が……呪いになって出てきたんだ」
その言葉に、一同が静まり返る。
「じゃあこの空間……真吾が“丁寧に我慢してた分”、どんどん“強制的になってる”ってことか」
「ええ。そしてそれは、“本当の礼儀”とは違う。“抑圧された怒り”が作った、もう一つの仮面よ」
璃桜が低く言う。
翔太郎が言った。
「真吾、お前が“礼儀の意味”を思い出せば、この空間、止まるんじゃねぇか?」
「……礼儀の意味……」
真吾は、小さく頷いた。
その目の奥に、いつも彼が見せなかった“感情のざらつき”が浮かび始めていた。
「僕が……怒ってる……?」
真吾は、空間の中心に立ちながら、指先をじっと見つめた。
そこに浮かぶのは、真っ白な手袋――それは、彼の“礼儀”が形となった象徴だった。
「たしかに、今まで何度もあった。“なんでこんなことを言われても、笑って返さなきゃいけないんだ”って思うこと……“自分だけ我慢してる”ように感じたこと……」
静かに、だが確かに。
その言葉と共に、天井の札が一枚、ひらりと落ちた。
《形式依存度:0.98 → 0.72》
「この空間は、僕の中にある“歪んだ思い”が作り出してる。でもそれは、“礼儀が悪い”んじゃない。“自分の気持ちを置き去りにした礼儀”だったんだ」
翔太郎が、そっと後ろから声をかける。
「真吾、お前が人に丁寧なのって、“マナー”を守るためじゃなくて、ちゃんと“人を見てる”からだろ?」
翔平も続ける。
「そーそ。お前、俺らがアホなことしても、いつも“どうした?”って聞いてくれるじゃん。それって、形じゃなくて、“気にかけてくれてる”からだろ?」
真吾の中で、何かがふっとほどけた。
「……そうか。僕が本当にしたかったのは、“正しさの押しつけ”じゃなくて、“不安のなかでも、ちゃんと向き合いたい”ってことだったんだ」
空間の壁が、みしり……と音を立てて“柔らかく”なっていく。
《感情受容:進行中》
しかし、まだ足りなかった。
そのとき。
「ごめんっ!!」
突然、翔平が土下座した。
「えっ」
「オレさ、真吾がニコニコしてるの、“余裕あるやつ”だと思ってた。でも、そうじゃなくて、“怒らないようにしてた”だけだったんだなって、今さらわかった」
「翔平……」
「だからさ。もしオレが今まで無礼だったんなら、ちゃんと怒ってくれ。“許す”だけじゃ、相手には伝わらないこともあるからさ」
その言葉に、真吾はハッとした。
(そうだ。“礼儀正しい”って、怒らないことじゃない。“怒る時にこそ、相手を思って言えるか”が、本当の丁寧さなんだ)
「翔平。君は……本当に無神経だった」
「うっ」
「でも、そのぶん、正直だった。僕も、これからはちゃんと……思ったこと、言っていくよ」
真吾が静かに手を合わせた瞬間、空間の中心に浮かんでいた“礼儀型アニマ”が、すぅっと小さく一礼して――
光となって消えた。
空間は、静かに元の教室へと戻っていく。
その静けさは、どこか心地よい。
翔太郎がぼそっと言う。
「礼儀って、やっぱ怖えな……形式が過ぎると、世界壊れるのかよ……」
璃桜が苦笑した。
「でも、気持ちの通った一言は、どんな形式よりも空間を救うってことよ」
翔平が、真吾の肩をポンと叩いた。
「じゃ、今度からは“お前がツッコミ役”でな。ちゃんと怒ってくれよ、頼むから」
真吾は、少し照れながらも、しっかり頷いた。
「……わかった。次は、“失礼します”じゃなくて、“おい翔平”から始めるよ」
三人の笑い声が、やけに静かな教室に響いた。
(第22話 完)