朝の通学路。
「今日も元気にいっくよおおおおおおおおお!!!」
突如、全力で叫びながら角を曲がってきたのは、他でもない緑だった。
通学中の生徒たちが一斉に振り向き、口をぽかんと開ける中、翔太郎は弁当袋を落としそうになった。
「うおっ!?なに!?なんでサンライズと共にライブ会場みたいなテンション!?」
「おはよう翔太郎ー!!璃桜ー!!いやー、空気がうまい!道も硬くて歩きやすい!!人間って生きてるってだけで最高だね!!」
「ちょ、待って、なんかすごく“ハイ”なんだけど!?緑ってもともと元気なタイプだけど、これは明らかに“ギア3段階くらい上がってる”でしょ!?」
璃桜が鋭く観察する。
「……脈拍、上昇中。瞳孔開いてる。“過剰な喜び反応”を維持しないと、“存在感が希薄化する”呪いに取り憑かれてるわね」
「なんだよその“テンション依存型存在保証”みたいな現象!!存在ってもっとこう、“地味でも確かにある”もんじゃなかったのか!?」
緑はすでに、近所の幼稚園児と即席で“朝の体操ショー”を開催していた。
「さあみんな!いくよー!?元気100倍!はい、ジャンプ!!」
子どもたちは大喜びだが、その背後で教職員が泣きながらスマホを構えていた。
翔太郎は額に手をあてる。
「ダメだこれ。もう登校じゃなくて“移動型カーニバル”だわ」
そのとき、緑の動きが一瞬止まった。
「……あれ……あれあれ……?なんか、空気……薄くない……?」
その場の色が、すっと褪せていく。
肌が、影が、輪郭が――彼女自身が“薄く”なっていく。
璃桜が叫ぶ。
「やっぱり!“テンションが下がると存在が薄くなる”呪い!つまり、“常に場を盛り上げ続けなければならない”という負荷が強制されてる!」
「なんだよそれ!?ハイテンションが義務化されてるって、これもう“文化祭の実行委員会の地獄ループ”じゃん!!」
翔平が横から言う。
「まさか、“自分が元気じゃないと誰かが困る”って思い込みが、現実を変えてる……?」
翔太郎は口をつぐむ。
「それ、……一番、しんどいやつじゃん」
明るく振る舞うことが正しいと信じてきた緑。
でも、それが「やらなきゃ消える」強制になったとき――
その明るさは、救いではなく、呪いになる。
翔太郎たちは、彼女の“テンションの迷路”の中へ足を踏み入れていく。
「やばいやばいやばい!このままじゃ私、消えちゃうってば!」
緑は笑っていた。いや、笑顔の“かたち”はしていたが、その目の奥にあったのは、明らかに焦燥だった。
「ほら!じゃあ次は……えっと……あれだよ、ギャグ!ギャグいきます!“校門開けたら校長先生が四つん這いで給食運んでたァ!!”」
「どんなギャグ!?いや、ツッコむ余裕ないって!!」
翔太郎は必死に腕を振って止めようとするが、緑の勢いは止まらない。むしろテンションが限界突破して、すでに“壊れかけた遊園地のマスコット”みたいな動きになっていた。
「うふふふっ!!見て!私、全力で元気!元気があれば!だいたいなんでもできる!!」
「アントニオな理屈じゃなくて現実的に無理が出てるんだってば!!」
璃桜が、急いで緑の周囲を調査する。浮遊する微細なアニマの反応。感情領域を干渉するタイプ――その性質は、まるで“感情の再生産工場”。
「このアニマ、“周囲のテンション”を吸って膨張してる。つまり、緑が上げた分だけ、自分も引っ張られるように上がっていってるの」
「そんなん、“テンションで自己燃焼してる”ってことかよ!?そりゃあ疲れるに決まってる!!」
「でも、やめたら薄くなる。彼女自身が“存在を保証する条件”を、“明るさ”だと思ってる限り、この現象は止まらない」
翔平がぽつりと呟いた。
「……あの子、いつも誰かの空気を明るくしてたよな。誰かが黙ると、必ず笑ってごまかす。怒ってる人がいると、“まぁまぁ!”って走ってくる」
「……ああ、“誰かが元気じゃないと自分も元気でいられない”んじゃなくて、“自分が元気じゃなきゃ、周りが元気でいられない”って、思い込んでるんだ」
翔太郎は、彼女の背中を見つめる。
その姿は、今日も笑っている――だが、それは“笑顔”というより、“仮面”だった。
「緑……本当に、“元気”でいたいのか?」
ふと、緑の動きが止まった。
「え……?」
「じゃなくて、“元気じゃなきゃいけない”って思ってるだけなんじゃないのか? 本当は、ちょっと疲れてるんじゃないか?」
緑の肩が、ぴくりと揺れた。
その瞬間、彼女の足元から、ぼうっと青いもやが立ち上がる。
《感情反転反応:抑圧の限界》
アニマが、正体を現し始めた。
「うっそ!?これ、めっちゃでっかいんですけど!!なんか人型!?しかも笑ってるけど目が笑ってない!!」
「それ、緑の“笑顔の執着”が具現化したものよ。今の彼女は、自分の“素直な感情”を出すことが、“他人に迷惑をかける”って思い込んでる」
緑の手が震え始める。
「……だって……誰かが落ち込んでたら、代わりに笑わなきゃって思っちゃうじゃん……私が暗いと、周りまで空気悪くなる気がして……」
「……そうやって、どんどん“無理して笑う”ことが“自分らしさ”になっていったんだな」
翔太郎の胸が締めつけられる。
そんなに明るい子だったのに――そんなにみんなを励ましてきたのに――
「緑、お前が元気でいなくても、俺たちは“ちゃんとお前のこと好きだ”って、誰かが言ってあげなきゃダメだったんだ……!」
その言葉に、緑の目に涙がにじむ。
笑いながら、ぽろぽろと泣きながら。
「そっか……“元気でいなくても、いい”んだ……?」
その瞬間、空間を取り巻いていた異常な明るさが、ゆっくりと静かに、消えていった。
光がすうっと収束していった。
暴走していたアニマ――緑の“無理な明るさ”を具現化したそれは、彼女の涙を見届けたかのように、静かに霧のように消え去っていった。
「……ふぅー……ごめん、なんか、すごい騒がせちゃったね」
緑は地面にぺたんと座り込んで、へらりとした笑みを浮かべた。けれどそれは、さっきまでの“無理に張り付けた笑顔”とは違う、“力の抜けた”ものだった。
翔太郎はその隣に腰を下ろす。
「……緑。さっきまでのお前、たぶん“明るい”ってより、“暴れてた”って感じだったよ」
「うん、わかる。もう自分でも“誰だっけ私”って思うぐらいテンションの台風だった」
「でも、“そうでもしないと不安だった”んだろ?」
緑は頷いた。
「誰かが困ってたり、落ち込んでたりすると、“私が元気でいなきゃ”って思っちゃうの。ほら、私って楽天的で“明るい役”でしょ? その空気、壊したくなかったんだ」
「でもさ、空気を壊さないって、それ本当に“守ってる”って言えるのか?」
翔太郎の声には、いつになく真剣な色があった。
「だって、緑が“疲れてること”を伝えてくれなかったら、俺たちは“どうすればいいか”もわかんなかった」
緑は目を伏せ、膝を抱えるように丸まった。
「……そっか。私……誰にも、“元気じゃない私”を見せてなかったんだ……」
翔平が後ろからやってきて、ポン、と彼女の頭をわしわし撫でる。
「まあ元気じゃないときは、元気じゃなくていいってだけだよ。そんで、元気出てきたら、また笑えばいい。単純でしょ?」
「……翔平って、時々すごく核心つくよね」
「まあ俺、核心以外はだいたい適当だからな!」
緑が笑う。その笑いは、小さくて、震えていて――それでも心の奥から出ていた。
璃桜がそっと、言葉を添える。
「あなたの明るさは、誰かに必要とされていた。でも、それは“強制された笑顔”じゃなく、“心から笑ってくれるあなた”だからこそ、意味があったの」
「……そっか。うん。ありがとう」
緑は立ち上がった。よろけながらも、ちゃんと足で立っていた。
「……私ね、“元気キャラ”って、便利なんだよ。突っ込まれないし、空気を軽くできるし、なんとなく“好かれる”感じになる。でも、今日ちょっとだけ思った」
「無理に笑ってると、自分が“どんな顔してるか”わかんなくなるんだよね」
翔太郎は、静かに頷いた。
「だから、次からは“元気じゃない緑”もちゃんと見せてくれ。そしたら、俺たちもちゃんと“本物の元気”の時に、ちゃんと一緒に笑えるからさ」
その言葉に、緑の目にまた涙が浮かんだ。
けれど、今度は誰も“テンション上げろ”とは言わなかった。
翔平がカバンから飴を取り出して渡す。
「ほら、糖分とっとけ。泣いた後って甘いもんが染みるからな」
「ありがと……って、コーラ味かあ……それ、テンション上げろって意味でしょ!」
「いや違う、残ってたのそれだけ」
「残ってたなら仕方ない!!」
三人のやりとりに、璃桜がふっと笑った。
その瞬間、夕焼けの中、かすかに金色の蝶のようなアニマが舞った。
それは、どこまでも軽く――どこまでも自由だった。
(第23話 完)